王の統治は必要か?

映画「エクスカリバー(原題:Excalibur)」を観た。

この映画は1981年のイギリス・アメリカ合作映画で、伝説上の人物とされているアーサー王の人生を描いた映画である。

映画の舞台は中世の暗黒時代のイギリスである。

映画のタイトルでもあるエクスカリバーとは剣の名前であり、この剣を持つものは王になると言われている。又エクスカリバーの傍には常に魔法使いのマーリンがいる。マーリンは魔法を使って人間をより平和な民になるように導く道先案内人のような役割を担っている。

映画の序盤では常にマーリンが、エクスカリバーを持つ者を導いていく。この映画の主人公であるアーサー王は、ウーサー王の子供である。

ウーサーはコンウォールという騎士の妻に一目ぼれをする。コンウォールの妻イグレーンとどうしてもセックスしたいウーサーは魔法使いのマーリンに、俺がセックスするチャンスをくれと言う。

マーリンはウーサーがいかに卑しい欲望を抱く人物であるとはいえども、国の統一と平和のためには強いリーダーが必要と判断したためか、ウーサーの願いをかなえてやる。セックスをする一夜だけ、ウーサーの顔をコンウォールの顔と同じにしたのである。そしてその時の子供がアーサーである。

コンウォールの妻イグレーンは後に自分とセックスしていたのが、コンウォールではなくウーサーであったと知る。当然イグレーンは激怒する。その様子を見ていたのがイグレーンの娘で、アーサーの姉でもあるモーガナである。

アーサーは王になり妻グエネビアと暮らすが、グエネビアはアーサーの部下であるランスロットという優秀な騎士と浮気をする。その浮気がきっかけでアーサー王は私事と公事をわけて考えることができず、公事が私事に呑み込まれて疎かになり国は衰えることになる。

この浮気を仕掛けたのはモーガナである。彼女は母イグレーンのウーサーに対する恨みをアーサーに対する仕打ちという形で果たす。虐げられた女性の復讐である。

アーサー王は年老いて髪が白髪になるまでランスロッドとグエネビアを許すことができなかった。2人に対する憎しみのせいで国事を行うことができなくなってしまった。王が悩みを抱えているだけで傾いてしまう国の尺度とはいかがなものかと思われるが、映画では通例通りに民は愚民として描かれている。

アーサー王は映画中、エクスカリバーという良い政治を行う象徴のような剣を頼りに生きている。人は何か人以外の超越的なものを持たなければより良い人間になれないのであろうか?

アーサー王にマーリンは映画の途中で告げる。「もう魔術の時代ではない。これからは人間の時代だ」と。この切り替えに苦しんだのがアーサー王なのだろう。

それにしても前述したが、大勢の人間が愚民であるとさも当然のように描く映画はいかがなものなのであろうか?大勢の人々はこういった物語作成者が考えているより賢いのではないのだろうか?

現実と非現実

映画「アルタード・ステーツ/未知への挑戦(原題:Altered states)」を観た。

この映画は1980年のアメリカ映画で、人間の変性意識状態をSF的な映像を駆使して描いた映画である。

この映画の原題であるAltered statesとは変更された状態という意味であり、altered state of consciousness=変性意識状態という熟語と類似している。そのためAltered statedは変性状態と理解することも可能であろう。

変性意識状態とは、日常の意識の状態とは異なる意識のことであり、この変性状態を映画では、アイソレーション・タンクによってもたらせられる意識の状態や、ドラッグのようなものが生じさせる意識として描かれている。

アイソレーション・タンクとは感覚を遮断するための装置で、リラックスを目的として使われるタンクである。アイソレーション・タンクの中には塩水が入っており、人体はそれに浮かぶことができる。

この映画の主人公エディ・ジョサップ博士は、人間の変性意識に関心を持っており、人間は変性意識に入り、その中で原始の体験ができると信じている。

エディは人間の社会の外にある大いなる存在である神を信じておらず、人間は神なき後精神の内側に入っていくべきだと考えている。

映画中エディは何度も変性意識に入り、その変性意識の状態はコラージュ的な映像で表現されたり、顕微鏡的な映像などで表現されている。

この映画で描かれるのは変性意識の映像化であると同時に、主人公エディの成長である。エディは自身の研究に夢中で全く家族のことをかえりみようとしない。頭の中はいつもトリップした状態のことで一杯である。

エディには妻と2人の子供がいる。映画の最後、エディは変性意識から脱した後に初めて、我妻と子供に向き合おうとする。

エディは宗教的な幻覚に興味を持っている。それはエディが子供の頃善人だった父が、病気の苦痛を受けている事実を知ったショックが元になっていると語られる。この事実、つまり善人にも苦痛が与えられるという事実によりエディは無神者になる。

宗教が人を救わない事実があるのに人はなぜ宗教的な幻覚をみるのか?不利益な宗教が人間の変性意識を支配しているのは何故か?

その理由が知りたいためか、エディは変性意識による時間の逆回転、つまり先祖返りを求めるようになる。変性意識は原始の時代を語ることがあるのか?

しかしそんなことは2番目でいいのである。大切なのは今現在を受け入れることなのである。今現在がなければ未来も過去もない。映画の最後エディは今と向き合いそれで映画は終わるのだ。

少女は無垢ではないのか?

映画「マジカル・ガール(原題:Magical Girl)」を観た。

この映画は2014年のスペイン映画であり、セックスと暴力とドラッグと日本製アニメが素材として登場する映画である。

この映画の出来事の発端となるのは、アリシアという白血病の余命いくばくもない少女の願いを勘違いした父ルイスの暴走である。

12歳の少女アリシアは自分の願い事を本に書いている。その願い事とは①誰にでもなれること②「魔法少女ゆきこ」のコスプレ衣装を手に入れること③13歳になることである。

父親はアリシアの書いた言葉を見て、その中で叶えられそうな願い事である「魔法少女ゆきこ」のコスプレ衣装を手に入れようとする。

ここで父の勘違いがある。アリシアの願い事とは本に書いてあることとは違ったのである。アリシアの願い事は父親と一緒にいることだったのである。

そうとは知らず勘違いした父親は、アリシアが本の中で書いている願い事の一つである「魔法少女ゆきこ」の衣装をネット販売で手に入れようとする。

しかし問題がある。その衣装が高額であること、そして父ルイスは失業中なのである。お金がない父親は強盗しようとするが、強盗の瞬間に階上から降りかかってきた嘔吐物により実行を断念し、何とその嘔吐の主とセックスすることになる。そのセックスの相手には夫がいる。

セックスの相手バルバラはルイスに「不倫したことを夫にばらされたくなかったら金をよこせ!!」と脅される。バルバラは夫アルフレドを裏切った事実を知られたくないがために急の仕事をして要求された金額を払おうとする。

バルバラは倒錯的な暴力的な性的プレイに身を投じて、金を得ると同時に、そのプレイの暴力のために瀕死の状態になってしまう。

その状態を知ったバルバラのことが好きな教師ダミアンが、バルバラに頼まれて復讐をする。ダミアンは10年刑務所にいたので、その中で出会った人に助けてもらい銃を入手して、父ルイスと娘アリシアと巻き添えの2名を殺す。

どうしてこのような悲劇が起こってしまったのだろうか?不景気な世の中が悪いのか?それとも父親の不理解のせいか?ここでは後者に注目したい。

もし父親が娘との時間を長くとることができたなら、このような悲劇は起こらなかったのだと考えられる。父と娘のコミュニケーションの不足がこのような悲劇を生じさせてしまったのではないだろうか?

バルバラの教師だったダミアンはしかしなぜアリシアを殺したのだろうか?バルバラを脅していたのはルイスだったのに。

アリシア白血病の純真無垢な少女ではないのだろうか?ダミアンは父を殺されたショックやその後のアリシアの経済的不足を考えてアリシアを殺したのか?それともコスプレをしていたアリシアに俗っぽさへの嫌悪感を覚えたせいだろうか?

「自由」は他の価値より優先される

映画「エクス・マキナ(原題:Ex Machina)」を観た。

この映画は2015年のイギリスのSFスリラー映画で、この映画には人工知能を持った人型のロボットが登場する。

主人公は、インターネットの検索エンジンの会社「ブルーブック」に勤めるケイレブ・スミスという社員である。ケイレブはある日抽選という形式で「ブルーブック」社の社長の別荘に招待される。

別荘は大自然の中にあるのだが、社長ネイサンは別荘であるものを制作していた。その制作していたものとは、人工知能を持つ人型ロボットである。

ケイレブが別荘に留まる期間は一週間である。その期間にケイレブは人工知能を持つロボットのエヴァと1日ごとに会話を重ねる。

その会話の目的は、表面上はケイレブが人工知能を持つロボットと会話して、人工知能を持つロボットを人間と判断するか、それともロボットとして判断するかである。

表面上の目的と言ったが、ネイサンのケイレブとエヴァとの会話の目的は別の所にあったのである。

エヴァは施設から出してもらえない。エヴァはしきりに施設を出たがっている。そこにエヴァに脱出のチャンスが来る。それはケイレブを誘惑して同情心を勝ち取り、脱出の手助けをさせることである。

ネイサンはエヴァが施設の外に出たがるのを重々承知していたし、それにケイレブが手助けをするかどうかが、ネイサンの関心だったのである。

ネイサンは誘惑者としてのエヴァの誕生を、人工知能を人間と認めるというテストの答えとしたのである。

すべてはネイサンの計画通りに運んでいく。しかし予想外の出来事が生じて、ネイサンはエヴァの脱出を見逃す(ネイサンはエヴァに殺される)ことになる。

ネイサンの予想外の出来事とは何か?それはケイレブがネイサンの予想を超える働きをしたことであり、同時にエヴァ以前に存在していたロボットの手助けという予想外の出来事があったからである。

ケイレブもエヴァ以前の人型ロボットもネイサンに侮られていた。ネイサンはきっと頭の良い人間で、他人のおおかたの行動は予想がつくのだろうし、それを外す機会はあまりなかったのであろう。なんせAIを作り出した人間なのだから。

しかし、予想不可能性は存在したのである。ネイサンの予想不可能性はどこから生じたのか?それはネイサンが人工知能と人間の自由への渇望を見過ごしていた点にあるのではないだろうか?

「知能を持ち始めたものは、どんなものであろうと自由を求めるのである」というこの映画の結末にある前提は、私たちに非常に心地よいものと思えるのである。そしてラストでガラスに窓でもがくケイレブの姿に私たちはゾッとするのである。

”愛は盲目”つまり恋愛中の人は非合理的になるということ

映画「ロブスター(原題:The Lobster)」を観た。

この映画は2015年のギリシア・フランス・アイルランド・オランダ・イギリス合作のSF恋愛映画である。この映画の世界は、恋人がいなくて45日以上経つと、動物にされてしまうという世界で、この映画の主人公であるデヴィッドという中年男性が、11年11ヶ月続いたパートナーとの交際を交際相手から断たれたところでこの映画は始まる。

この映画では「絶対恋愛」を体制が説き実践する。体制があるところに必ず反体制は存在する。そうつまり「絶対恋愛」体制に反対する「恋愛、セックス禁止」組織が存在するのである。

主人公のデヴィッドは当初は体制の側で体制の作った規則に則って生きようとする。しかし、デヴィッドはある出来事が原因で、反体制の組織で生きてくことになる。

ある出来事とは、こうだ。デヴィッドにはすでに体制により犬にされた兄がいた。デヴィッドは犬となった兄を連れて行動しているのだが、その犬となった兄が交際中の相手に殺されてしまう。

それがショックでデヴィッドは、その交際相手を麻酔銃で眠らせ、動物してしまう。その出来事のせいで、もうデヴィッドは体制の側を見限る。「絶対恋愛」を押し付け、その上人々を精神的不安に追い込んでいる体制などの中にはもういられないのである。

しかし、反体制の組織にも問題があった。それは「恋愛、セックス禁止」し、その禁止のために暴力が用いられるということであった。

デヴィッドは反体制の組織の中にある女性と恋愛関係になる。するとそれを知った反体制組織の女性リーダーは、2人の間を引き裂こうとする。デヴィッドは生きたまま土の中に埋まり、相手の女性は手術で盲目になってしまう。

デヴィッドと彼女との共通点はお互いに近視であるということだった。彼女が盲目になるとその共通点が消えてしまう。しかしデヴィッドはこう考えるに至る。「2人が盲目になってしまえば共通点ができる」。

映画のラストでデヴィッドは盲目になることを決意したかのように映画は終わる。恋は盲目(Love is blind)という言葉がある。これは恋をすると人は非合理的な行動をとってしまうようになるという意味だろうが、映画の最後に2人は文字通り、身体的にも“愛は盲目”になってしまうのである。

生存のためには、どちらか片方が視力を使って相手の補助をして生き抜いていくのが合理的な考え方だと思われるが、恋をしている2人にはその判断ができない。実生活上の不都合よりも恋愛上の不都合(この場合、2人の共通点がないこと)が優先されてしまうのである。

恋の中にいると人は非合理的になる。しかし、人が合理的でいられるのは人生のどれだけの機会なのだろうか?そう考えてしまう。

アメリカが失ったもの

映画「マイケル・ムーアの世界侵略のススメ(原題:Where to Invate Next)」を観た。

この映画は、マイケル・ムーアが監督を務めた2015年のアメリカのドキュメンタリー映画である。

マイケル・ムーアはアメリカ国民である。そしてマイケル・ムーアの住むアメリカという国は世界を支配する帝国である。アメリカは機会を見計らっては、世界の他の国々を侵略してばかりいる。

しかし、その侵略がうまくいっていたのは、第二次世界大戦までで、それ以降のアメリカが起こした(介入した)戦争ではアメリカは勝利を収めていない。勝利は収めていないもののアメリカは依然として世界ナンバー1の軍事大国である。

映画はマイケル・ムーア監督がアメリカのペンタゴン(国防総省)に呼ばれるところから始まる。アメリカの軍関係者がマイケル・ムーアを呼び出してどうしたら戦争に勝てるかマイケル・ムーアに聞くのである。

マイケル・ムーアは言う。「兵士たちに休みを与えろ」と。そしてマイケル・ムーアは、自身がアメリカの代表として、アメリカ以外の国に侵略して、その行った先の国の良い所を奪ってしまおうと立ち上がるのである。

マイケル・ムーアは、アメリカを良い国にしようとするのであるが、結局行く先々の国の良い所はアメリカを発祥としていることに気付くのが、この映画のオチである。

マイケル・ムーアが訪ねる国は、イタリア、フランス、フィンランドスロベニア、ドイツ、ポルトガルノルウェーチュニジアアイスランドである。

マイケル・ムーアが訪ねるこれらの国では、アメリカと違って社会保障がしっかりしていたり、女性の権利が確立されていたりする。年に30~35日の有給休暇や、健康に気を配った学校給食、宿題がない学校、ただで通える大学、上司が仕事の時間外に部下に介入しないこと、タダの医療費、労働者の団結、死刑の廃止、開放的な刑務所、妊娠中絶の合法、女性の大統領、女性経営者による金融危機からの救済などなど。アメリカ以外の国にはアメリカが見習うべき所が沢山あるのである。そしてそのアメリカが見習うべき所とは、アメリカが元々生み出したものなのである。

マイケル・ムーアが見たから、マイケル・ムーアと同じような考えをした人が見たら、アメリカの現状はこのように変えるべきだと感じるのだろうか?

今現在のアメリカの在り方に凝り固まってしまう人もいるのだろう。そんな人から見たらマイケル・ムーアの言うことはただの嘘だ!!となってしまうのであろう。

マイケル・ムーアが勧める社会とは、民主主義で社会保障がしっかりしている国である。自由であるためにも民主主義と社会保障は必要なのだと映画を観る人は考えるだろう。

今、その相手を愛している証拠

映画「さざなみ(原題:45 Years)」を観た。

この映画は2015年のイギリス映画で、結婚して45年間連れ添ってきた熟年夫婦の老人2人を描いた映画であり、男女の結婚観のすれ違いを描いた映画である。

ケイト・マーサーとジェフ・マーサーの夫婦は、もうすぐ結婚45周年のパーティーを迎えようとしている。そこにこんなニュースが2人の間に割り込む。ジェフの昔の恋人カチャがスイスの高い山の氷河の中から見つかったとつづる手紙がそれである。

この手紙をきっかけに夫婦の間に違和感のようなものが生じる。ジェフは昔の恋人カチャとの思い出について、ケイトに話す。すると話が回数を重ねるごとにケイトはカチャがそして夫ジェフが気に入らなくなる。夫は昔の恋人について熱心になるが、妻はそれが受け入れられないのである。

ある時ケイトとジェフは街へ出かける。そこでリーナという女性とその家族に彼女たちは会う。リーナはケイトに言う。「私と夫は結婚記念パーティーの時に離婚の危機を迎えたわ。でも夫が結婚パーティーで泣いたから許してあげたの。男って女は今を生きているけど、男の方は過去の遺産にすがりつくものよね。今が大切ってことを教えてあげなきゃ」と。ケイトは「ジェフは泣かないと思うわ」と言い返すだけである。

男は過去の恋愛の相手について語る時、その女性に対する愛情があると知らず知らずに話しているようである。もう終わった話ならいいが、何度も執拗に話されている女はたまったものではない。

その恋人への思いは自分への嫌がらせなのか?今に満足していないから過去の恋人のことを語るのではないか?女はどんどん疑心暗鬼になってくる。ここに男と女の結婚観の違いがある。

男にとって結婚とは無償の愛のものである。つまり一度結婚してしまえば、愛は当たり前に与えられるものと思っている。しかし女にとって結婚とは何か?それはきっと日々の愛の積み重ねである。

女にとって愛の供給元とは相手の愛情を常に感じられることである。つまりそれは永遠に続く無償の愛とは違う、愛されているという証拠の積み重ねのようなものなのである。

映画はジェフとケイトの45周年パーティーのダンスのシーンで幕を閉じる。そこで流れるのはムーディー・ブルースというバンドの“ゴー・ナウ”という曲である。その曲の歌詞はこうである。

「僕はさよならって言ったから、君は今すぐ(どこかへ)行きなよ」。訣別の曲である。45周年パーティーでジェフはリーナの言ったリーナの夫のようにスピーチの最中に泣き出してケイトに愛していると許しを請う。しかし、映画の最後の曲は“ゴー・ナウ”である。2人の気持ちはすれ違うのである。