倫理が立ち現れるまで

映画「ボーダー 二つの世界(原題=スウェーデン語: Gräns 、英題: Border )」を観た。

この映画は2018年のスウェーデン・デンマーク合作映画で、映画のジャンルはミステリーだ。

この映画の舞台は、北欧のおそらくスウェーデンだ。

この映画は、トロルとされる、人間と同じ形をした種である主人公の規範が、他者により崩れて、再び主人公の中に新しい規範が立ち上がる映画だ。よって、この映画のテーマは、出会いと崩壊と再生だ。

フランスで暮らしていた、ロシア生まれのユダヤ人哲学者のエマニュエル・レヴィナスの代表的な理論にフェイス・トゥー・フェイス Face to Face というものがある。これは、人が他者と出会ったときに、その人が危機に陥り、その人の同一性が崩れて、その人と他者の間に倫理が立ち上がるというものだ。この映画「ボーダー」は、まさに、このレヴィナスのフェイス・トゥー・フェイスの理論をビジュアル化したものと考えることができる。

人が他者と出会うと、当然その他者は、その人にとって他人つまり外部性だ。人は、外部の人と出会うと、その人の中にある規範=その人の中のルールが揺らぐ。それは、その人がまだ自分の知らない価値観に触れるためであり、その動揺の発端は、他人というまだ知らない人物の価値観に触れるためだ。この映画「ボーダー」では、その他人が持つ外部性は、非近代的な特性・生活様式により表現される。この映画「ボーダー」は、近代の外部に触れて、倫理が他者との間に立ち上がる映画だと表現できる。それでは、これからこの映画「ボーダー」がどのように非近代性に触れ、崩壊と再生を行うかを説明していきたい。

主人公のティーナは、森の中で、ローランドという男と同棲をして暮らしている。ティーナは、人間の集合的な価値観からすると、見た目が”原始的” で原始人のような見た目をしている。ティーナは、森の中に両親から相続したらしい家を持っていて、ローランドはその家にタダで住めることを良しとして、ティーナと同棲をしている。ローランドは浮気をしており、ティーナとの仲はあまり良くない。ティーナは、ローランドが浮気をするのは、ティーナの見た目が”原始的” なせいだと思っており、ティーナは、その自分の原始性=外部性を好ましく思っていない。つまり、ティーナは内面は人として洗練されているが、外見が”原始的” で近代的な見た目ではないとされる。ティーナの内面が人間的であることが、ティーナが入国管理の仕事をしていることからわかる。ティーナは両親たちにより人間の規範を内面化しており、人間社会における正義を知っている。ただ、その入国管理の持ち物検査には、ティーナの強力な臭覚=原始性=外部性が使われる。

ティーナは、入国管理の仕事をしていて、ヴァーレという男に出会う。ヴァーレは、他の人間とは”違い” ティーナのような原始的な見た目をしており、ヴァーレはどこか奇妙な規範によって行動をしている。ティーナは、その自分と見た目が似たヴァーレに惹かれる。

この映画「ボーダー」では、近代の外の世界、つまり近代の外部性が現れて、それがティーナの元々抱える自身の原始的な見た目という外部性とそれに劣等感を抱えるティーナの気持ちを揺さぶる。外部性は、原始的な見た目、ティーナの動物的に敏感な臭覚、ヴァーレの存在、ヴァーレが虫を食べること、ヴァーレが犬を獣的に脅して黙らせること、などに示されている。この映画「ボーダー」では、外部性は、近代の外=原始的な生き方として現れる。

ティーナの原始性=外部性を、ヴァーレが呼び覚ますのがこの映画「ボーダー」だということができる。そして、ヴァーレは、最初は人間だと思われるが、トロルと呼ばれる、人間に迫害をされてきた人間と似た人間ではないものだということが明らかになる。そして、ティーナもそのトロルだということが映画で明らかになる。

北欧で、迫害をされてきた人たちと言えば、サーミの人たちがいる。北欧の各国政府から迫害をされてきたサーミの人たちは、その政府に管理されて、観察、監視されていた。そのことが描かれた映画に「サーミの血」という映画がある。アメリカ合衆国で起こっていた黒人差別と同様に、サーミと呼ばれる人たちは迫害をされていた。サーミと呼ばれる人たちは、自分たちの生活様式を持ち、近代的というよりは”原始的” な生活をしている。つまり、この映画「ボーダー」に登場するヴァーレとティーナは、北欧のサーミの人たちの存在と被る。ヴァーレとティーナとサーミの人たちは、近代国家の外部に住む人たちという点で共通している。

ティーナは、人間の両親により育てられたが、それは、ティーナの本当の両親からティーナが奪われた結果だった。ヴァーレは、トロルの両親を人間による実験によって殺された。それは拷問だったとヴァーレは語る。ティーナは、トロルの両親たちにレーヴァと呼ばれていた。その事実を知ったときに、ティーナ=レーヴァは、自分の新しい生き方、つまり自分と他者との新しい関わり方、言うなら、新しい倫理を立ち上げることを自覚する。それは、人間でもトロルでもない、そしてその両者と接点を持つ、新しいティーナ=レーヴァの生き方だ。そして、その倫理は、ティーナ=レーヴァとヴァーレとの子供=赤ちゃんという形で明示的に示される。

映画を観るものは、ヴァーレの外部性に侮蔑と恐怖を抱くだろう。その侮蔑と恐怖は、ヴァーレが、ほとんど完全に人間の法や掟などなんとも思っていない証拠だ。人間の掟や法を犯すことで、ヴァーレの外部性が非常に鮮明にこの映画「ボーダー」では描かれる。

ここまで綴ってきた言葉で、レヴィナスの論理形式が現れている映画であることは感じとってもらえるだろう。

筆者は、このレヴィナスの全体性に関するフェイス・トゥー・フェイスという理論を、マイクロソフト社のA.I. であるCopilotのチャットで知った。そのチャットで知った情報をレヴィナスの該当する本のPDFで確認を部分的にした。そのレヴィナスの論拠が載っているページ数は、A.I. であるCopilot が指定してくれた。さて、このマイクロソフト社のA.I. であるCopilot の使用を禁じる会社も出てきている。アメリカ合衆国では、A.I. の使用により自殺者が出るなどしている。またA.I. のデータセンター建築には、コンゴの非常に劣悪な環境で採取される鉱物から取れる金属が使われる。また、データセンターは、空気や水の汚染や騒音などの懸念がされている。つまり、A.I. という近代的で未来的なものは、公害や暴力の外部性を含んでいる。この外部性と対峙していく人は、どのような新しい規範を生み出していくのか⁇ 人は新しい規範を生み出すことはできるのか⁇ これらについて考えるプロセスを、明示的に示しているのも、この映画「ボーダー」だと考えることもできる。

映画「ボーダー 二つの世界」