利用されたものの復讐劇

今回は映画「ロスト・ハイウェイ(原題:Lost Highway)」についてのこのブログでの2度目の文章である。

この映画は1997年のアメリカ・フランス合作映画で、ドラマ・スリラー、サスペンス、SF、スプラッター的な要素が合わさってできた映画である。

この映画の中心は、レネエ/アリスという女性であり、レネエ/アリスの夫であるフレッドと恋人であるピートと、レネエ/アリスの命を奪ったポルノ業界の男であるディック・ロラント(エディ・コール)とアンディというポルノ関連の仕事をする男がその周辺に登場する。

レネエ/アリスはポルノ女優でありレネエ/アリスを雇っているのが、ディック・ロラント(エディ・コール)であり、そのポルノ会社と関係しているのがアンディである。

ディック・ロラントとアンディはレネエ/アリスを殺す。映画中で理由は明らかにされないが、レネエ/アリスがディックやアンディやその周辺の人々にとって不都合な存在になったためだと思われる。

この映画はレネエ/アリスのディックとアンディに対する復讐劇としてみることができる。そしてレネエ/アリスの復讐に手を貸すのがレネエ/アリスがレネエの時の夫フレッドであり、レネエ/アリスがアリスの時の恋人ピートである。

そしてフレッドの変身した姿がピートであり、ピートが変身するとフレッドになるという循環がある。

レネエ/アリスは同一人物であり、レネエ/アリスは、フレッドに対してはレネエとして現れ、ピートに対してはアリスとして現れる。つまりレネエ/アリスは超越的なこの世のものとは思えない人物であるといえるし、フレッドもピートも変身する点においては超越的である。

この映画にはもう1人超越的な人物が登場する。それは故買屋の男である。この男は、ディック・ロラントの友達と自らを名乗るが、この映画の最後にフレッドと共にレネエ/アリスの仇をとる。

フレッドが故買屋の男に渡されたナイフでディックの首を切り、故買屋が銃でディックにとどめをさす。

故買屋の男は2カ所に同時に存在するような男であり、燃えたはずの小屋がテープの逆回転のように直った際に、そこで故買屋を営む男でもあり、レネエ/アリスの顔に故買屋の男の顔が浮き上がるような不思議な存在である。

つまりレネエ/アリス、フレッド/ピート、故買屋の男は全員この世のものとは思えない存在なのであり、そこがホラー的な要素といえるのかもしれない。

ディックやアンディに利用されて殺されたレネエ/アリスが、この世のものとは思えない超越的な力によってアリスとして現れて、フレッド、ピート、故買屋の力を借りて復讐を果たす。

女というだけで物のように扱われるこの世の不条理が作り出した超越的な復讐劇というのがこの映画の一面ではないだろうか?

他者の言葉を理解する

映画「メッセージ(原題:Arrival)」を観た。

この映画は2016年のアメリカ映画でSFドラマ映画である。この映画の主人公は、言語学者であるルイーズ・バンクスであり、ルイーズが到来した宇宙人の宇宙船(=殻)で、宇宙人と会話をするのがこの映画の主な内容となっている。

映画中に登場する宇宙人の姿は足が7本あるタコのような姿である。この宇宙人をルイーズたちは、ヘプタポッド(ギリシア語でヘプタは7、ポッドは足を表す)と名付けている。

ヘプタポッドは2人登場する。片方をアボット、もう片方をコステロとルイーズたちは命名する。

先程からルイーズたちと言っているが、、宇宙人(エイリアン)と対話するのは、アメリカ軍やCIAやFBIを中心とするアメリカ政府だからである。ルイーズたちとは、ルイーズという言語学者を宇宙人の対話相手に使うアメリカ政府の集団のことである。

さて、宇宙人は地球の12か所に降りてきたわけであるが、なぜ地球にやってきて、何をしに来たのかが、この映画の中心の話題となる。

ルイーズが宇宙人にこの問いを投げかけると、宇宙人たちは「武器を提供しにきた」と答える。このことにより、地球の政府はパニックになるのだが、これはルイーズの誤訳であることが後にルイーズによってわかる。

正解は宇宙人たちはルイーズに「言葉を提供する」と言ったことがわかる。さて宇宙人たちがルイーズに言葉を提供するとはどういうことか?それが宇宙人たちにとって何の得になるのか?

まず、宇宙人たちは3000年後に地球人の助けが必要になる時が来るという。そして宇宙人たちは、時間を自由に行き来できる存在であるということがわかる。つまり宇宙人には時間は流れるものというより、自由に行き来できるものなのである。

宇宙人たちは未来を見ることも、過去を見ることも可能なのである。宇宙人の言葉を与える。宇宙人の言葉には時制がない。どこの時間でも行ける。つまりこのどこの時間にも行ける能力を宇宙人の言葉を習得することにより、ルイーズも自由に時間を行き来できるようになる。

複数の区域に分かれて対立している人間たちをひとつにまとめあげること。これがルイーズに宇宙人たちが託したことである。

宇宙人を敵とせずに地球の内部にも敵対が生じないように事を運ぶこと。これがルイーズの役割だったのである。

ルイーズの誤訳は混乱を招くが、ルイーズの努力による正確な訳の提供が、人類を協力の道に導く。ルイーズが宇宙人という他者を相手にして行なった翻訳をおのおのが、おのおのに対して行うこと。それがこの日常を生きていくということかもしれない。そして、その翻訳にはたくさんの想像力が必要になるだろう。

夫婦は子供を持つという虚構

映画「バージニア・ウルフなんかこわくない(原題:Who’s Afraid of Virginia Woolf?)」を観た。

この映画は1966年のアメリカ映画で、とある夫婦とその夫婦の客の若い夫婦を描いたドラマ映画である。

ジョージとマーサの40代ぐらいの夫婦は、マーサの父の開いたパーティーから帰宅していた。マーサの父は大学の学長で、マーサの夫のジョージは歴史学の教師をしていた。マーサの父のパーティーで出会ったある若い夫婦の夫は生物学の教師である。

ジョージとマーサの夫婦と、若い生物学者とその妻は、土曜の夜から日曜日の朝方まで、夫婦間にある取り繕いをすべて暴いていくような会話(口論)を交わし、最後には、夫婦の秘密が観衆の元に晒される。

映画のラストのシーンで明かされる秘密は“ジョージとマーサの間には子供がいなかったが、2人の間だけでは16歳のサムという名の息子がいるという設定になっていた。秘密は2人の間だけだったら何も害にはならないが、それが外に漏れると問題になる。よって、その空想の子供というものを殺した。”というものである。

ジョージとマーサは空想上の子供を持つことで、何とか取り繕って夫婦の生活を営んでいた。しかし、その秘密が公になってしまった以上それを終わらせるしか手がない。「私たちは架空の子供がいるの」なんて楽しくおおっぴろげに生活はできないし、ましてや嘘を本当のように生きることは、他に大きな嘘を呼び込むだけで何もいいことはない。

この映画の冒頭、マーサは、生物学者の妻に「私には子供がいるの」と言ってしまう。それを知ったジョージは愕然とする。なぜなら、2人の関係を営むための嘘をなきものにしなければならないからである。

人間の生活とは虚構から成り立っているという人もいる。真実なんて呼べるものはなくて、すべては嘘で塗り固められた作り話なのだと。そういう人たちはたいてい、人の世は虚構でできている言う。

夫婦にも学校の先生も国も、すべては虚構でただの嘘っぱちだと。ただ、そのすべては虚構であるという思考は、すべてには本物があるという思考の裏と表であるといえる。虚構を唱えれば唱えるほど、真実とは何か?という疑問が心の中に沸いて出てくる。

虚構(嘘)と真実はいつも隣り合わせである。

映画のラスト夫婦は、嘘がなくなってしまう恐怖を感じながら、2階の部屋のベットに上がっていく。家庭を保つための虚構。家族=虚構。ならば虚構(夫婦)のための虚構(子供がいる夫婦)を夫婦は捨て去るのである。

人間とは何か

映画「ゴースト・イン・ザ・シェル(原題:Ghost in the Shell)」を観た。

この映画は2017年のアメリカ映画で、映画のジャンルはSFである。

この映画の原作は日本人の漫画家、士郎正宗のマンガ攻殻機動隊である。マンガ攻殻機動隊をアニメ映画化したのが押井守GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊である。ちなみに士郎正宗にインスパイアを与えたのは、小説家であり哲学者でもあるアーサー・ケストラーのThe Ghost in the Machine 機械の中の幽霊である。

近未来、人と脳とネットが接続可能になり、人間の体が脳以外を除いて入れ替え可能になった時代が、この映画の時代設定である。人間の体が脳以外を除いて入れ替え可能になったというのは、人間の体を代替する義体化(サイボーグ化)が進んだということである。

この映画の主人公であるミラ・キリアン少佐は、脳以外はすべて人工物である。脳の中にあるのは記憶であるが、当初映画は人間の脳だけは人口に作られないものとして描かれている。

人間の脳とは、この映画の中でゴースト(幽霊)だと言われる。つまり脳の中には、人間が人間たる理由である精神、魂があるというのがこの映画がとる立場である。

しかし映画の終盤に近づくにつれて、この映画の人間性ともいえる脳の記憶が、人工的に作り上げられたものだということが明らかになる。脳だけは入れ替え不可能な人間性を証明するものであるといわれていたのが、脳の内容(記憶)も人口的であるということが明らかになる。

脳まで人工物ならそれは人間ではなく、人工人間であり、人間とは違うのではないか?そんな考えが頭をよぎる。この映画では脳は生きた人間の脳であったものが、サイボーグの体を与えられたという設定により、脳が人工物であるという事態は回避される。よって脳は人間性のシンボルであることが明確になる。

もしも、この映画で人間の脳が人工物であり、記憶もすべて人工物であるとなった時に、その存在は一体どういったものになるのだろうか?それは人間と同等か?それとも人間以上なのだろうか?

この映画は何が人間的なのかという問いをもたらすと同時に、その答えも用意している。何が人間的なのか。それはその人が何をなすかによって決まるとこの映画は言っているようである。つまり過去(記憶)のとらわれ過ぎずに未来に向かって生きる。その時々の決意こそが、その人の人間性または人間性以上のものをその人に生じさせるのである。

異人種間結婚が違法だったころ

映画「ラビング 愛という名前のふたり(原題:Loving)」を観た。

この映画は2016年のイギリス・アメリカ合作映画で、ドラマ映画である。

この映画の主人公は、リチャード・ラビングとミルドレッド・ラビング夫婦である。ラビング夫婦は、異人種間結婚が禁止されていたアメリカ合衆国バージニア(1950年当時)で夫婦として暮らそうとした白人男性(リチャード)と黒人女性(ミルドレッド)である。

この映画はドラマ映画であると書いたが、この映画の中には黒人差別以外にも、恋愛、法廷、結婚、スリラー・サスペンス、子育て、マスコミ、カーレース、酒場、音楽といった様々な要素から成り立つ映画である。

この映画の主軸となるのは、異人種間結婚が認められるまでの大筋であるが、その間に前述したような要素が盛り込まれており内容は盛り沢山である。

異人種間結婚という表現は現在では聞き慣れない表現である。人と人との結婚でしょ?そこに異人種と入れる理由は何?と思ってしまう。

アメリカでは黒人は奴隷としてアフリカ大陸から連れて来られた労働資産であった。黒人は人ではなく、白人の財産とされていた。

1860年代にリンカーン大統領により奴隷解放宣言が出されるも、その後も黒人差別はジム・クロウ法という形で続く。アメリカでは1960年代の公民権運動まで、人種隔離制度が続いており、黒人はバスの席も、トイレも黒人専用の場所しか使用することができなかった。

アメリ公民権運動(1960年代)の際には、シット・インという運動が起こった。アメリカ黒人が白人用のレストランの席に座り込み、罵声や暴力にひたすら耐えて、白人の席に黒人が座り続けるという運動である。

1967年6月12日にすべての異人種間結婚が違法であり、修正第14条の平等の保証に反していると最高裁判所の判決が下った。ラビング夫婦の愛による抵抗が、公民権運動や時代の変化によって報われたのである。

ラビング夫婦の抵抗と書いたが、2人の姿が映画中描かれるのは、ただ仲睦まじく過ごしている姿である。結婚し、子供が生まれ、子供の育て方に悩むミルドレッド。自分の家族が壊れることを恐れるリチャード。

その2人の悩みは、異人種間結婚のためというよりも、人々の日常の中にある光景として、映画を観る者には映る。黒人差別と今を生きる人々の日常が重なりあう。ラビング夫婦の生きた日常は、黒人差別との闘いの日常であると同時に、家庭を営む者誰もが抱える日常でもある。1950年代、1960年代に黒人であることの困難さと、いつの時代にもある結婚の困難さ。その両方がこの映画では前述した様々な要素と共に描かれている。

無政府主義的家族

映画「シェナンドー河(原題:Shenandoah)」を観た。

この映画は1965年のアメリカ映画で、アメリカの南北戦争に巻き込まれたある家族を描いた映画である。

この映画の主人公は、家族の家長であるチャーリー・アンダースンである。チャーリーは亡き妻マーサとの間に、7人の子供をもうけていた。家族は7人の子供と、チャーリーと、子供の内の一人のジェームスの妻であるアンとその二人の子供マーサから成る。計10人の大家族である。

この映画の時代背景としてアメリカの南北戦争が描かれている。アメリカの南北戦争とは、アメリカが黒人奴隷と自由貿易をめぐって、北の合衆国軍と南の連合国軍にアメリカが引き裂かれて戦った戦争のことである。

特にこの映画で印象的に描かれるのは、黒人の奴隷制度に賛成する南部と、反対する北部という対立である。

チャーリー一家は北軍とも南軍とも対立する一つの小さな勢力として描かれている。

チャーリー一家にみられる姿勢とは、どの政府にも頼らずに生きていく、独立した人間としての姿勢である。つまりチャーリー一家はある見方からすれば、反政府武装勢力なのである。

反政府武装勢力というと、ゲリラやならず者たちで、無秩序な集団というイメージがあると思われるが、チャーリー一家は決してならず者ではない。武装するのは、自分たちの身を暴力から守るためであり、決して略奪や殺人をするためではない。

しかし、チャーリー一家には他者の財産を壊すという破壊的な一面も持つ。チャーリーは、一家の一番下の“坊や”を探すため、北軍の列車を襲い焼き払う。チャーリーにとっては家族が一番であって、政府やその政府の主権者たちの財産が、自らの家族のために失われることは、自分の家族を奪われることに比べたら、たいしたことではないのである。

つまりチャーリー一家は特定の目線で見れば、単なる略奪者でもありえるのである。

戦争という破壊は戦地に無秩序をもたらす。その無秩序の一例としてチャーリー一家は描かれているのかもしれない。

チャーリーの息子とその妻は、強盗に襲われて死ぬが、はたから見ればチャーリー一家も強盗と違いはないのかもしれないとこの映画は示唆しているようでもある。ただここで言っておきたいのは、チャーリー一家は道徳を重んじる一家であるということである。しかし、残念ながらその道徳性は暴走を含むものなのである。

自ら決意していきるじんせいとは?

映画「セコンド/アーサー・ハミルトンからトニー・ウィルソンへの転身(原題:Seconds)」

を観た。

この映画は1966年のアメリカ映画で、SF映画である。

この映画は人生に絶望している人間が、顔面整形手術と身体改造を経て、人生をやり直せる会社の顧客になり、その人生再生会社の犠牲となるという筋書きの話である。

映画の主人公はアーサー・ハミルトンであり、2番目(セコンド)に生まれ変わるのがこの人物である。アーサー・ハミルトンの新しい名前はトニー・ウィルソンである。

アーサーは親友だったチャーリー・エヴァンズという男から電話で人生やり直し会社の勧誘を受ける。

アーサーは著名な銀行家であったが自分の人生に退屈している。次第にアーサーはトニーの勧誘に心を奪われていったのだろう、アーサーは人生改造会社の客となる。そしてアーサーは整形手術により、トニー・ウィルソンになる。

トニーになったアーサーは、自身の新しい環境(画家)になじむことができない。そんなトニーを見ていた会社は、ノーラ・マーカスという女性社員をトニーの元に送り込み、牧神パーンのぶどう踏み祭りにトニーを参加させる。

その祭りで自己を開放したトニーだったが会社の思っていたよりトニーは自己を開放し過ぎて、周囲の人間に自分が以前はアーサーであったことを話し出す。

この行為は人間改造会社により禁止されていた行為であったため、社員たちはトニーに自身の過去について話すことを禁止しようとする。

トニーとなったアーサーはこの時気付く。自分は今まで物しか興味がなかったと。人生で求めるべきものは人とか意義であると。トニーはアーサーに戻ることで人生のやり直しを図る。

しかし、そのトニーの申し出に会社側は、表では応じて、裏ではトニーを死亡事故偽装の死体として使用する。そうトニーは人間改造会社が死亡事故を装ってアーサーの人生を終わらせることで、存在していたのである。

トニーは新しい会社の顧客のために死体役をやらされるわけである。もちろん死体は実在のトニーの死体なのだ。

人生を生きる人誰もが抱えるであろう“こんな人生は自分のものじゃない”という感覚をこの映画はまざまざと映画を観る者に見せつける。

トニーは物ばかりを求めていたから、人と意義に今度は生きると言いだし、ご都合主義的に過去を取り戻そうとする。しかし時は既に遅い。トニーはもう第二の人生を他人の犠牲の元に歩み出しているのだから。

これがだめなら、あれをしよう。人は誰しもがそう考える。別の場所に行けば。あの時ああしてしれば。後悔は尽きることなくやって来る。

しかし、決意しているのが自分だということに気付けば、当人の感じ方、考え方も変わって来るだろう。アーサーはトニーとしての人生を生きられなかった。それはアーサーという人生を生きられなかったことからも導き出される明確な結末である。