夫婦は子供を持つという虚構

映画「バージニア・ウルフなんかこわくない(原題:Who’s Afraid of Virginia Woolf?)」を観た。

この映画は1966年のアメリカ映画で、とある夫婦とその夫婦の客の若い夫婦を描いたドラマ映画である。

ジョージとマーサの40代ぐらいの夫婦は、マーサの父の開いたパーティーから帰宅していた。マーサの父は大学の学長で、マーサの夫のジョージは歴史学の教師をしていた。マーサの父のパーティーで出会ったある若い夫婦の夫は生物学の教師である。

ジョージとマーサの夫婦と、若い生物学者とその妻は、土曜の夜から日曜日の朝方まで、夫婦間にある取り繕いをすべて暴いていくような会話(口論)を交わし、最後には、夫婦の秘密が観衆の元に晒される。

映画のラストのシーンで明かされる秘密は“ジョージとマーサの間には子供がいなかったが、2人の間だけでは16歳のサムという名の息子がいるという設定になっていた。秘密は2人の間だけだったら何も害にはならないが、それが外に漏れると問題になる。よって、その空想の子供というものを殺した。”というものである。

ジョージとマーサは空想上の子供を持つことで、何とか取り繕って夫婦の生活を営んでいた。しかし、その秘密が公になってしまった以上それを終わらせるしか手がない。「私たちは架空の子供がいるの」なんて楽しくおおっぴろげに生活はできないし、ましてや嘘を本当のように生きることは、他に大きな嘘を呼び込むだけで何もいいことはない。

この映画の冒頭、マーサは、生物学者の妻に「私には子供がいるの」と言ってしまう。それを知ったジョージは愕然とする。なぜなら、2人の関係を営むための嘘をなきものにしなければならないからである。

人間の生活とは虚構から成り立っているという人もいる。真実なんて呼べるものはなくて、すべては嘘で塗り固められた作り話なのだと。そういう人たちはたいてい、人の世は虚構でできている言う。

夫婦にも学校の先生も国も、すべては虚構でただの嘘っぱちだと。ただ、そのすべては虚構であるという思考は、すべてには本物があるという思考の裏と表であるといえる。虚構を唱えれば唱えるほど、真実とは何か?という疑問が心の中に沸いて出てくる。

虚構(嘘)と真実はいつも隣り合わせである。

映画のラスト夫婦は、嘘がなくなってしまう恐怖を感じながら、2階の部屋のベットに上がっていく。家庭を保つための虚構。家族=虚構。ならば虚構(夫婦)のための虚構(子供がいる夫婦)を夫婦は捨て去るのである。

人間とは何か

映画「ゴースト・イン・ザ・シェル(原題:Ghost in the Shell)」を観た。

この映画は2017年のアメリカ映画で、映画のジャンルはSFである。

この映画の原作は日本人の漫画家、士郎正宗のマンガ攻殻機動隊である。マンガ攻殻機動隊をアニメ映画化したのが押井守GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊である。ちなみに士郎正宗にインスパイアを与えたのは、小説家であり哲学者でもあるアーサー・ケストラーのThe Ghost in the Machine 機械の中の幽霊である。

近未来、人と脳とネットが接続可能になり、人間の体が脳以外を除いて入れ替え可能になった時代が、この映画の時代設定である。人間の体が脳以外を除いて入れ替え可能になったというのは、人間の体を代替する義体化(サイボーグ化)が進んだということである。

この映画の主人公であるミラ・キリアン少佐は、脳以外はすべて人工物である。脳の中にあるのは記憶であるが、当初映画は人間の脳だけは人口に作られないものとして描かれている。

人間の脳とは、この映画の中でゴースト(幽霊)だと言われる。つまり脳の中には、人間が人間たる理由である精神、魂があるというのがこの映画がとる立場である。

しかし映画の終盤に近づくにつれて、この映画の人間性ともいえる脳の記憶が、人工的に作り上げられたものだということが明らかになる。脳だけは入れ替え不可能な人間性を証明するものであるといわれていたのが、脳の内容(記憶)も人口的であるということが明らかになる。

脳まで人工物ならそれは人間ではなく、人工人間であり、人間とは違うのではないか?そんな考えが頭をよぎる。この映画では脳は生きた人間の脳であったものが、サイボーグの体を与えられたという設定により、脳が人工物であるという事態は回避される。よって脳は人間性のシンボルであることが明確になる。

もしも、この映画で人間の脳が人工物であり、記憶もすべて人工物であるとなった時に、その存在は一体どういったものになるのだろうか?それは人間と同等か?それとも人間以上なのだろうか?

この映画は何が人間的なのかという問いをもたらすと同時に、その答えも用意している。何が人間的なのか。それはその人が何をなすかによって決まるとこの映画は言っているようである。つまり過去(記憶)のとらわれ過ぎずに未来に向かって生きる。その時々の決意こそが、その人の人間性または人間性以上のものをその人に生じさせるのである。

異人種間結婚が違法だったころ

映画「ラビング 愛という名前のふたり(原題:Loving)」を観た。

この映画は2016年のイギリス・アメリカ合作映画で、ドラマ映画である。

この映画の主人公は、リチャード・ラビングとミルドレッド・ラビング夫婦である。ラビング夫婦は、異人種間結婚が禁止されていたアメリカ合衆国バージニア(1950年当時)で夫婦として暮らそうとした白人男性(リチャード)と黒人女性(ミルドレッド)である。

この映画はドラマ映画であると書いたが、この映画の中には黒人差別以外にも、恋愛、法廷、結婚、スリラー・サスペンス、子育て、マスコミ、カーレース、酒場、音楽といった様々な要素から成り立つ映画である。

この映画の主軸となるのは、異人種間結婚が認められるまでの大筋であるが、その間に前述したような要素が盛り込まれており内容は盛り沢山である。

異人種間結婚という表現は現在では聞き慣れない表現である。人と人との結婚でしょ?そこに異人種と入れる理由は何?と思ってしまう。

アメリカでは黒人は奴隷としてアフリカ大陸から連れて来られた労働資産であった。黒人は人ではなく、白人の財産とされていた。

1860年代にリンカーン大統領により奴隷解放宣言が出されるも、その後も黒人差別はジム・クロウ法という形で続く。アメリカでは1960年代の公民権運動まで、人種隔離制度が続いており、黒人はバスの席も、トイレも黒人専用の場所しか使用することができなかった。

アメリ公民権運動(1960年代)の際には、シット・インという運動が起こった。アメリカ黒人が白人用のレストランの席に座り込み、罵声や暴力にひたすら耐えて、白人の席に黒人が座り続けるという運動である。

1967年6月12日にすべての異人種間結婚が違法であり、修正第14条の平等の保証に反していると最高裁判所の判決が下った。ラビング夫婦の愛による抵抗が、公民権運動や時代の変化によって報われたのである。

ラビング夫婦の抵抗と書いたが、2人の姿が映画中描かれるのは、ただ仲睦まじく過ごしている姿である。結婚し、子供が生まれ、子供の育て方に悩むミルドレッド。自分の家族が壊れることを恐れるリチャード。

その2人の悩みは、異人種間結婚のためというよりも、人々の日常の中にある光景として、映画を観る者には映る。黒人差別と今を生きる人々の日常が重なりあう。ラビング夫婦の生きた日常は、黒人差別との闘いの日常であると同時に、家庭を営む者誰もが抱える日常でもある。1950年代、1960年代に黒人であることの困難さと、いつの時代にもある結婚の困難さ。その両方がこの映画では前述した様々な要素と共に描かれている。

無政府主義的家族

映画「シェナンドー河(原題:Shenandoah)」を観た。

この映画は1965年のアメリカ映画で、アメリカの南北戦争に巻き込まれたある家族を描いた映画である。

この映画の主人公は、家族の家長であるチャーリー・アンダースンである。チャーリーは亡き妻マーサとの間に、7人の子供をもうけていた。家族は7人の子供と、チャーリーと、子供の内の一人のジェームスの妻であるアンとその二人の子供マーサから成る。計10人の大家族である。

この映画の時代背景としてアメリカの南北戦争が描かれている。アメリカの南北戦争とは、アメリカが黒人奴隷と自由貿易をめぐって、北の合衆国軍と南の連合国軍にアメリカが引き裂かれて戦った戦争のことである。

特にこの映画で印象的に描かれるのは、黒人の奴隷制度に賛成する南部と、反対する北部という対立である。

チャーリー一家は北軍とも南軍とも対立する一つの小さな勢力として描かれている。

チャーリー一家にみられる姿勢とは、どの政府にも頼らずに生きていく、独立した人間としての姿勢である。つまりチャーリー一家はある見方からすれば、反政府武装勢力なのである。

反政府武装勢力というと、ゲリラやならず者たちで、無秩序な集団というイメージがあると思われるが、チャーリー一家は決してならず者ではない。武装するのは、自分たちの身を暴力から守るためであり、決して略奪や殺人をするためではない。

しかし、チャーリー一家には他者の財産を壊すという破壊的な一面も持つ。チャーリーは、一家の一番下の“坊や”を探すため、北軍の列車を襲い焼き払う。チャーリーにとっては家族が一番であって、政府やその政府の主権者たちの財産が、自らの家族のために失われることは、自分の家族を奪われることに比べたら、たいしたことではないのである。

つまりチャーリー一家は特定の目線で見れば、単なる略奪者でもありえるのである。

戦争という破壊は戦地に無秩序をもたらす。その無秩序の一例としてチャーリー一家は描かれているのかもしれない。

チャーリーの息子とその妻は、強盗に襲われて死ぬが、はたから見ればチャーリー一家も強盗と違いはないのかもしれないとこの映画は示唆しているようでもある。ただここで言っておきたいのは、チャーリー一家は道徳を重んじる一家であるということである。しかし、残念ながらその道徳性は暴走を含むものなのである。

自ら決意していきるじんせいとは?

映画「セコンド/アーサー・ハミルトンからトニー・ウィルソンへの転身(原題:Seconds)」

を観た。

この映画は1966年のアメリカ映画で、SF映画である。

この映画は人生に絶望している人間が、顔面整形手術と身体改造を経て、人生をやり直せる会社の顧客になり、その人生再生会社の犠牲となるという筋書きの話である。

映画の主人公はアーサー・ハミルトンであり、2番目(セコンド)に生まれ変わるのがこの人物である。アーサー・ハミルトンの新しい名前はトニー・ウィルソンである。

アーサーは親友だったチャーリー・エヴァンズという男から電話で人生やり直し会社の勧誘を受ける。

アーサーは著名な銀行家であったが自分の人生に退屈している。次第にアーサーはトニーの勧誘に心を奪われていったのだろう、アーサーは人生改造会社の客となる。そしてアーサーは整形手術により、トニー・ウィルソンになる。

トニーになったアーサーは、自身の新しい環境(画家)になじむことができない。そんなトニーを見ていた会社は、ノーラ・マーカスという女性社員をトニーの元に送り込み、牧神パーンのぶどう踏み祭りにトニーを参加させる。

その祭りで自己を開放したトニーだったが会社の思っていたよりトニーは自己を開放し過ぎて、周囲の人間に自分が以前はアーサーであったことを話し出す。

この行為は人間改造会社により禁止されていた行為であったため、社員たちはトニーに自身の過去について話すことを禁止しようとする。

トニーとなったアーサーはこの時気付く。自分は今まで物しか興味がなかったと。人生で求めるべきものは人とか意義であると。トニーはアーサーに戻ることで人生のやり直しを図る。

しかし、そのトニーの申し出に会社側は、表では応じて、裏ではトニーを死亡事故偽装の死体として使用する。そうトニーは人間改造会社が死亡事故を装ってアーサーの人生を終わらせることで、存在していたのである。

トニーは新しい会社の顧客のために死体役をやらされるわけである。もちろん死体は実在のトニーの死体なのだ。

人生を生きる人誰もが抱えるであろう“こんな人生は自分のものじゃない”という感覚をこの映画はまざまざと映画を観る者に見せつける。

トニーは物ばかりを求めていたから、人と意義に今度は生きると言いだし、ご都合主義的に過去を取り戻そうとする。しかし時は既に遅い。トニーはもう第二の人生を他人の犠牲の元に歩み出しているのだから。

これがだめなら、あれをしよう。人は誰しもがそう考える。別の場所に行けば。あの時ああしてしれば。後悔は尽きることなくやって来る。

しかし、決意しているのが自分だということに気付けば、当人の感じ方、考え方も変わって来るだろう。アーサーはトニーとしての人生を生きられなかった。それはアーサーという人生を生きられなかったことからも導き出される明確な結末である。

他者がどんなものが想像できないということ

映画「コレクター(原題:The Collector)」を観た。

この映画は1965年のイギリス・アメリカ合作映画で、誘拐監禁を描いた映画である。

この映画は2人の中心人物を描くことで進んで行く。2人の人物とは監禁する人である自称フレディ(フランクリン)と、監禁される人であるミランダ・グレイである。

映画はフレディがミランダを尾行して誘拐するところから始まる(厳密に言えば、その前に、冒頭でフレディが昆虫採集しているシーンが描かれているが…)。

フレディはミランダという虚像を好きになり、ミランダを誘拐して自らの虚像通りに、ミランダの実際の在り方(実像)を変えようとする。その期間が映画で描かれる4週間である。

この映画はフレディがミランダを監禁している様子が延々と続く映画である(人間の持つ開放的感覚に、実際の開放度に強く惹かれる人間にとっては、この映画を観るのはかなり苦痛である)。

フレディはミランダに対して極力自制できる範囲で、暴力を振るわない(この文自体意味不目かもしれない。なぜならフレディの自制とはフレディの恣意によるもので、そこにはフレディ的道徳しかないのだから。それは自制とは呼べないものだろう。つまりこの文章は「フレディの許す限りは暴力を使わない」と言いかえられるべきであろう)。

ミランダは映画の最中当然常に自由を望んでいる。最後の一瞬を除いては。

世の中にはストックホルム症候群とリマ症候群という用語がある。これは前者が被監禁者から監禁者への愛着が生じる状態、後者が監禁者から被監禁者への好意が生じる場合である。

この映画の設定では、フレディは監禁前からミランダという女性が好きであるから、リマ症候群の様子はみられないだろう。一方のストックホルム症候群の方はといえば、前述したように映画の最後の部分のこの例にあたる状態がみられる。

フレディはミランダに対して「4週間したら君を開放する」と宣言するが、この宣言は無視され、それを契機にミランダはキレる。当然のことだ。そしてスコップでフレディの頭を殴る。

しかし、ミランダは自らがしたことをすぐに後悔する。自衛のためとはいえ人を殺そうとしたからだ。ミランダはフレディに生きて欲しいと強く望む。その状態がどうしてもフレディに対するミランダの愛着にみえてしまう。

映画はフレディの人権への配慮を欠いた行為を低学歴、低階層が原因であることに繋げていく。貧しさはこのように人を追い込むのだと。

しかし、現実には貧しい人がすべてフレディのような監禁者になるのではない。貧しさは必要条件でもないし、当然十分条件でもない。フレディのような行為は、他者への想像力を欠いた人にとっては他人事ではないのかもしれない。

企業と結び付いて、中立性を失った国

映画「キャット・バルー(原題:Cat Ballou)」を観た。

この映画は1965年のアメリカ映画で、19世紀末のアメリカで起こる、ある親子の間に起こる悲劇をコメディ・タッチで描いた映画である。

ワイオミング州のウルフ・シティにはキャサリン・バルーの父であるフランキー・バルーが住んでいた。物語はフランキーの元に教師となったキャサリンが帰って来る所から(時間設定は)始まる。

ウルフ・シティにはH・パーシバルという人物が社長を務める開発会社が開発に侵出しており、キャサリンの父フランキーは、開発会社との間で問題(土地を渡すか渡さないかと思われる)を起こしていた。

アメリカというのは西欧人たちがアメリカ・インディオから奪った土地であるが、その土地をまた奪うという事態が起きていた。インディオを虐殺して奪った土地を持つアメリカ白人が、また別のアメリカ白人に土地を奪われる。

アメリカは略奪の地であるようにこの映画を観ていると再確認できる。

キャサリンの父フランキーはH・パーシバルの開発会社の手先により殺されることになり、キャサリンはこの映画の最後に父の仇を打つことになる。

つまりこの映画は復讐劇が描かれている。

しかし、この映画は復讐というおどろおどろしい部分があまり見られない。それはこの映画がコメディ・タッチで描かれているからである。

残酷なストーリーを滑稽に描く。これがこの映画の面白い部分である。

キャサリンは教師となったことからも現れている通り文字がしっかりと読める教養を持った人物である。では何故キャサリンがH・パーシバルを殺すことになったのか?それはキャサリンの代わりに開発会社が犯した罪を裁く機能が停止したからである。

通常非人道的なことをすれば、国民の権利を守るべく、国民が作り上げた国の機関が動いて事を常軌に戻すであろう。そしてそこで損失を受けた者の感情も回復される。

しかし、この映画の中では国が果たすべき行いを国が果たそうとしない。国は人と人との間の中立にあることができずに、力のあるものの見方となる。ここで弱者の権利は踏みにじられるのである。

キャサリンの訴えにも保安官は耳を貸さない。キャサリンは相手の罪を訴えるが国はそれを聞き入れない。ナレーションする歌手(片方はナット・キング・コール!!)の歌うように、キャサリンは国に血を流させることになるのである。その原因は、しかし国の方にあるのだが。