愛する人がいれば、そこに愛される人がいる

映画「愛がなんだ」を観た。

この映画は2019年の日本映画で、映画のジャンルは恋愛映画だ。

恋愛映画と言えば、愛し合う2人が一緒になって、結婚したりして終わりというのが大道だが、この映画ではそうはいかない。この映画で描かれるのは、永遠の片思いだ。しかし、この片思いの状況はこうも言える。愛する人がいるから愛される人が存在すると。

この部分だけをピックアップしてしまえば、片思いもそう悪いものではなくなるというものだ。

この映画の主人公は山田テルコという20代後半の女性だ。山田テルコは田中守と結婚式の2次会で知り合う。そして、山田テルコは田中守を好きになる。しかし田中守はテルコのことを好きになるわけではない。

この映画に登場する人物はすべて片思いの人たちだ。その片思いは実らない恋愛とでも言うことができるかもしれない。山田テルコもテルコが好きな田中守も、田中守が好きな塚越すみれも、テルコの友達の坂本葉子も、そして坂本葉子を好きな仲原青も。

この映画の登場人物はいわゆる、叶わぬ恋に生きる人たちだ。

通常の恋愛映画ならば愛し合って終わる。例えば、片割れが片割れに対して好きだと言い、その反対方向にも愛の矢印が向けられる。いわゆる相思相愛だ。

しかし、この映画の結論は違う。この映画は巷にあふれる愛だの恋だのの傲慢さを暴き立てる。愛されたい?私は愛している。それでそれ以上なんてあるの?

この映画は主人公テルコの愛し方からこう思わせる。「愛している人がいるから、愛される人がいるのだ」と。愛する方と愛される方のどちらかが重要かという問いがあるとする。愛していても、愛されていなかったらただの空回りで気がふれてしまうのではないか?そんな声が聞こえてきそうだ。

しかし、愛する人間は、愛される人間に対して愛を贈ることで、より尊いとされる愛される人間を作りだす。愛することなしに愛される人間は生まれない。愛する人間と愛される人間の力関係がこの映画の中では描かれる。

それは別の言葉で言えば、サド・マゾ関係ということもできる。愛する弱い立場の人間でも、愛される側を愛する側がコントロールすることができれば、愛する不利な者も、愛される側と対等に渡り合うことができるとこの映画の最後に示される。

この映画は結婚しておめでとう的な恋愛ドラマをはるかに超えるところで作られている。そしてこの映画はこの世の中すべての愛する人の背中を支え続ける映画だ。

愛されたことのない人でも、愛することができる。そして自分の自己保存のために、その完成の形を望まないことが愛を生きる秘密なのかもしれない。