統治権力を縛る

映画「追憶(原題:The Way We Were)」を観た。

この映画は1973年のアメリカ映画で、第2次世界大戦中に出会った2人の男女が、大戦も終わり、戦後になって青年期の終わりにさしかかるところまでが描かれている映画だ。

この映画の主人公はケイティー・モロスキーという女性と、ハベル・ガードナーという男性の2人だ。簡単に言ってしまうと、ケイティーは政治に対して積極的な女性で、ハベルは政治に対して一定の距離をとろうとする男性だ。

ハベルを政治に対して距離をとる男性だと書いたが、政治から距離をとることなどできるのだろうか?人は好むと好まざるとに関わらず、ある土地の中で暮らす。それはつまり、現在ではある国の領土に住んでいるということだ。

人が何もしなくても、国は常に動いている。国というものはそこに住む人の人生を決定するような重要な取り決めをする。そして住人はその決定に服従することが強いられる。

だから憲法は国民が作ったものであるという発想が重要になる。つまり、憲法が国民の命令により国を縛らないのならば、国は国民の意思を離れて一部の権力者のみの要望で動くようになる。

国民が憲法により統治権力を縛り付ける。そのような状態があるべき状態なのだ。

人はある土地に住んでいる限り、何らかの統治権力の下にあるということになるが、しかしここで重要なのは、人々が統治権力をコントロールしているということだ。するとこの議論に別の視点が加わる。

つまり、非政治的な人は何もしないという意思表示により、既に国民としての態度表明をして、国に対するコントロールを発しているのだという視点だ。

しかし、この視点は国民ではなく、統治権力によって裏切られることになる。つまり、統治権力は、国民なしには存在しえないが、統治権力は狡猾なので、いつ国民を裏切るかわからないということだ。

だからこの視点を含めて考えるのならば、人は常に政治的にあろうとすべきなのだ。統治権力は不支持を甘んじて受け入れるほど従順ではないのだから。

この映画の中ではケイティーが常に政治的である人物だ。ケイティーは、常に権力に対する疑いがぬぐえない。なぜなら、人々は女性というだけで、女性をある特定の役割に無理強いするからだ。

女性の権利の主張は、常に人々により裏切られてきたから。統治権力もケイティーたちを裏切ってきた人々に含まれるのだから。