必ず訪れる結末

映画「KIDS/キッズ(原題:Kids)」を観た。

この映画は1995年のアメリカ映画で、思春期の少年、少女たちを描いた青春映画だ。この映画の主要な登場人物を上げるならば、それは、テリーとその友達のキャスパーそして、テリーとキャスパーの知り合いの女の子ジェニーだ。

この映画に登場する場面は少年少女のはめを外した場面ばかりだ。学校のシーンとか、親と子の家庭的なシーンなどはほぼない。あるのは酒とドラッグとセックスに浸る十代のエネルギーの無軌道さだ。

テリーは処女の女の子とセックスするのにはまっているプレイボーイだ。キャスパーは酒とマリファナとスケボーが好きな男の子だ。ジェニーはテリーからHIVをうつされたと思われる少女だ。

この映画ではHIVに感染していると思われるテリーとジェニーのそれぞれのセックス・シーンがある。

映画の前半で、ジェニーは友達の付き添いという形でHIVの検査に行き、自分がHIVに感染していることを知る。そしてジェニーがテリーからHIVが感染したことをほのめかすようなセリフの後、映画を観る者はHIVの感染が拡大するのかどうか?に注意を注ぐことになる。

そう映画を観る者は、テリーが腰を動かすのを見ると、又、ジェシーがキャスパーにのりかかられているのを見ると、とても暗い気持ちになる。

この映画の最期はキャスパーの「Jesus Christ what happened?(おやまあ、一体何がおこったんだか?)」で終わる。その前のシーンでは、テリーが女の子の体と重なり眠る姿にテリーの言葉が被せられる。

「僕は若いしセックスしたくてたまらない」。この映画はHIVの暗さよりも「人はいつ死ぬかわからない。HIVでなくても」というような印象が強く残る。

HIVの検査の後で「死ぬのは嫌」と泣くジェニーは、死の宣告が下されているわけだが、その死の宣告を受けているのは果たしてジェニーだけなのか?

否違う。ジェニー以外にも死の宣告を受けている人々は沢山いる。HIVの患者がいるかもしれない。癌の患者がいるかもしれない。戦場で撃たれた兵士がいるかもしれない。あるいは…。

ジェニーへの死の宣告は、人類のすべての人に等しく訪れる。誰もが必ず死ぬ。死の宣告を知らずに死ぬ人もいるかもしれない。自らの死を知って死ぬ人もいる。ただ言えるのはジェニーの姿は人類の誰もが行く先だ。ジェニーの姿は死の前の人間の姿の1パターンだ。

人と人との繋がりというミクロ単位

映画「ビッグ・シック ぼくたちの大いなる目ざめ(原題:The Big Sick)」を観た。

この映画は2017年のアメリカ映画で、ロマンティック・コメディ映画だ。この映画の主人公はクメイル・ナンジアニというパキスタン生れで、シカゴに住むコメディアンだ。

クメイルは売れないコメディアンとしてステージに立っている。ショーが終わった後の席で、クメイルはエミリー・ガードナーという女性に声をかける。

エミリーはショーの途中に、クメイルに野次を飛ばした相手だった。エミリーはコメディアンを応援するために奇声を発したと言うが、クメイルは少し腑に落ちない表情をする。エミリーはクメイルに会う度に「私は今は誰とも付き合う気はない」と言う。

それには様々な理由があると思われるが、その一つの理由として、エミリーは離婚をしていたということもあると思われる。エミリーは言う。「ある時私は私と結婚した相手にドキドキがないと気付いたの。そんな結婚生活を私には受け入れられなかった」と。エミリーは恋に奥手になっていたのだ。

しかしクメイルのうまいアプローチもあって2人は何度も会うことになる。そんな中クメイルの部屋でエミリーはクメイルとお見合いをした女性の写真を見つける。それは小さな箱の中に入っていた。

エミリーは似たような箱にクメイルとの写真を入れていたので、エミリーのショックは相当なものだった。

そんな時エミリーは感染症による病気にかかりケンカ別れをしていたクメイルが成り行きから、エミリーの病気回復のためにエミリーを昏睡状態にする書類にサインをする。

エミリーの家族と連絡をとったクメイルはエミリーの父と母と一緒に病院で過ごすうちに、エミリーの父と母との関係を深める。

エミリーは昏睡状態から回復するが、当然のようにエミリーはクメイルを拒絶する。しかし時が経つと共にエミリーのクメイルに対する拒絶の気持ちも和らいでいく。

一方クメイルはコメディに対する姿勢をあらたにして、成功を手に入れるため、コメディに真摯に向き合うため、ニューヨークに行くことを決意する。そしてニューヨークのギグで、エミリーはクメイルに野次を飛ばすのだった。

この映画では、クメイルが中東出身ということもあってISISについての言及がみられる。クメイルが兄ナヴィードと話をしている最中に、兄ナヴィードは言う。「お前は白人女性と結婚する気なのか!?」とクメイルに対して怒鳴る。すると周囲にいる人々に配慮してクメイルは言う。「テロ反対」と。

2001年9月11日やISIS、中東とアメリカとの関係は国同士の関係では良好ではない。しかしもっとミクロの単位で見ると、つまり人と人との繋がりという面で見ると、そこには当然のように希望が見える。

生きる動機付けを欠かない人

映画「メメント(原題:Memento)」を観た。

この映画は2000年のアメリカ映画で、スリラー・サスペンス映画であると言えるのかもしれない。この映画の主人公はレナードという元保険調査員の男だ。レナードには妻がいた。しかし妻は生きておらず、レナードが仕事も持たずに動き回っていることが、この映画が進むうちにわかってくる。

レナードの妻は何者かに殺されたということがわかってくるのだが、それは誰がやったのか?ということは映画の謎だ。この映画の結果を言ってしまうとこうなる。

レナードは短期記憶障害であることを自ら利用して、自らの人生の動機づけを短期記憶障害のために得ることになる。レナードはこの障害を利用して自らが生きる意味を意図的に操作し、その操作の存在すら忘れてしまうのだ。

この動機づけによりレナードの人生は妻の死への復讐という形をとり、レナードの死まで続くマッチポンンプによって突き進み続けることになる。

この映画ではレナードの妻はレイプされて殺されたとか、レナードの妻は糖尿病のインスリン注射を短期記憶障害のレナードにされて死んだとか、レナードは保険調査員時代にサミーという男の件について担当して、サミーという男に自分の人生を結び付けたとかいうような内容が描かれている。

これらの内容が映画の中の事実かどうかということは、この映画にとっては大して重要ではないように思われる。この映画の中ではレナードの妻ついてこうして彼女は死にましたと特定される唯一の事実は登場しない。意図的にこの映画はそれを避けているように思われる。

この映画の中で重要なことは、レナードの動機づけの原因にあるのではなくて、レナードの動機づけがレナードの命がある限り続くということに重点が置かれている。

人間というものはその人間がどのような人生を生きてきたかということと、その人間がこれから何をするかによって規定されるのかもしれない。このうち前者の方に重点を置いて考えるのならば、人生とはその人の経験であるということができそうだ。

過去=その人の人生であり、過去=人間という図式が成り立つ。この映画の主人公の過去はこの映画では曖昧に描かれる。この映画では主人公の過去など関係ないと言っては言い過ぎかもしれないが、この映画では主人公の過去の実在性などは二の次なのだ。

この映画で重要なのはレナードが止まらないことだ。数分間という短いこま切れの人生の中でレナードは新たな事実をすべて忘れ去り、自らの命が尽きるまで永遠に動機づけを欠かない人間として生き続けるのだ。

イメージの反転

映画「バース・オブ・ネイション(原題:The Birth of Nation)」を観た。

この映画は2016年のアメリカ映画で、黒人奴隷制度が常態化していた19世紀当時に、白人の作った奴隷制に反して戦いを起こしたナット・ターナーの伝記映画だ。

この映画のタイトルは「バース・オブ・ネイション」というが、これはD・W・グリフィスが1915年に撮った黒人差別を全面的に擁護する映画のタイトルと同じだ。その1915年の映画の邦題は「國民の創生」という。(邦題は2016年の方がバース・オブ・ネイションで、1915年の方が國民の創生)。

國民の創生という映画では、黒人は馬鹿で悪いから正義である白人が懲らしめてやらなければならないという白人至上主義的な態度で作られた映画だ。そして2016年のこのバース・オブ・ネイションという映画では、その関係性が逆になっている。

つまり白人は暴力的で愚劣で汚い人間だから、黒人が正さなければならないという見方で観ることができる。

白人を優位に扱うか。それとも黒人を優位に扱うか。それがこの2本の映画にある明白な違いだ。

この映画バース・オブ・ネイションは黒人の差別を描いている。國民の創生では黒人を差別することは肯定されて、バース・オブ・ネイションでは黒人を差別することに対しての否定が描かれる。

そしてこのバース・オブ・ネイションには女性への差別も描かれている。この映画に登場する女性は、白人であっても黒人であっても、男性にしいたげられている。レイプされ、暴力を振るわれ、半人前として扱われる。

白人の女性はハウス・キーパーとしての役割しか与えられない。白人の女性は家の中にいるべきものとしてこの映画バース・オブ・ネイションでは描かれる。黒人の女性も、白人の女性同様に白人男性の性的欲求のはけ口になる。

ナット・ターナーの奴隷主であるサミュエル・ターナーの元にやってきた客人はセックスの相手にと黒人の女性奴隷を指し出すように要求する。この黒人女性には夫がいるが、もしこれが白人の男性間ならば決して起こらないことが起こり、妻であるこの黒人女性は白人男性の性の奴隷となる。

白人の間では禁じられていることが、黒人と白人の間でならOKになる。つまり暴力は白人から黒人に対してならば承諾可能なのだ。白人と白人の間ではダメ。白人と黒人の間でならばOK。

白人は自らの社会がもたらす禁欲によって生じる抑圧された欲求のはけ口を黒人に対してむき出しにする。

ナットは白人の世界をがんじがらめにしているキリストの教えから、自らの陥った地獄のような世界を明確に自覚する。そしてナットはキリスト教とアフリカの神を持つ者として死の世界へ旅立つ。

世界の26人の最もリッチな人々は、最も貧しい50%と同じだけ所有している(ガーディアン紙記事訳)

ガーディアン紙

 

超リッチ

 

この論説は2年以上前のものです。

 

世界の26人の最もリッチな人たちは、最も貧しい50%と同じだけ所有していると、オックスファムは言う

 

チャリティーの呼びかけでは、1%の富裕税は、学校に行っていないすべての子供に、十分な教育を与えるだろうと言っている

 

(写真)

2017年と2018年に、新しいビリオネアは2日ごとに生まれたと、オックスファムの報告は言う。写真:ブルームバーグ・ヴィア・ゲッティ―・イメージズ

 

ラリー・エリオット

 

グリニッジ標準時 2019年1月21日月曜日 0時1分

 

成長する世界の富の集中は、報告で強調された。報告では、世界の26人の最もリッチなビリオネアは、地球の人口の半分である最も貧しい人たちである38億人と、同数の資産を所有することを示している。

ダボスでの世界経済フォーラムのスタートで示された、年次の富のチェックが公開された。開発チャリティーオックスファムは、リッチな人はよりリッチになり、そして貧しい人はより貧しくなったのが、2018年という年だったと言う。

そこでは、広がっている富のギャップは、貧困に対する戦いを妨害していると言う。加えて、そこで言われているのは、1%の富裕税があれば、1年におよそ4180億ドル(3250億ユーロ)になることだ。その額は、学校に行っていないすべての子供に教育を与えるのに十分で、ヘルスケアを提供することにより300万人の死を防ぐことができるだろう。

オックスファムは言う。世界にまたがる2200人以上のビリオネアは、2018年に9000億ドル、富を増加させた。一日あたりなら25億ドルだ。非常にリッチな人の富が12%増加するのと対照的に、世界の人口の半分の最も貧しい人の富は11%減った。

その結果、報告はこうも言っている。世界の人口の半分と同じだけ所有するビリオネアの人数は、2017年の43人から、去年(2018年)には26人になった。2016年のその数は61人だった。

報告で確認されたことは以下だ。

金融危機後の10年で、ビリオネアの数は倍近くになった。

〇2017年と2018年に新しいビリオネアは、2日ごとに生まれた。

〇アマゾンのオーナーである、世界で最もリッチな男性のジェフ・ベソスは、彼の財産を1120億ドル増やしたと考えられる。彼の財産のちょうど1%は、人口1億500万人のエチオピアの保健予算と等しい。

〇英国最も貧しい人たちが払った実行税率は、最もリッチな人たちより高い(英国の最も貧しい人たちの実効税率が49%なのに対して最もリッチな人は34%)。それはリッチな人たちが、以前払った付加価値税のような消費においての課税を、考慮してもだ。

キャンペーンとポリシーのオックスファムのディレクター、マシュー・スペンサーは言った。“極度な貧困の中で暮らしている人々の数の強力な落ち込みは、過去四半世紀の素晴らしい達成だ。しかし、生じている不平等は、さらなる前進を危機に陥れている。”

“私たちの経済の進路では、かろうじて生きている何百万の人々を背景に、少しの特権者に、富は不公平に集中し増加している。女性は、満足のいくマタニティー・ケアの欠乏で死んでいる。そして子供たちは、貧困から抜け出すための教育を否定されている。だれも非難すべきではない、彼らが貧しく生まれたからといって。彼らの早すぎる死、もしくは、単純な無学の生活を。”

“それは、この道でなければならないということはない。公平な機会のある生活を、すべての人に与える十分な富が、この世界にある。政府は、富への課税を確約するべきだし、企業は、以前は自由に資金を出し、企業の妥当な割り当てを支払っている。良い質の公的サービスは人々の生活を救い、一変させることができる。”

この報告は、多くの政府にこう言った。公的サービスでの、十分な投資の落ち込みにより、不平等はより悪くなっていると。そこには、こう記されている。ヘルスケアの欠乏で、1日あたり10000人の人が死んでいる。2億6200万人の子供たちが、学校に行けない。なぜなら、しばしば彼らの両親は、制服や教科書を買う料金を十分子供に与えることができないからだ。

オックスファムは言った。政府は、ハイクオリティーな投資をもっと必要としていた。国際的な公的サービスは、税に取り組むことを通して、公正な課税をごまかしたり、保証したりしている。そこには、企業や最もリッチな人たちの、個々の富も含まれる。それは、しばしは低く課税されていると、オックスファムは言っている。

グローバルな富の税は、フランス人の経済学者トマ・ピケティによって、唱えられた。ピケティは、不平等の傾向を阻止することが必要とされていると、言った。

2018年の世界の不平等の報告-ピケティ―が共著者-では、1980年から2016年の間の最も貧しい50%の人は、グローバルな収入の成長の1ドルごとに12セントだけ得る。対照的に、トップ1%は1ドルごとに27セント得る。

オックスファムは、言った。本国での、不平等への取り組みについて。先進国は現在、彼らの、海を越えた援助の、コミットメントに失敗している。その失敗とは、極度な富への課税の増加により、最も貧しい国々の極度な貧困に取り組むのに必要とした、失われた数十億ドルだ。

過去40年を超えた中国の急速な成長は、極度な貧困の減少に十分な責任を負うべきだ。しかし、オックスファムは言った。世界銀行のデータが示しているのは、2013年以来貧困の削減のレートは、半減したということだと。サハラ以南のアフリカでは、極度な貧困は増加した。

オックスファムは、富める人と貧しい人の間の評価の方法はクレジット・スイッシー・グローバル・ウェルス・データ・ブックにより供給されたグローバルな富の分配のデータを基礎にしていると言った。そのデータは2017年の6月から2018年の6月までの期間をカバーしている。ビリオネアの富は2018年に出版された年次のフォーブスのビリオネア・リストを使って計算された。

  • この論説は2019年の1月21日に修正された。それは、一日あたりヘルスケアの欠乏で10000の人々が死んでいる数値を明らかにする。

 

訳した記事

https://www.theguardian.com/business/2019/jan/21/world-26-richest-people-own-as-much-as-poorest-50-per-cent-oxfam-report

荒れ果てた社会で生きる

映画「RAW 少女のめざめ(原題:Grave)」を観た。

この映画は2016年のフランス・ベルギー合作映画で、食人を比喩として人間のありかたを描くホラー・バイオレンス映画だ。原題あるgraveとは英語では墓を意味するし、フランス語では深刻という意味だ。フランス語の意味の方がこの映画にはしっくりくるかもしれない。

映画の主人公はジュスティーヌという女性だ。ジュスティーヌの両親は獣医学部出身だ。ジュスティーヌも両親の通った学校に入学することになる。日本で言うならば大学入学といったところだろうか?

その時期の人間は、通過儀礼を通じて大人へとめざめていく時だ。ジュスティーヌもその例外ではなく、それまで両親に保護されていた状態から、その保護から脱する時なのだ。

親からすべて与えられていた状態からの脱出。それがジュスティーヌの生きている時期だ。

ジュスティーヌには姉がいる。姉の名前はアレックスで、ジュスティーヌのような女性ではなく、大人びた簡単に言えば乱雑な女性だ。

アレックスはジュスティーヌと同じ学校に通っている、すでに通過儀礼を受けた女性だ。

この獣医学部通過儀礼は数カ月間にわたるものだ。その間にこの学校に入学した生徒たちは、大人への成長を遂げる。大人への成長というのはどういったことか?それは、性悪的な人間たちの間でもたくましく生きていく方法を見つけるといったことなのだろう。

この世の多くの人たちは自分を育ててきた両親のように性善ではないし、また両親が性悪であった場合でもそこから抜け出して生きて行けるようなたくましさを身に着けることが成長なのだ。

この世の人間は性善か性悪かは議論の分かれるところなのだろう。しかし多くの人は他人を殺すほど性悪ではないはずだ。この世の人口と世界の死者の数を比べれば、死者の数よりも、人口の方が多いはずだ。

人は他人をすべて殺しつくすほど悪ではない。しかしこうも言えるかもしれない。この世界の人々は生かさず殺さずで生かされ続けている多くの弱者から成り立っているのかもしれない。

この考えには、少数の支配者が多数の人々を服従させているという図式がある。何のために支配するのか?それは自らの生活の安楽のためだ。長く健やかに威張って生きること。それが少数の支配者の欲望だ。

支配する人間に迎合するまともな人たち。その人たちがマイノリティを作り出し、マイノリティを抑圧する。主人公のジュスティーヌの一家もそのための犠牲者であるのだろう。

主君に仕えるという不幸

映画「武士道残酷物語」を観た。

この映画は1963年の日本映画で、主君に仕える人間の生き様を、ある氏族の家系の繋がりの中で描く映画だ。

この映画では様々な主君に仕える飯倉家の主人たちの生き方が描かれるのだが、この主君の場所には、大名だったり、天皇だったり、会社の上司だったりを当てはめることができる。

この主君の場所に来るものの共通点は、強力な暴力を支配のために用いているということだ。この暴力を背景に持つ人の前に、多くの人々は、無理やりもしくは誘導的な自発性により服従する。

大名が暴力を持つのはよく時代劇で描かれる。天皇が暴力をつかさどったのは、天皇によるところもあるかもしれないが、当時の政治権力が天皇を元首として国家という暴力装置をコントロールしていたからだろう。

そして会社の上司だが、会社の上司は直接的に暴力を動かさないだろうが、会社の社長の権益を支えているのは国で、国の安全性は暴力装置である政府の軍隊により保持されていると考えることができる。つまり会社も軍事力を背景に存在しているものだ。

人は暴力に従う。この映画に通底するものはこの言葉により表すことができるだろう。映画のセリフの中に「侍の命は主君のもの」というものがある。侍は主君が死ねと言ったら死ななければならないという意味だ。

ここに通常の反応として反感というものが生じる。「俺の命がお前のもの?だったらお前の命は俺のものだ」と。この場合に命のコントロールは他者の手の内にあり、自分が命を捨てたくても自分の意思で命を捨てることはできない。その他者が死ねというまでは。

自分のものを自分でコントロールできないことは、人の中に不快なものを呼び起こす。所有権とはそれほど根源的なものなのかもしれないし、はたまた所有権について社会が個々の人に呼び起こさせる像が、人々の間に所有権の蓋然性を与えているのかもしれない。

人は自らの意思を所有することによって自他共に、少なくとも自分が認める程度に、生きる充溢といったものを手にすることができる。

社会の人間は誰のために働いているのか?会社のために?社長のために?自分のために?人々が自身のために会社で働くのならばなぜ社長は部下よりも高い給料を得ることができるのか?

社会のため?社長のため?自分のため?何のために働くのか?幸福のため?ならば幸福とは一体なんなのだろうか?