コントロールで自立は生まれない

映画「ビューティフル・ボーイ(原題:Beautiful Boy)」を観た。

この映画は2018年のアメリカ映画で、アメリカ合衆国で出版された「Beautiful Boy:A Father’s Journey Though His Souls Addiction」という本が原作となる伝記映画だ。

この映画は薬物依存症であるニコラス・シェフとその家族を描いた映画だ。ニコラスの父はデヴィットで、母はヴィッキ、父の再婚相手はカレン、父と父の再婚相手の子供はキャスパーとディジーだ。ちなみに母のヴィッキの方もパートナーがいる。

この映画の内容は本のタイトルからわかる通りで、父デヴィットの息子の中毒を通しての物語(=旅)だ。

この映画の中で、薬やアルコールは問題ではない。問題は別の所にあり、薬やアルコールは問題からの逃避でしかないと言われる。そしてこの映画の中では、このような言葉も見られる。

「私が誘因ではない。私には管理できない。私には治癒できない」と。

まず、ニコラスの父と母は離婚している。その穴を埋めをするかのように、父のデヴィットは息子を愛情と言いながらコントロールしようとする。そのコントロールに耐えることができなくて、ニコラスは増々薬物依存になっていく。

つまり、問題は薬やアルコールではなく、父親の過剰なコントロールにある。父親のコントロールの元にあった子供は、何が良くて何が悪いのか自分で判断する力を欠いている。父はそれを知りより過剰に息子をコントロールするが、息子が依存症から脱するためには、息子自身の決断が必要だ。

父が決めても息子は決めることができない。息子に決定を委ねる時期がきて、息子に判断を委ねようとしたときには、息子は経験不足で自壊していく。よって親は知らねばならない。判断はその人個人でしかできないし、判断を与えることはできないと。判断を与えることは強制になり、非力な決定力を維持させるだけだと。

この映画の中に登場する薬物は最も危険な薬物と言われるクリスタル・メスだ。この薬物は脳にダメージを与える。脳のダメージが脳の感度を鈍らせ、より多くの量の薬物接取に向かわせる。こうなると、薬物の量は増えるばかりだ。

判断する父が息子のすべてを決めてしまうと、息子は何もできない青年へと成長する。コントロールは、人の自立を遮る。

薬物は人を早く死に向かわせるものだ。薬物依存の人たちは言う。「世の中なんてくだらない」と。確かにそうなのかもしれない。日々のニュースを観ていると、世界が嫌になりそうな時など誰にでもある。

しかし、人生には希望が見える時があるし、もしかしたら、その希望はまだ訪れていないだけかもしれない。生きることは虚無ではないとも言えるのだ。