親の子への嫉妬

映画「にんじん(原題:Poil de carotte)」を観た。

この映画は1932年のフランス映画で、映画のジャンルはドラマ映画だ。

この映画は、ジュール・ルナールの同名小説を原作にした映画だ。

この映画の主人公はタイトルにあるにんじんというあだ名を持った少年だ。にんじんの本名は映画のラストの重要な起点として使われる。にんじんの本名はその時明らかになる。にんじんの本名はフランソワという。

この映画では、フランソワには兄と姉いる。兄はフェリックスといい、姉はエルネスチヌという。フランソワは家族や地域の人たちからにんじんと呼ばれているが、それと同様にフランソワは自分の父と母のことを、苗字で呼ぶ。

フランソワは自分の父のことを、ルピックさんと呼び、母親のことをルピック夫人と呼ぶ。にんじんとはフランソワの母親がつけたあだ名だ。母親はフランソワのことをにんじんのように赤くて汚らしい子としてにんじんと呼んでいる。

学校でフランソワは父親と母親について質問をされると、父親のことをルピックさん、母親のことをルピック夫人と呼ぶ。フランソワの母がにんじんとフランソワを名付けたようにそこには愛情が欠如している。

この映画ではフランソワが家族の誰からも相手にされずに、一人で孤立して、地域の人からも孤立して、とうとう自殺を図るに至るところから、父との関係の修復の過程までが描かれる。

フランソワは家族からも地域からも見放された存在だ。フランソワの相手をしてくれるのは、アネットという使用人と、フィリップというおじさん、そして幼い恋人のマチルドだ。そして実はフランソワと同様に孤立している人がいる。

それはフランソワのことを苛め抜く、フランソワの母親だ。フランソワの母親は、家族からも地域からも浮いている。母親はフランソワが周囲に受け入れられることが気に入らない。母親は子のフランソワに嫉妬する。

なぜか?それはフランソワが母親自身がなじむことのできない世間に受け入れられるからだ。母親にとっての世間はまずはフランソワの父だ。この映画の公開された当時は、父親とは世間とイコールで結ばれていた。

フランソワが父親に気に入られること。それは世間に受け入れられることだ。

ではなぜフランソワが世間に気に入られて、フランソワの母親は世間に気に入られないのか?それは母親の存在は、文字通り母としてしか世間に承認されないからだ。母親失格だったらそれは人間失格のことだ。

この映画でフランソワのように自殺してしまいたいのは、フランソワの母親もそうなのではないだろうか?

家では家族から相手にされず、近所づきあいも下手で、フランソワの母親は母親失格と自分でわかっている。自分は母親失格で世間から見放されている。それはフランソワがかわいい子供ではないからだ。母親はフランソワを憎む。

母親に向いていない人もいる。夫を子供を愛せない人がいる。しかし、それは母親や父親だけの責任ではない。親という理想像を生きることが不得意な人に、親という理想像を当てはめようとするすべての人に責任はあるのだ。