家族にありのままの自分を晒すとは、我儘になるということなのか?

映画「たかが世界の終わり(仏題:Juste la fin du monde,英題:It’s Only the End of World)」を観た。

この映画は2016年のカナダ・フランス合作映画で、ある家族の出来事について描いたドラマ映画である。

この映画に登場する家族の構成はこうである。母マルティーヌ、長男アントワーヌ、次男ルイ、末娘シュザンヌ、アントワーヌの妻カトリーヌでこの家族は構成されている。

この映画の主人公は次男のルイである。ルイはゲイで、現在34歳であるが、22歳の時に家を出ている。それ以来家族には会っていない。家族へのルイからの連絡といえば時々家族の元に届く絵葉書ぐらいである。

この映画では、ルイが12年ぶりに家族の元に帰り、ルイ自身の近くに迫った死について告げようとする様子が描かれている。

結論から先に言ってしまえば、ルイは自らの死を家族に伝えることは、この映画中では失敗する。それは何故か?それは家族のルイに対する思いやりの欠如によってである。

家族にとってルイは大切な存在であるにもかかわらず、家族はルイの言葉を聞こうとせずに、自分たちの心の中にあることを、ルイにペラペラと話すばかりである。誰もルイの家族への思いとか、12年ぶりに帰郷することになった理由を尋ねようともしない。

この映画はルイの立場に立って描かれている映画だと言える。ルイは穏やかで、知的で、繊細な人物として描かれている。

しかし、ルイの兄、妹、母はそれとは対照的な人物像である。暴雑で、おしゃべりで、無神経に彼らは描かれいる。

この映画はルイの心模様を細やかなタッチで描き出す。ルイの表情の微妙な変化は、ルイの気持ちが表れるように映画では描かれている。

この家族はコミュニケーションがうまくいっていない家族であるというように映画では見受けられる。とにかくこの家族はすぐにケンカをするのだ。あまりに親しいものに対する遠慮のなさが、乱暴な言い合いに発展する。近いがゆえに起こる憎悪。そういったものがこの映画の中で描かれている。

気品にあふれるルイと、下劣なその母、兄、妹。家族の中で少しだけ繊細そうに見えるカトリーヌも、実は相手に嫌われるのが怖くて、弱々しく見える頼れない人物でしかない。

この映画を観ていると、家族とは一体何なのかという疑問が浮かんでくる。血の繋がりや契約によって結び付いた人間たち。誰もが自分のことで頭が一杯である。「お前は何を考えているのか?」その問いがここにはない。

もしこの問いがあったとしても、その問いかけには、問いかける人の理解力は恐ろしく欠如している。

不条理な環境

映画「ムーンライト(原題:Moonlight)」を観た。

この映画は2016年のアメリカ映画で黒人の貧困層の家族の少年の成長と恋を描いたドラマ映画である。

この映画の主人公はシャロンという黒人の少年である。

この映画はシャロンの3つの時期について描かれている。3つの時期とは、小学生の時、高校生の時、そして成人した後の時期である。

それぞれの時期の冒頭にはその章のタイトルがある。順に1.リトル、2.シャロン、3.ブラックである。

まず1のリトルについてだが、リトルとはシャロンのあだ名である。“なよなよして弱いやつ”といった意味だろう。

次に2のシャロンだが、これはシャロンの実名をタイトルにしたものである。この章でシャロンは自分がゲイであることを自覚する。それは小学生の頃からの友達ケヴィンの手により射精するエピソードで意図的にわかりやすく描いてある。

1のリトルの頃のシャロンは自らのセクシャリティを確信いていなかったが、2のシャロンの時には自身のセクシャリティを確信するのである。

そして3のブラックである。このブラックというのもシャロンのあだ名である。しかし、このブラックというあだ名をシャロンに付けたのは、シャロンが愛するケヴィンである。シャロン愛する人に付けてもらった名前がブラックであり、ブラックという名は恋する人であるケヴィンがシャロンを呼ぶ時の名である。つまりブラックとはゲイとして愛される時の名である。

シャロンは黒人であり、ゲイであり、貧困家庭で、母子家庭で、学歴は低く、母親は麻薬中毒である。シャロンは何重もある苦難の中で生き抜いていく。

成人したときシャロンはヤクの売人になっている。自らの母の人生を台無しなしにした麻薬の売人によりによってシャロンはなっているのである。

しかし、シャロンの生まれたリバティー・シティでは刑務所に入るのは当たり前というような環境である。リッチに生きるには売人しかほとんど残された道はないのである。

シャロンには父がいなかったが、フアンというヤクの売人のボスがシャロンの面倒を見ている。しかし、フアンの部下からシャロンの母は麻薬を買っている。そしてシャロンは代理の父であったフアンの後を追うように売人になるのである。

金持ちの子供は金持ちに、貧しい子供は成人しても貧しいまま。それがこの世界の在り方なのだろうか?そうだとしたら、シャロンたちの姿を見た私たちはその在り方にうんざりして、手をこまねいているだけで良いのだろうか?変わるのは今、私、あなたがである。

心の中の柵

映画「フェンス(原題:Fence)」を観た。

この映画は2016年のアメリカのドラマ映画であり、アメリカの黒人家庭の一期間を描いた映画である。

この映画はマキソン家に関わる人々、特にその家族、その家族の主人であるトロイ・マキソンについて描いている。

トロイには、弟、妻、2人の息子、娘がいる。トロイの弟はゲイブという人物で戦争で頭部に損傷を負い、精神障碍を持っている。戦争とは第2次世界大戦だと思われる。

そしてゲイブの戦争での負傷の代償として、トロイは国から3000ドルを貰い、そのお金で家を持つことができた。

トロイの妻はローズ・リー・マキソンという。トロイとは「18年間結婚していた」とのセリフがあり、映画の展開を見ていると、18年以上は結婚生活が続いていたようである。

2人の息子とは年長からライオンズとコーリーである。ライオンズは音楽で生活していくことを夢みている34歳の青年として登場する。

コーリーは高校でフットボールで才能を発揮している学生である。

娘はレイネルという。レイネルは、トロイとトロイの浮気相手であるアルバータとの子供である。映画の中では娘レイネルが生まれて、レイネルが10代ぐらいになる姿まで描かれる。

この映画のタイトルにあるフェンスとは柵のことである。トロイは妻ローズの頼みで家を囲う柵をコーリーと作っている。映画が進むにつれてフェンスは完成に近づいていく。

映画のラスト、トロイの葬式に向かう時には、フェンスは当然のように家を囲っている。トロイは、フェンスをローズとの約束通りに作り上げたのである。

フェンスは硬い木でできた木製のもので、何年も持つような頑丈なものである。このフェンスとはきっとトロイの中にある柵の比喩になっている。

人間は生まれたばかりの時には、心の中に偏見はないはずである。人生を過ごすことによって心の中に偏りが出てくる。「あの人とこの人は違って悪い」などという偏った見方である。

この偏り、違いをとらえる視線は人の心の中に柵を作り上げる。この柵は世界のものを常に区別する。時には必要のない区別を人の心の中に作り上げることもある。

トロイにとっての柵とは、人種差別である。白人と黒人は別で、黒人は白人より下だ。この固定観念は、トロイの中に染みついている。

一方柵をなくすものがある。それはトロイが口ずさむトラディショナルのオールド・ブルーという曲だ。子供たちはその歌を歌うことで異母兄弟という柵を超えて1つになるのだ。

理想的な家族像という束縛

映画「不意打ち(原題:Lady in a Cage)」を観た。

この映画は1964年のアメリカ映画で、映画のジャンルはサスペンスである。

この映画はお金持ちの母子家庭とその財産に群がる人間たち、そしてそれを取り囲む無関心な都会の住人たちが描かれている映画である。

この映画の主人公は母子家庭の母の方のコーネリアスという女性である。コーネリアスには30歳にもうじきなるマルコムという息子がいる。

マルコムが母に置き手紙を残して家から去るところから映画は始まる。

コーネリアス夫人は息子を溺愛していた。息子マルコムは母に愛されすぎて身動きがとれない哀れな息子である。マルコムは自殺を思い立つほど母の愛を重圧に感じていた。

そうマルコムは母の愛という重圧から逃れる決意をしていた。その決意とはもし母がマルコム自身の自立を許してくれないのなら自殺をするというものだった。

映画中でマルコムの母は家の中のエレベーターに閉じ込められる。マルコムの母は自身の危険を知らせるために、非常ボタンを鳴らずが、誰も助けには来ない。

そうこうしているうちに、ホームレスとおぼしきジョージという男が家を物色する。そしてそれに連れられて、ランダルとイレインとエッシーという不良少年、少女も家の中に侵入し最後にはマルコムの母の家の贅沢な品を手に入れようとポールという故買人とその相棒が現れる。

映画中、何度か電話が鳴る。それはきっとマルコムが母の意思を確認するための電話だろう。その電話にマルコムの母は出ることができない。なぜならマルコムの母はエレベーターの中に閉じ込められ、そのエレベーターは宙づりになっているからである。

都会の無関心の中では誰もコーネリアス夫人の助けての声に気付かない。コーネリアス夫人の声に気付いたのは福祉国家が生んだゴロツキ、ホームレス、売春婦そして故買屋である。

福祉国家がゴロツキを生んだのかの議論は置いておいて、コーネリアス夫人の助けに反応したのは、人の不幸を食い物にする人間たちばかりである。そして、コーネリアス夫人自身も息子の不幸の上に成り立っていたのだが。

印象的なのはホームレスのジョージの手の甲に印されている文字である。その文字は“悔い改めよ”である。ホームレスの男が、お金持ちの女に叫ぶ「悔い改めよ!」と。

この世には富者と貧者が存在する。誰かが貧しき者に施しをしなければならない。しかし現実はどうか?コーネリアス夫人は自らのお金を奪う福祉国家を恨んでるようである。その彼女に「悔い改めよ」の声は本当に届くのだろうか?

 

 

 

※この映画では福祉国家がゴロツキたちを生み出したとある。それは国家の介入が不十分だったためではないのか?お金持ちたちは税金を払うのが嫌で、福祉国家にゴロツキたちの不道徳さを強調するのではないのか?この映画は福祉国家をダメなものに見せようとするプロバカンダなのかもしれない。

 

マルクスは母によってがんじがらめになり、母という牢獄の中で命尽きる。そしてコーネリアスの母は理想的な家庭的女性という牢獄を象徴するかのようなエレベーターの中に閉じ込められそこから出ることができない。二人とも理想的な家族像の犠牲者である。

このクソな世界

映画「ジャニス リトル・ガール・ブルー(原題:Janis Little Girl Blue)」を観た。

この映画は2015年のアメリカのドキュメンタリー映画であり、60年代に活躍した女性歌手ジャニス・ジョプリンの人生を描いた映画である。ジャニス・ジョプリンは1943年に生まれて1970年に亡くなった歌手である。

ロック・アーティストとして有名なジミ・ヘンドリックスやジム・モリソンと同じく27歳でこの世を去ったアーティストとしてジャニスも有名である。ちなみにジミ・ヘンドリックスは1942年に生まれ、ジム・モリソンは1943年生まれである。

ジャニス・ジョプリンの死因はヘロインの使用である。ジャニスがいつも使っていたヘロインより、ジャニスを死に至らしめたヘロインは高純度であったため、通常の量を使用していても致死に達してしまったのである。

この映画の最後にジョン・レノンがヨーコ・オノとテレビに出演している映像が流れる。テレビのインタビュアーがジョン・レノンに酒や鎮痛剤やヘロインに人が逃げてしまう理由を尋ねる。

するとジョン・レノンは「まずは原因究明が大切だ」と断った後にこう発言する。「人は世の中の窮屈さにへきえきしている。だから自己防衛手段として、それらのものに手を出すんだ」と。

つまりジャニスは、世の中のクソさ加減に打ちのめされていて、しかもその中でまともに生きていくために自己を守る手段として酒やドラッグをやったのである。

ジャニスは十代のころに公民権運動に刺激されたり、当時としては珍しくバイセクシャルであった。ジャニスはつまりこの世の中の住みにくさを体感している人間であった。つまりジャニスはこの世の中のクソさ加減にうんざりしていたのである。

ジャニスが問題児として育っていくのは、ジャニスが生きる世界がどうしようもなく不条理なものだったからであり、その不条理さの原因がこともあろうに人間によって生じていたからであろう。

人が人を抑圧していく。ジャニスはそれに耐えられなかったのである。ジャニスは自身の容姿が美人ではなかったこと、周囲に溶け込めなかったことを心の傷として生きる。

ジャニスが問題児であったのは、ジャニスがこのクソな世の中を見抜いていた証拠なのである。

人を見た目で判断する世界。色が黒いとか、美人であるとかないとか。今この世の中はジャニスが生きた世界と変わっているか?否、いない。相変わらず黒人は警官に撃たれるし、学校からプロムの伝統は消え去っていない。

いつになったら呼吸のしやすい世界になるのか?そう人々は変わるのだろうか?それ以前に自分自身が変わることが重要なのだが。

産業が大事?それとも環境が大事?

映画「ナイスガイズ!(原題:The Nice Guys)」を観た。

この映画は2016年のアメリカ映画で、映画のジャンルはミステリー・クライム・スリラー・アクション・コメディである。

この映画の主要人物は3人いる。ホランド・マーチとホリー・マーチという父娘の2人とジャクソン・ヒーリーという殴り屋である。

ホランド・マーチは私立探偵として娘を養っている。ホランド・マーチの妻=ホリーの母は死んでおり、その上家は火事で焼失してしまっている。

ジャクソン・ヒーリーは護身術のプロであり、女性に頼まれては男をボコボコにするという仕事をしている。

ホランド・マーチは浮気調査や人探しを仕事としている私立探偵である。

映画の舞台は1977年のアメリカ、カリフォルニア州ロサンゼルスである。この時代のアメリカ自動車業界と政府の関係が映画の背景にある。

当時アメリカの自動車産業は好調で、3大自動車メーカーである、ゼネラル・モーターズフォード・モータークライスラーが市場を独占していた。しかし自動車は排気ガスを出すという欠点を持っていた(今でもそう)。

アメリカ合衆国では1963年に大気汚染防止のための法律であるマスキー法が成立していた。地球の環境を守るために大気汚染をなくすことを目的とした法律である。当然、自動車の排気ガスも規制の対象となる。

この映画の中では、自動車業界と政府(司法省)が組んで、この法律に反する行動をとっている。つまりマスキー法で排気ガス規制をされると、ガソリンを大量にくうアメリカ車は立場がなくなる。ガソリンをどんどん使って走って排気ガスを出すのがアメリカ車なのである。ガソリンの消費量を減らし地球に優しい車を作る技術は当時のアメリカにはなかったのだろう。

排気ガス規制は、アメリカ車販売の勢いをそぐものと3大自動車会社には映ったというのがこの映画の展開である。

ホランドとヒーリーはアメリアという若い女性を探すように依頼される。そしてこのアメリアがアメリカ政府の司法省の重役の娘で、アメリアが母親たちを潰そうとして排気ガス規制法についての映画を撮ることが、この映画の要点になっている。

排気ガスは環境に悪くても、産業はアメリカを支えているから大切だと言う母と、悪いことはダメという娘の対立を軸に、この映画は展開していくのである。

政府と産業の思惑のために多数の犠牲者が出る。ホランドはこう言う。「これくらいの犠牲はまだ少ないよ」と。世界にはもっと巨大な悪があるのだろう。

人知を超えたもの

映画「哭声/コクソン(英題:Wailing)」を観た。

この映画は2016年の韓国映画で、サスペンス・スリラーである。

この映画の主人公はジョングという男性である。ジョングは妻子と義理の母と共に住む警察官である。ジョングの住むそして勤務する村に殺人事件が起こる。それも連続してだ。

その殺人事件に共通するのは家族のうちの誰かが、他の家族を惨殺しているということだ。そして最後にその殺人者自身も死ぬことになる。

この映画は人間ではない超越的なものが登場する。それは日本人の男であり、殺人事件の目撃者である女性である。

この話を簡単に言ってしまうとこうである。

ある所に人間の想定を超えた悪魔のようなものがいる。その悪魔のようなものは、何が目的かわからないが人を発狂させて、身内を殺させていく。

悪魔のようなものにはその下僕である祈祷師が付いている。悪魔のようなものが殺人の原因を作り、祈祷師もその発狂を助けている。

一方天使のような超越的存在もいる。それは女性の姿をとっており悪魔のようなものが人を発狂させ人を殺すのから、人を救おうとしている。

その流れに巻き込まれるのが、ジョングの村の住人たちや、ジョングの家族そしてジョング本人である。

この映画の冒頭には新約聖書ルカによる福音書24章37-39節が引用される。それはキリストが復活して弟子たちの前に現れた時にキリストが弟子たちに語った言葉である。それは大体こういう意味である。

「あなたたちは私(キリスト)が復活したことを疑っているのか?よく見て触れてみなさい。私は身をもっている」。

この映画の最後で人間を不幸の中に落とし込んでいく悪魔のような存在がこう言う。「よく見なさい。私には身がある」と。

キリストの言葉を悪魔のようなものが発話するのである。であるとするとこの悪魔はキリストが復活した姿なのか?この悪魔のようなものがキリストかどうかよくわからないのだが、この映画には人知を超越した善的なものと悪的なものが存在する。

人間を超越したものの姿は、善でもあり得るし悪でもあり得るとこの映画は示す。善と悪は表裏一体である。善がある所には悪がある。例えばキリスト教カトリックの神父が、幼児虐待をしていたように。善と悪はいつも危うくバランスを保とうとしているのである。

 

 

 

※人知を超えた神のような存在は人間にとって善でも悪でもあり得る。キリストももちろん人知を超えた存在である。であるならばこの映画の中の悪魔のようなものは、磔になった際にキリストの手にできた傷と同一のものを持っていることになる。つまりこの映画の悪魔的なもの=キリストと言ってもいいのである。そうキリストも神の身内ならば人知を超えていたとしても不思議ではないのである。

 

※wailingはwailの現在分詞。wailingの意味は、泣き叫ぶ、声をあげて泣く。