他者がどんなものが想像できないということ

映画「コレクター(原題:The Collector)」を観た。

この映画は1965年のイギリス・アメリカ合作映画で、誘拐監禁を描いた映画である。

この映画は2人の中心人物を描くことで進んで行く。2人の人物とは監禁する人である自称フレディ(フランクリン)と、監禁される人であるミランダ・グレイである。

映画はフレディがミランダを尾行して誘拐するところから始まる(厳密に言えば、その前に、冒頭でフレディが昆虫採集しているシーンが描かれているが…)。

フレディはミランダという虚像を好きになり、ミランダを誘拐して自らの虚像通りに、ミランダの実際の在り方(実像)を変えようとする。その期間が映画で描かれる4週間である。

この映画はフレディがミランダを監禁している様子が延々と続く映画である(人間の持つ開放的感覚に、実際の開放度に強く惹かれる人間にとっては、この映画を観るのはかなり苦痛である)。

フレディはミランダに対して極力自制できる範囲で、暴力を振るわない(この文自体意味不目かもしれない。なぜならフレディの自制とはフレディの恣意によるもので、そこにはフレディ的道徳しかないのだから。それは自制とは呼べないものだろう。つまりこの文章は「フレディの許す限りは暴力を使わない」と言いかえられるべきであろう)。

ミランダは映画の最中当然常に自由を望んでいる。最後の一瞬を除いては。

世の中にはストックホルム症候群とリマ症候群という用語がある。これは前者が被監禁者から監禁者への愛着が生じる状態、後者が監禁者から被監禁者への好意が生じる場合である。

この映画の設定では、フレディは監禁前からミランダという女性が好きであるから、リマ症候群の様子はみられないだろう。一方のストックホルム症候群の方はといえば、前述したように映画の最後の部分のこの例にあたる状態がみられる。

フレディはミランダに対して「4週間したら君を開放する」と宣言するが、この宣言は無視され、それを契機にミランダはキレる。当然のことだ。そしてスコップでフレディの頭を殴る。

しかし、ミランダは自らがしたことをすぐに後悔する。自衛のためとはいえ人を殺そうとしたからだ。ミランダはフレディに生きて欲しいと強く望む。その状態がどうしてもフレディに対するミランダの愛着にみえてしまう。

映画はフレディの人権への配慮を欠いた行為を低学歴、低階層が原因であることに繋げていく。貧しさはこのように人を追い込むのだと。

しかし、現実には貧しい人がすべてフレディのような監禁者になるのではない。貧しさは必要条件でもないし、当然十分条件でもない。フレディのような行為は、他者への想像力を欠いた人にとっては他人事ではないのかもしれない。

企業と結び付いて、中立性を失った国

映画「キャット・バルー(原題:Cat Ballou)」を観た。

この映画は1965年のアメリカ映画で、19世紀末のアメリカで起こる、ある親子の間に起こる悲劇をコメディ・タッチで描いた映画である。

ワイオミング州のウルフ・シティにはキャサリン・バルーの父であるフランキー・バルーが住んでいた。物語はフランキーの元に教師となったキャサリンが帰って来る所から(時間設定は)始まる。

ウルフ・シティにはH・パーシバルという人物が社長を務める開発会社が開発に侵出しており、キャサリンの父フランキーは、開発会社との間で問題(土地を渡すか渡さないかと思われる)を起こしていた。

アメリカというのは西欧人たちがアメリカ・インディオから奪った土地であるが、その土地をまた奪うという事態が起きていた。インディオを虐殺して奪った土地を持つアメリカ白人が、また別のアメリカ白人に土地を奪われる。

アメリカは略奪の地であるようにこの映画を観ていると再確認できる。

キャサリンの父フランキーはH・パーシバルの開発会社の手先により殺されることになり、キャサリンはこの映画の最後に父の仇を打つことになる。

つまりこの映画は復讐劇が描かれている。

しかし、この映画は復讐というおどろおどろしい部分があまり見られない。それはこの映画がコメディ・タッチで描かれているからである。

残酷なストーリーを滑稽に描く。これがこの映画の面白い部分である。

キャサリンは教師となったことからも現れている通り文字がしっかりと読める教養を持った人物である。では何故キャサリンがH・パーシバルを殺すことになったのか?それはキャサリンの代わりに開発会社が犯した罪を裁く機能が停止したからである。

通常非人道的なことをすれば、国民の権利を守るべく、国民が作り上げた国の機関が動いて事を常軌に戻すであろう。そしてそこで損失を受けた者の感情も回復される。

しかし、この映画の中では国が果たすべき行いを国が果たそうとしない。国は人と人との間の中立にあることができずに、力のあるものの見方となる。ここで弱者の権利は踏みにじられるのである。

キャサリンの訴えにも保安官は耳を貸さない。キャサリンは相手の罪を訴えるが国はそれを聞き入れない。ナレーションする歌手(片方はナット・キング・コール!!)の歌うように、キャサリンは国に血を流させることになるのである。その原因は、しかし国の方にあるのだが。

家族にありのままの自分を晒すとは、我儘になるということなのか?

映画「たかが世界の終わり(仏題:Juste la fin du monde,英題:It’s Only the End of World)」を観た。

この映画は2016年のカナダ・フランス合作映画で、ある家族の出来事について描いたドラマ映画である。

この映画に登場する家族の構成はこうである。母マルティーヌ、長男アントワーヌ、次男ルイ、末娘シュザンヌ、アントワーヌの妻カトリーヌでこの家族は構成されている。

この映画の主人公は次男のルイである。ルイはゲイで、現在34歳であるが、22歳の時に家を出ている。それ以来家族には会っていない。家族へのルイからの連絡といえば時々家族の元に届く絵葉書ぐらいである。

この映画では、ルイが12年ぶりに家族の元に帰り、ルイ自身の近くに迫った死について告げようとする様子が描かれている。

結論から先に言ってしまえば、ルイは自らの死を家族に伝えることは、この映画中では失敗する。それは何故か?それは家族のルイに対する思いやりの欠如によってである。

家族にとってルイは大切な存在であるにもかかわらず、家族はルイの言葉を聞こうとせずに、自分たちの心の中にあることを、ルイにペラペラと話すばかりである。誰もルイの家族への思いとか、12年ぶりに帰郷することになった理由を尋ねようともしない。

この映画はルイの立場に立って描かれている映画だと言える。ルイは穏やかで、知的で、繊細な人物として描かれている。

しかし、ルイの兄、妹、母はそれとは対照的な人物像である。暴雑で、おしゃべりで、無神経に彼らは描かれいる。

この映画はルイの心模様を細やかなタッチで描き出す。ルイの表情の微妙な変化は、ルイの気持ちが表れるように映画では描かれている。

この家族はコミュニケーションがうまくいっていない家族であるというように映画では見受けられる。とにかくこの家族はすぐにケンカをするのだ。あまりに親しいものに対する遠慮のなさが、乱暴な言い合いに発展する。近いがゆえに起こる憎悪。そういったものがこの映画の中で描かれている。

気品にあふれるルイと、下劣なその母、兄、妹。家族の中で少しだけ繊細そうに見えるカトリーヌも、実は相手に嫌われるのが怖くて、弱々しく見える頼れない人物でしかない。

この映画を観ていると、家族とは一体何なのかという疑問が浮かんでくる。血の繋がりや契約によって結び付いた人間たち。誰もが自分のことで頭が一杯である。「お前は何を考えているのか?」その問いがここにはない。

もしこの問いがあったとしても、その問いかけには、問いかける人の理解力は恐ろしく欠如している。

不条理な環境

映画「ムーンライト(原題:Moonlight)」を観た。

この映画は2016年のアメリカ映画で黒人の貧困層の家族の少年の成長と恋を描いたドラマ映画である。

この映画の主人公はシャロンという黒人の少年である。

この映画はシャロンの3つの時期について描かれている。3つの時期とは、小学生の時、高校生の時、そして成人した後の時期である。

それぞれの時期の冒頭にはその章のタイトルがある。順に1.リトル、2.シャロン、3.ブラックである。

まず1のリトルについてだが、リトルとはシャロンのあだ名である。“なよなよして弱いやつ”といった意味だろう。

次に2のシャロンだが、これはシャロンの実名をタイトルにしたものである。この章でシャロンは自分がゲイであることを自覚する。それは小学生の頃からの友達ケヴィンの手により射精するエピソードで意図的にわかりやすく描いてある。

1のリトルの頃のシャロンは自らのセクシャリティを確信いていなかったが、2のシャロンの時には自身のセクシャリティを確信するのである。

そして3のブラックである。このブラックというのもシャロンのあだ名である。しかし、このブラックというあだ名をシャロンに付けたのは、シャロンが愛するケヴィンである。シャロン愛する人に付けてもらった名前がブラックであり、ブラックという名は恋する人であるケヴィンがシャロンを呼ぶ時の名である。つまりブラックとはゲイとして愛される時の名である。

シャロンは黒人であり、ゲイであり、貧困家庭で、母子家庭で、学歴は低く、母親は麻薬中毒である。シャロンは何重もある苦難の中で生き抜いていく。

成人したときシャロンはヤクの売人になっている。自らの母の人生を台無しなしにした麻薬の売人によりによってシャロンはなっているのである。

しかし、シャロンの生まれたリバティー・シティでは刑務所に入るのは当たり前というような環境である。リッチに生きるには売人しかほとんど残された道はないのである。

シャロンには父がいなかったが、フアンというヤクの売人のボスがシャロンの面倒を見ている。しかし、フアンの部下からシャロンの母は麻薬を買っている。そしてシャロンは代理の父であったフアンの後を追うように売人になるのである。

金持ちの子供は金持ちに、貧しい子供は成人しても貧しいまま。それがこの世界の在り方なのだろうか?そうだとしたら、シャロンたちの姿を見た私たちはその在り方にうんざりして、手をこまねいているだけで良いのだろうか?変わるのは今、私、あなたがである。

心の中の柵

映画「フェンス(原題:Fence)」を観た。

この映画は2016年のアメリカのドラマ映画であり、アメリカの黒人家庭の一期間を描いた映画である。

この映画はマキソン家に関わる人々、特にその家族、その家族の主人であるトロイ・マキソンについて描いている。

トロイには、弟、妻、2人の息子、娘がいる。トロイの弟はゲイブという人物で戦争で頭部に損傷を負い、精神障碍を持っている。戦争とは第2次世界大戦だと思われる。

そしてゲイブの戦争での負傷の代償として、トロイは国から3000ドルを貰い、そのお金で家を持つことができた。

トロイの妻はローズ・リー・マキソンという。トロイとは「18年間結婚していた」とのセリフがあり、映画の展開を見ていると、18年以上は結婚生活が続いていたようである。

2人の息子とは年長からライオンズとコーリーである。ライオンズは音楽で生活していくことを夢みている34歳の青年として登場する。

コーリーは高校でフットボールで才能を発揮している学生である。

娘はレイネルという。レイネルは、トロイとトロイの浮気相手であるアルバータとの子供である。映画の中では娘レイネルが生まれて、レイネルが10代ぐらいになる姿まで描かれる。

この映画のタイトルにあるフェンスとは柵のことである。トロイは妻ローズの頼みで家を囲う柵をコーリーと作っている。映画が進むにつれてフェンスは完成に近づいていく。

映画のラスト、トロイの葬式に向かう時には、フェンスは当然のように家を囲っている。トロイは、フェンスをローズとの約束通りに作り上げたのである。

フェンスは硬い木でできた木製のもので、何年も持つような頑丈なものである。このフェンスとはきっとトロイの中にある柵の比喩になっている。

人間は生まれたばかりの時には、心の中に偏見はないはずである。人生を過ごすことによって心の中に偏りが出てくる。「あの人とこの人は違って悪い」などという偏った見方である。

この偏り、違いをとらえる視線は人の心の中に柵を作り上げる。この柵は世界のものを常に区別する。時には必要のない区別を人の心の中に作り上げることもある。

トロイにとっての柵とは、人種差別である。白人と黒人は別で、黒人は白人より下だ。この固定観念は、トロイの中に染みついている。

一方柵をなくすものがある。それはトロイが口ずさむトラディショナルのオールド・ブルーという曲だ。子供たちはその歌を歌うことで異母兄弟という柵を超えて1つになるのだ。

理想的な家族像という束縛

映画「不意打ち(原題:Lady in a Cage)」を観た。

この映画は1964年のアメリカ映画で、映画のジャンルはサスペンスである。

この映画はお金持ちの母子家庭とその財産に群がる人間たち、そしてそれを取り囲む無関心な都会の住人たちが描かれている映画である。

この映画の主人公は母子家庭の母の方のコーネリアスという女性である。コーネリアスには30歳にもうじきなるマルコムという息子がいる。

マルコムが母に置き手紙を残して家から去るところから映画は始まる。

コーネリアス夫人は息子を溺愛していた。息子マルコムは母に愛されすぎて身動きがとれない哀れな息子である。マルコムは自殺を思い立つほど母の愛を重圧に感じていた。

そうマルコムは母の愛という重圧から逃れる決意をしていた。その決意とはもし母がマルコム自身の自立を許してくれないのなら自殺をするというものだった。

映画中でマルコムの母は家の中のエレベーターに閉じ込められる。マルコムの母は自身の危険を知らせるために、非常ボタンを鳴らずが、誰も助けには来ない。

そうこうしているうちに、ホームレスとおぼしきジョージという男が家を物色する。そしてそれに連れられて、ランダルとイレインとエッシーという不良少年、少女も家の中に侵入し最後にはマルコムの母の家の贅沢な品を手に入れようとポールという故買人とその相棒が現れる。

映画中、何度か電話が鳴る。それはきっとマルコムが母の意思を確認するための電話だろう。その電話にマルコムの母は出ることができない。なぜならマルコムの母はエレベーターの中に閉じ込められ、そのエレベーターは宙づりになっているからである。

都会の無関心の中では誰もコーネリアス夫人の助けての声に気付かない。コーネリアス夫人の声に気付いたのは福祉国家が生んだゴロツキ、ホームレス、売春婦そして故買屋である。

福祉国家がゴロツキを生んだのかの議論は置いておいて、コーネリアス夫人の助けに反応したのは、人の不幸を食い物にする人間たちばかりである。そして、コーネリアス夫人自身も息子の不幸の上に成り立っていたのだが。

印象的なのはホームレスのジョージの手の甲に印されている文字である。その文字は“悔い改めよ”である。ホームレスの男が、お金持ちの女に叫ぶ「悔い改めよ!」と。

この世には富者と貧者が存在する。誰かが貧しき者に施しをしなければならない。しかし現実はどうか?コーネリアス夫人は自らのお金を奪う福祉国家を恨んでるようである。その彼女に「悔い改めよ」の声は本当に届くのだろうか?

 

 

 

※この映画では福祉国家がゴロツキたちを生み出したとある。それは国家の介入が不十分だったためではないのか?お金持ちたちは税金を払うのが嫌で、福祉国家にゴロツキたちの不道徳さを強調するのではないのか?この映画は福祉国家をダメなものに見せようとするプロバカンダなのかもしれない。

 

マルクスは母によってがんじがらめになり、母という牢獄の中で命尽きる。そしてコーネリアスの母は理想的な家庭的女性という牢獄を象徴するかのようなエレベーターの中に閉じ込められそこから出ることができない。二人とも理想的な家族像の犠牲者である。

このクソな世界

映画「ジャニス リトル・ガール・ブルー(原題:Janis Little Girl Blue)」を観た。

この映画は2015年のアメリカのドキュメンタリー映画であり、60年代に活躍した女性歌手ジャニス・ジョプリンの人生を描いた映画である。ジャニス・ジョプリンは1943年に生まれて1970年に亡くなった歌手である。

ロック・アーティストとして有名なジミ・ヘンドリックスやジム・モリソンと同じく27歳でこの世を去ったアーティストとしてジャニスも有名である。ちなみにジミ・ヘンドリックスは1942年に生まれ、ジム・モリソンは1943年生まれである。

ジャニス・ジョプリンの死因はヘロインの使用である。ジャニスがいつも使っていたヘロインより、ジャニスを死に至らしめたヘロインは高純度であったため、通常の量を使用していても致死に達してしまったのである。

この映画の最後にジョン・レノンがヨーコ・オノとテレビに出演している映像が流れる。テレビのインタビュアーがジョン・レノンに酒や鎮痛剤やヘロインに人が逃げてしまう理由を尋ねる。

するとジョン・レノンは「まずは原因究明が大切だ」と断った後にこう発言する。「人は世の中の窮屈さにへきえきしている。だから自己防衛手段として、それらのものに手を出すんだ」と。

つまりジャニスは、世の中のクソさ加減に打ちのめされていて、しかもその中でまともに生きていくために自己を守る手段として酒やドラッグをやったのである。

ジャニスは十代のころに公民権運動に刺激されたり、当時としては珍しくバイセクシャルであった。ジャニスはつまりこの世の中の住みにくさを体感している人間であった。つまりジャニスはこの世の中のクソさ加減にうんざりしていたのである。

ジャニスが問題児として育っていくのは、ジャニスが生きる世界がどうしようもなく不条理なものだったからであり、その不条理さの原因がこともあろうに人間によって生じていたからであろう。

人が人を抑圧していく。ジャニスはそれに耐えられなかったのである。ジャニスは自身の容姿が美人ではなかったこと、周囲に溶け込めなかったことを心の傷として生きる。

ジャニスが問題児であったのは、ジャニスがこのクソな世の中を見抜いていた証拠なのである。

人を見た目で判断する世界。色が黒いとか、美人であるとかないとか。今この世の中はジャニスが生きた世界と変わっているか?否、いない。相変わらず黒人は警官に撃たれるし、学校からプロムの伝統は消え去っていない。

いつになったら呼吸のしやすい世界になるのか?そう人々は変わるのだろうか?それ以前に自分自身が変わることが重要なのだが。