映画「Rodeo ロデオ(原題:RODEO)」を、ザ・シネマメンバーズの配信で観た。
この映画は2022年のフランス映画で、映画のジャンルは犯罪バイクドラマだ。
この映画の主人公は、ジュリアというノンバイナリーの身体的女性だ。母親と男兄弟と暮らしていて、暮らしは良くなく、フランスの移民の母子家庭の貧困層にあたるだろう。ジュリアは、貧困家庭に生まれた非行少女と見ることができるかもしれない。
ジュリアの生まれたのはメキシコのグアダルーペ島だと、ジュリアが言うシーンがある。とすると、ジュリアはフランスに移民として渡ってくる前は、メキシコの西側にある小さな海と鮫に囲まれ、火山のある温暖な島に生まれたことになる。
ジュリアの相棒になるカイスという青年は、ジュリアの出身地を知った時に、ビビるというか、驚いた表情をする。カイスはBモルというバイク窃盗集団でバイク乗りの集団のメンバーだが、不良でカッコつけているカイスがビビるのは、クスっとしてしまう。
2022年にフランスに移民をしてきた人数は、32万人を超える。多くは、治安が不安定なアフリカ大陸からの移民だ。ジュリアは、メキシコのグアダルーペ島の出身だ。ジュリアは移民として、非常にマイノリティーだと言うことができる。
それに加えて、ジュリアは世界的に見てもマイノリティーな民族に属すると思われる。グアダルーペ島の住民は、2010年の調査で213人だ。2015年の調査で150人より少し多くの人が永住民だとある。つまり、ジュリアはグアダルーペ島の現地民だとすると、グアダルーペ島に住んでいる仲間が150人くらいしかいないことになる。ジュリアは、マイノリティーだ。
ちなみに、グアダルーペ島は火山島で、グアダルーペ島の火山はスフリエール山(グアドループ)と言い、1843年の2月8日にこの火山が原因の地震で5000人が死んでいる。1976年に山に火山活動が観られたため、島の住民7万2000人が避難をしている。ジュリアの生まれた島は、周りの海にはサメがいて、内地は火山が活動しているという非常にシビアな環境だ。
ジュリアは、ノンバイナリーだ。ナバホ族などのネイティブ・アメリカン、ニュージーランドのマオリ族、オーストラリアの現地民には、昔からノンバイナリーの存在が認識されてきた。きっと、西欧でもアジアでもラテン・アメリカでも、昔から、一時的に近代化によって隠されたかもしれないが、ノンバイナリーな人は存在しただろう。
ジュリアはきっとグアダルーペ島の現地民の血をひいている。きっとグアダルーペ島の現地民の間ではノンバイナリーの存在が、近代化したフランスよりもフラットな感じなのではないか? それは、とある現地民がノンバイナリーに寛容なように。
この映画「ロデオ」には、ノンバイナリーに寛容でない人物が存在する。それは、Bモルのバイク置き場となっている車庫の持ち主ベンだ。ベンは、ジュリアがBモルのリーダーのドミノに気に入られているのが気に入らない。
ベンは、単にジュリアがノンバイナリーであり、女性でも男性でもないことが受け入れられないのか? それとも、ジュリアがドミノに気に入られているのが気に入らないのか? それは、その両方かもしれない。
ジュリアは、ベンに人として認められていない。それは、ジュリアにとっては生きる障害だ。この映画「ロデオ」には、ジュリア以外にも、人として認められていない人物が存在する。それは、ドミノの妻であるオフェリーとその子供キリアンだ。
ドミノは警察に捕まって、刑務所の中から、Bモルのメンバーやオフェリーを支配している。ドミノは、家父長的支配者と言っていい。特に、オフェリーはドミノの家父長制的支配でがんじがらめになっている。
オフェリーは、たまの気晴らしの面会もできない。なぜなら、オフェリーが外出や外泊をしていると、ドミノに面会に行かなくなり、ドミノが寂しくオフェリーに嫉妬するからだ。オフェリーは、ドミノの部下に監視されおり、家の外に出れない。
オフェリーが家の外に出れないことは、オフェリーが家父長制の外に出れないことを視覚的に現わしている。そして、ドミノとオフェリーの子供であるキリアンも、ドミノの家父長制支配から抜け出すことができない。
家父長制の番人は、ドミノと同じ、男たちだ。ドミノは刑務所の中だ。だから、普通だったら、オフェリーとキリアンは、家の外にいようがいまいが自由だ。だが、オフェリーとキリアンの自由を許さない人物たちがいる。それが、ドミノの部下の“男たち”だ。
ドミノに囚われたオフェリーとキリアンを、家=家父長制の外に連れ出す人物がいる。それは、ジュリアだ。ジュリアは、ノンバイナリーが人としておそらく認められるグアダルーペ島に住んでいた現地民だ。
ジュリアは、家父長制の息苦しさに空気を入れる存在だ。ジュリアは、家父長を破壊するというより、家父長制の悪いところを訂正する、ノンバイナリーの身体的女性だ。ジュリアの行動に、オフェリーとキリアンは解放されて笑顔を取り戻す。
ジュリアンのノンバイナリーという現地民的生き方に馴染まないのが、Bモルのリーダーのドミノと、Bモルの車庫の持ち主ベンだ。ジュリアは映画中に、ベンと対決することになる。Bモルという集団自体が、非常に家父長制的集団であることは言うまでもない。
ノンバイナリーのジュリア。ジュリアが家父長制的な窃盗集団Bモルに入ることにより、この窃盗集団に変化をもたらす。それは、この映画では、ドミノの妻オフェリーの変化にそれは現れているのかもしれない。しかし、ジュリアの動きに気付いたドミノは、ジュリアをオフェリーに近づけなくするが。
グアダルーペ島の現地民の中でのノンバイナリーは、多分社会的地位を確立しているのだろう。その辺りを明確に知りたい気もする。この映画は、近代化した家父長制に迎合する社会と、グアダルーペ島の現地民のノンバイナリーを認める生活との比較を描いているのだろう。
近代化した家父長制は、とても息苦しいものだ。家父長である男が家族を支配する。それは、女性や子供にとってはとても息苦しいものだ。そして時に、家父長制は家父長をも息苦しくする。
映画中ジュリアは家父長制的生き方に対して言う。「変なの」と。家父長制的生き方は、ジュリアには非常に不自然に映る。なぜなら、家父長制にがんじがらめになっているオフェリーは、自ら家父長制に従い、自分で自分を拘束している面もあるからだ。
女性の経済的自立が、この場合ネックになっているのかもしれない。開かれた世界、それは近代化した社会を超えていくことだ。近代化の下の家父長制を超えていくこと。リベラルだと思われているフランスの映画が、提示するテーマは家父長制の克服だ。