小説による被支配者の覚醒

映画「小林多喜二」を観た。

この映画は1974年の日本映画で、日本のプロレタリア文学で有名な小林多喜二の伝記映画だ。映画は小林多喜二の29年という短い人生を解説と劇映画で物語るというものだ。

この映画の最中には小林多喜二の作品の映像化が試みられている。

小林多喜二1903年12月1日に秋田県に生まれて、1933年に警察による拷問によって東京の築地署で殺された。なぜ小林多喜二が警察により殺されることになったのか?それは小林多喜二のとった態度からもうかがい知ることができる。

小林多喜二は警察を金持ちの手先だと映画で述べる。金持ちとは例えば工場経営者だ。工場経営者に雇われている労働者の環境は当時酷いものだった。1日に12、13時間も働かされて、休憩は30分で、給料も非常に安いという状態だった。

小林多喜二はこのような富めるものが富んで、貧しいものは貧しいままという状態に疑問を持っていた。実際に労働者の味方をする選挙出馬者を支援したりしている。多喜二のこのような動きは全国各地で全国各地で起こっていたようだ。

そして政府はそのような抵抗に対して、暴力で挑んでいた。つまり政府やその政府を支援する金持ちに敵対する労働者やその支援者たちを、捕まえて、殴り、拷問し、殺していたのだ。

労働者も当然人間だ。その人間に対して、どうしてこのような酷い仕打ちができるのだろうか?お金持ちたちは、金持ちとつるむ政府は、なぜ反対者に対して暴力を振るうのか?それら彼ら(金持ち、政府)は貧しさが恐いからだ。

衣食住が十分に満たされず、戦争が起きれば、兵士として命を投げ出さなければならない立場。お金によって世の中が動いていて、そのお金を持っていないがために、過酷な労働をしなければならない立場。このような立場を金持ちたちは恐れているのだ。

金持ちはお金ですべてを解決するような世界を作り上げて、その中で優位に生き抜くことだけを考えている。お金持ちはお金持ちが作り出したルールに怯えているのだ。

小林多喜二はお金持ちたちの恐怖心を呼び起こした。世の中がひっくりかえってしまう状況。底辺が最上位に上り、最上位が底辺になるような状況。小林多喜二は、この可能性を人々に気付かせてしまうのではないかと金持ちたちは恐れたのだろう。小説という平明なものにより人の平等を人々に気付かせること。これを金持ちたちは恐れたに違いない。

お金が無価値になった時

映画「ゲティ家の身代金(原題:All the Money in the World)」を観た。

この映画は2017年のアメリカ・イギリス合作映画で、スリラー映画だ。この映画の舞台は1973年のイタリアだ。このタイトルにあるゲティ家とは、当時世界一かつ歴史上最も金持ちであった一族だ。

この映画はゲティ家の当時の支配者であったゲティ老人のお金を巡る話だ。ゲティ家の資産は10億ドル以上であるといわれていた。そしてそのゲティ家のお金を狙う連中が存在した。

彼らはゲティの孫であるポールを誘拐して、身代金1700万ドルを要求した。ゲティ老人は資産10億ドル以上を持つ人物だ。そのような身代金の額は孫の命を考えれば痛くもかゆくもないはずだ。

しかし、ゲティ老人と孫のポールの母親ゲイルの間には以前こんなやり取りがあった。ゲティの息子と結婚したゲイルは息子のポールをもうけたのだが、そのゲティの息子とは離婚することになった。

その際ゲイルはゲティ老人の元から一銭もとらない代わりに監護権をもらった。つまりゲイル老人はゲイルに一銭も払わないで、ポールを失った。その取引にゲイル老人は文句を言わなかった。

なぜか?それはそこにはゲティ老人の損失が一銭もなかったからだ。この誘拐にしてもそうだ。ゲティ老人の頭の中にはお金のことしかない。金を失ってはならない。金は得るものだ。これがゲティ老人の頭の中のようだ。そのようにこの映画では少なくとも描かれている。

この映画の最後ではゲティ老人は、ゲイルがマスコミの宣伝力を使ったために、身代金を全額払うことになる。その頃のゲティ老人はこう言う。「私にとって金はなんでもない。空気みたいなものだ」と。

お金が空気みたいに珍しくも何ともない無価値なものになった時に、ゲティ老人の元にあったのは何だったのか?息子は麻薬におぼれて、人生を踏み外し、孫のポールも誘拐から積極的に効率的に救おうとしなかった。お金以外に自分にとって価値のあるものはなかったのだから。

お金が無価値になってしまったとき、ゲティ老人にあるのは虚無のみだ。ゲイルがゲティ老人の資産を引き継ぐところでこの映画は終わる。ゲティはゲイル老人と同じ立場に立つことになる。世界一、歴史上一の金持ちという座に。

そこでゲイルが見たものとは何だったのだろうか?ラストのシーンのゲイルの表情は何を表現しているのだろうか?

人と犬

映画「犬ヶ島(原題:Isle of Dogs)」を観た。

この映画は2018年のアメリカ・ドイツ合作映画で、ストップモーション・アニメーションによる映画だ。この映画の主人公は、小林アタリという少年と、その少年の友達であるスポッツとチーフという2匹の犬だ。

この映画の舞台は日本だ。この映画の中では、日本にメガ崎市という場所が存在し、その市長が小林ケンジという、小林アタリ少年との血縁者だ。小林家はこの映画の舞台となる時代の1000年前から犬を排除しようとしてきた一族だ。

小林ケンジは1000年続く伝統の通りに、犬たちを排除しようとする。小林市長は、医薬品会社、市権力、人口生命を作る民間企業、ヤクザを使って、犬たちの排除を進めようとする。

まず製薬会社は、動物の体に発生する病気を市内中にばらまく。そしてその病気にかかった犬たちを支庁の力によって隔離する。その後、犬の代用として、民間企業の作った人工生命を利用する。

犬の排除に反対するする人々に対してはヤクザを使い、賄賂を贈ったり、恐喝、脅迫、暴力をふるって権力に従わせる。

この過程で利益を上げるのは、人工生命体を作る企業だが、この民間企業を儲けさせるために、市、製薬会社、ヤクザが行動しているのだから、民間企業の利益が、市、製薬会社、ヤクザに還元されるのは明らかだ。

この映画の中で印象的に描かれているのは、犬という存在だ。犬は古くから人間に従うことで生きながらえてき動物だ。犬とは差別用語として、従順な無能力者を指す。映画中登場する犬で、人間の部下として当初存在しているのはスポッツだ。

そしてそれと反対に人間に従おうとしないのがチーフという犬だ。

映画中この2匹の立場は入れ替わる。スポッツは主人から独立し、チーフはアタリ少年に従おうとするのだ。

映画のラストには人間と犬との対等な関係というものが生じる。

この映画の中には大衆の姿ははっきりと登場しないが、小林ケンジ市長を支持するのは、小林ケンジ市長に洗脳された、もしくは洗脳されなかったが賄賂を渡された人たちだ。

この人たちは小林市長の犬ではなかったらなんなのだろうか?という疑問がこの映画を観ていると生じてくる。主人に対してただ従順であるだけの人間たち。その人間たちはきっと無能ではないはずだ。そう思えるシーンとして、トレイシー・ウォーカーという少女が描かれる。人間と犬だけでなく、人と人とも対等なのだ。

秘められた同性愛

映画「君の名前で僕を呼んで(原題:Call Me By Your Name)」を観た。

この映画は2017年のイタリア・フランス・ブラジル・アメリカ合作映画で、エリオという少年と、オリヴァ―という青年の恋愛を描いた、恋愛青春映画だ。

この映画の舞台はイタリアのどこかだ。そのどこかとは都市ではなく、夏を過ごすため、バカンスを過ごすための休養地だ。

エリオの父は大学の教授らしくそのもとへオリヴァ―がやって来るところから映画は始まる。エリオの元には毎年どうやら勉強のために人が来ている様子だ。

この映画は一言で言うならば、男性同士の誠実な恋愛映画だ。エリオとオリヴァーはなかなか接近しないし、濃厚なラヴシーンあるということもない。ただエリオを中心として見た世界がぼんやりと描かれているだけだ。

オリヴァーはエリオを同性愛の世界に誘おうかどうしようか迷っている。この映画では同性愛の置かれる状況というのは詳しく述べられないが、オリヴァーがエリオに対してオープンに「好きだ!!」と言わない所からも、同性愛が秘められた当事者たちだけの秘め事であることが伝わってくる。

またエリオの父がエリオにこう語りかけるシーンもある。「通常親というものは、息子が同性愛に向かうことを避けるものだ。私も同性愛を感じたが、その気持ちはおしとどめた。しかし、エリオ。お前は自分の気持ちに従いなさい」と。

異性愛同士の恋愛を隠す必要はないし、異性愛者の親が「お前にその道はすすめない」とは言わない。同性愛者の置かれた立場の狭さのようなものがここから良く感じられる。

この映画の時代設定は1980年代だ。1980年代には、公式に同性愛が認められるものではなかったのだろう。この時代の持つ息苦しさのようなものが、ラストのシーンのエリオの涙からくみとることができる。

この映画では古代ギリシアの彫像が取り上げられる。エリオの父とオリヴァーは、この古代のギリシアの彫像についてどうやら研究しているらしい。2人は彫像のフィルムを映し出しながらこう口にする。「なんて官能的な像だ」「素晴らしい」と。

古代ギリシアの彫像には官能的な欲求つまり、性欲の喜びを満たすために作られたという歴史的経緯があるようだ。古代ギリシアでは、同性愛は公然として認められていた。しかし歴史が現在に近づくにつれて、同性愛はタブー視されるようになった。そしていまやっとそのタブーが開かれかけているのだ。

復讐という浄化過程

映画「スリー・ビルボード(原題:Thee Billboards Outside Fbbing,Missouri)」を観た。この映画は2017年のアメリカ映画で、娘を殺された母親の復讐にとらわれた姿を描いたドラマ映画だ。

ミズーリ州のエビングで、1人の若い女性がレイプされた後焼かれて焼死体としてみつかる。その女性の名前はアンジェラ・ヘイズといい、ミルドレッドの娘だった。ミルドレッドはアンジェラと言い争いをしていた。

「ママが車を貸してくれないと、レイプされて死んじゃうわ!!」「レイプされればいいわ!!」

この娘と母との言い合いが現実のものとなってしまうことになる。

この映画はミルドレッドの娘アンジェラが殺されて数カ月たった後のことが描かれている。主となるのはミルドレッドと警察の対立だ。

アンジェラが殺されたにも関わらず、警察は捜索をしてくれない。これがミルドレッドの言い分で、実際警察は犯人捜しを諦めている。そこでミルドレッドは「レイプされて死亡」「犯人逮捕はまだ?」「なぜウィロビー署長」という広告板を道路わきに掲示したり、警察署に火炎瓶を投げつけたりする。

人々の注目を引いて娘アンジェラを殺した犯人を警察に捜させようとするのが、ミルドレッドの目的だ。

その警察署には他の多くの警察署と同じように、黒人差別やゲイ差別をする警官がいる。その典型例として、この映画で描かれるのは、ディクソン巡査という人物だ。

ディクソンは自分の気に入らないことがあると暴力を使って片づけようとするタイプの、黒人嫌いで、ゲイ嫌いの人物だ。

しかし、この映画の中でディクソンは自らの態度を180度あらためることになる。そのきっかけは癌で死んでしまいそうな署長からの手紙であり、ミルドレッドが投げつけた火炎瓶の火事だ。

これらがディクソンをただの暴力者から、正しい者へと導くことになる。

ディクソンはバーでレイプの告白をする男を発見する。この男はDNA鑑定の結果、無罪と判断される。このレイプ魔の元軍人は、アンジェラが殺された事件当日には国外にいたことになっている。しかもこの元軍人は、当時、軍の指揮下に置かれていたので、これ以上調べることができなかった。

ディクソンは、ミルドレッドと共に、映画のラストにこの軍事を殺すかもしれない旅に出る。2人はこの元軍人を殺すかもしれないし、またはそうしないかもしれないと述べて、この映画は終わる。

ミルドレッドは復讐により、殺しをすることを否定するこの映画は終わる。冷静な復讐者は果たして、復讐者として適任なのか?いや、ミルドレッドは冷静になっているように見えるだけなのだろうか?

黒人と女性

映画「マーシャル 法廷を変えた男(原題:Marshall)」を観た。

この映画は2017年のアメリカ映画で、黒人の権利の獲得のために闘い、アメリカの最高裁判所の黒人初の判事になったサー・グット・マーシャルを中心として描かれた伝記映画だ。この映画の中には、黒人の権利の獲得のために闘った2人の弁護士が登場する。

1人は黒人のサー・グット・マーシャルであり、もう1人はユダヤ系の白人であるサム・フリードマンだ。

この2人は映画の舞台となる1941年頃から既に黒人の権利の獲得のために闘い、公民権運動を行っていくことになる。1941年当時アメリカには全米黒人地位向上協会が既に登場していた。この協会の唯一の弁護士であったのが、サー・グット・マーシャルだ。

1941年にアメリカで「グリニッチの悪夢」が起こる。この事件は、白人の既婚女性が、黒人の運転手にレイプされたという内容だった。全米黒人地位向上協会(NAACP)は、いち早く、この事件が黒人であるがゆえの冤罪であることを見抜き、コネチカットにサー・グット・マーシャルを送る。

コネチカットでは、マーシャルは事件の被告となっていたジョセフ・スペル黒人運転手の弁護をしようとするが、コネチカットの判事に、君はコネチカットの弁護士ではないから、裁判で発言することは禁止すると言われる。

そこでマーシャルの代わりに弁護士として闘うのは、コネチカットフリードマンフリードマンの弁護士事務所のサム・フリードマンというユダヤ系の白人男性だ。

映画が進行すると、この事件には黒人差別と同時に、女性差別の背景があることがわかってくる。事件の真相はこうだ。レイプされたと言っているストルービング夫人は実はレイプされておらず、夫人とジョセフの間には合意によるセックスがあったというものだ。

ストルービング夫人は、夫から暴力を受けていた。その上、世間では忌避されている黒人男性とのセックスをしたとばれたら生きてはいけない。女性として虐げられて、その上に人種差別が被さってきたら、通常人は困惑する。ストルービング夫人の動揺には何も理由がないわけではない(しかし、当時の黒人女性はこの2種類の差別の中で生きていたのだが)。

つまり、レイプされてたことを訴えたストルービング夫人もまた、ジョセフと同様に社会の差別により、追い詰められた人だったのだ。

映画中、マーシャルとフリードマンが、白人の男たちに暴力を受けるシーンがある。このような事実の前に、ストルービングの怯え方は裏付けられる。そして、こうも思う人は差別を乗り越えるべきなのだと。

非合法な情報収集

映画「ザ・シークレットマン(原題:Mark Felt:The Man Who Brought Down the White House)」を観た。この映画は2017年のアメリカ映画で、FBIで副長官を務めたマーク・フェルトという人物についての伝記映画だ。

時は、1970年代でニクソンが大統領を務め、ベトナム戦争が抜け出せない戦争となったころだ。ニクソン大統領は、大統領選に勝利するために、ワシントンの民主党本部に侵入した(もちろんニクソン大統領当人ではなく、ニクソンの指令を受けた元CIAや元FBIの人間だが)。

このことは当時大スキャンダルになり、この事件、つまりウォーターゲート事件がきっかけとなって、ニクソンは大統領の職を辞することになった。マーク・フェルトはFBIで副長官を務めていたと前述したが、マーク・フェルトが副長官だった時の長官とはフーバーだ。

フーバーとは巨大な権力を持つ男だった。フーバーはFBIの力を使って膨大な個人情報を集めていた。そのターゲットはフーバーの恣意により決められていた。つまりフーバーはFBIの組織力を、自分の懐疑心を満たし、権力を維持するために利用していた。

そういうわけで、当時のFBIの元には膨大な量の個人情報があった。そのことを国民は知らなかった。当然のようにマーク・フェルトはその事実について知っていた。FBIの職員には、キング牧師を盗聴して、キング牧師の妻に、キング牧師の不倫の証拠を送りつけたりしている。

FBIは当時何でもありだったのだ。

マーク・フェルトは、フーバー長官が死んだ後に、残ったあらゆる秘密を知る男だ。例えば、ホワイトハウスの人間の家族や愛人についての情報もつかもうと思えばつかめたし、現につかんでいたのだ。

そして、FBIの盗聴の利用者にニクソンもなっていたのだ。

マーク・フェルトは、映画中「ニクソンはFBIを使って、民主党を盗聴していた」という。マーク・フェルトニクソンが犯罪者であるという事実をつかんでいた。大統領の秘密の犯罪まで知り尽くしていたのがFBIの副長官だったマーク・フェルトなのだ。

ちなみにベトナム戦争は、秘密の犯罪ではなく、公式な犯罪だったといっていいのかもしれない。

情報の非対照性が権力を生み出す。情報を持つ者が常に勝者たりえるとこの映画は語っているかのようだ。FBIは政府を敵に回して勝利した。情報をつかむことの重大さがここにはうかがえる。情報は力だ。この場合の情報の入手の方法は非合法的で、下劣だが。