映画「ハンナとその姉妹(原題:Hannah and Her Sisters)」を観た。
この映画は1986年のアメリカ映画で、映画のジャンルはコメディ映画だ。
この映画の主な登場人物は、ハンナ、ホリー、リーという三姉妹だ。ハンナには、エリオットという夫がいる。また、ハンナには元夫ミッキーがいる。ホリーは、デービットという建築家の男が好きだ。リーは、フレデリックという画家と付き合っている。
エリックはハンナに対する落ち着いた愛情とは別に、三女リーに対して性欲をメインとした愛情を抱いている。ハンナは舞台女優として成功しており、エリックはハンナが自分のいうことをきく女でないことに不満を持っている。そう、いわゆる男尊女卑だ。
リーは、フレデリックという男性と付き合っている。フレデリックは、リーが家に帰ってくるといきなりナチスドイツの番組の批判をしだしたりする。自分の絵を売る際にも、買い手に対して切れる。フレデリックは、気難しい男だ。
リーは朝からアルコールを飲む習慣を、フレデリックから受け継いでしまい、アル中になっている。しかもリーは学校に通うわけでもなく、仕事をしているわけでもない。リーは生活をフレデリックに頼り切っていると同時に、精神までもフレデリックに左右されている。
フレデリックはそんな自身の態度を、リーに対する教育だと言う。リーはフレデリックの態度に疲れている。エリックがハンナにないものをリーに求めていたように、リーはフレデリックにないものをエリックに求めている。
ホリーは自分と同じ女優志望のエイプリルと一緒にオーディションを受けたり、ケータリングの仕事をしたりしている。デービットという建築家の男をホリーはエイプリルと同時に好きになるが、デービットはエイプリルに気があるようだ。
この映画は、幾つかの部分に分かれて構成されている。その部分の最初には、黒い背景に文が浮かび上がり、その文がその章の導入になっている。一つの物語が何章かの短い部分に分かれているのがこの映画の特徴だ。
この各章に映画が分かれている構成は、スウェーデンの映画監督、イングマール・ベルイマンの映画「ファニーとアレクサンデル」から影響を受けている。映画「ハンナとその姉妹」の監督のウディ・アレンは、その他の映画でもイングマール・ベルイマンからの影響を受けている。
ウディ・アレンは、ベルイマンの他にもフェデリコ・フェリーニの影響を受けているとも言われている。ウディ・アレンの1980年の映画「スターダスト・メモリー」は、フェリーニの8 1/2から影響を受けている。
他にも、ベルイマンの1955年の映画「夏の夜は三たび微笑む」に影響を受けて、ウディ・アレンが撮ったのが1982年の「サマー・ナイト」という映画だ。この映画「サマー・ナイト」は、アリ・アスター監督の2019年の映画「ミッドサマー」に影響を与えている。
ウディ・アレンは、コメディを得意とする映画監督だ。なぜウディ・アレンがコメディを撮るのか? そのヒントが「ハンナとその姉妹」の中に出てくるように思われる。
映画「ハンナとその姉妹」ではウディ・アレンは、ハンナの元夫のミッキーを演じている。ちなみにミア・ファローはウディ・アレンと1980年から1992年まで実生活で付き合っていて、2人の関係の破局の頃には、ウディはミアから、ミアの7歳の娘に性的虐待をしたという訴えを受けている。その事実をウディは否定して、申し立ては調査の結果、証拠不十分で退けられている。
ミッキーは、病気恐怖症の男だ。自分が何か重い病気にかかっていないかと、医者の精密検査を何度も受けている。つまり、ミッキーは死の恐怖に憑りつかれている。ミッキーはユダヤ教徒であるが、救いを求めてユダヤ教から改宗をしようとしている。
ただその改宗も、何度も思いとどまる。キリスト教徒になろうとしたりするのだが、死の恐怖から逃れるのが目的なので、その宗教の神を信じているわけではないからだ。
病気の疑いを持って医者に行き、医者で病気の疑いがないと言われると歓喜に一時的に包まれる。その繰り返しだ。改宗に関しても、新しい宗教を見つけて入ろうとするが、やめてまた違う宗教を探す。
無精子症のミッキーは、銃で自殺しようとして、銃は暴発する。それで一命をとりとめる。ミッキーは弾は入っているが、受精つまり死に至る能力は持っていない。しかし、その自殺未遂の件からミッキーは変わり始める。
ミッキーは、映画館でコメディ映画を観る。そこでは、人々が滑稽に動き回っている。そう、それを観てミッキーは気付くのだ。人生は喜劇だと。人生はよってみると悲劇。人生は遠くからみると喜劇。ミッキーは、人生をひいてみる力を手に入れた。
人生は喜劇だ。それはミッキーにとっても、きっとミッキーを演じているウディ・アレンにとってもそうなのだろう。いくら人生が悲惨でも視点を変えてみれば、それは喜劇のようだ。人生は自分が思っているよりも笑えるものだ。
ウディ・アレンは人生で、性的虐待の疑いのような危機に瀕している。性的虐待をしていたかどうかは証拠が不十分ということになっている。その真偽のことはよくわからない。ただ、それは事実だとしたら、償わなければならない罪だ。
その罪が無実だとしたら、ウディはとんでもない被害を受けたことになる。しかし、事実であっても、無実であっても、ウディにとってその訴えられた事実は辛すぎてとても重いものだっただろう。
疑わしきは無実。推定無罪。国によって訴えらえれた時に、個人の権利を守るために、この言葉は遣われる。冤罪を防ぐために。ウディは、その原則によって有罪を受けることはなかった。
男と女。不倫。幼児虐待。性とは人間の本質に近く、それは誰もが逃れることのできないものだ。その人間の不条理が、映画によっても、実生活によっても、ウディ・アレンの人生には現れている。