近代化が排除した同性婚

映画「キャロル(原題:Carol)」を観た。

この映画は2015年のアメリカ映画で、テレーズ・べリベットとキャロル・エアードという2人の女性の恋愛を描いた映画である。映画の時代はアイゼンハワーが大統領に就任した1953年頃と思われる。時期はクリスマス前から新年へと進んで行く(アイゼンハワーが大統領に就任するのを祝って、テレーズの働いているデパートでは就任記念のセールをやっている。アイゼンハワーが大統領に就任したのは1953年の1月10日なので、もしかしたら、就任直前の1952年のクリスマス・シーズンが映画の舞台になっているのかもしれない)。

1950年代とはどのような時代だったのだろうか?この映画は女性同士の恋愛を描いているので、特に1950年代の同性愛者への待遇がいかなるものであったのかが気になるところである。そして男性同士の同性愛と女性同士の同性愛、それぞれへの待遇、また両性愛同士の待遇の共通点はいかなるものであったのだろうか?

ここで同性同士の結婚についてみてみたい。同性の結婚が法的に認められるのは2010年代に入ってからだと、各国の法整備をみてざっといえると思う。例えばオランダでは2000年に同性婚法が成立している。これが同性婚法の先駆の例である。

しかし、同性婚合法化への動きが活発になるのは2010年代だと言っていい。ポルトガルアイスランドデンマーク、フランス、イギリス、ルクセンブルク等の国の多くが2010年代に同性の結婚を合法化している。

では、同性の結婚が合法化されていない状態というのはどういった状況なのだろうか?簡単に言ってしまえば、同性での結婚は認めませんというのが同性婚合法化以前の全体の流れなのである。

同性婚を認めないというの事実が、同性婚したい人々の排除を生み出す一因となっているというのは確かなことである。「異性同士の結婚以外は排除する」というのが同性婚法成立以前の同性愛者への国家の態度表明なのである。

18世紀後半のイギリスから始まる近代化は、その国に住む人々に合理的な態度を押し付けて行った。産業化のためには家族があることが好ましく、父一人、母一人、複数の子供、そして祖父、祖母という家族の形が産業化した、つまり近代化した社会の好んだスタイルである。ここに同性婚の入り込む隙間はない。

同性愛は表舞台に立たないことが近代の社会には好ましいのである。同性婚などされてしまったら子供が生まれなくなるのだから。近代化という産業を中心とする社会の合理化のために犠牲になったのが同性愛者なのである。

一般的なスタイルの維持のために“異常”を吊るし上げろ!!これが近代国家の正体なのである。

現在同性愛者も異性愛者と同じように子供を持つカップルとして生活をしている。その姿は映画「キッズ・オールライト(原題:The Kids Are All Right )」(2010年、アメリカ)でレズビアンのカップルという姿で描かれている。

移民が移民を排除する

映画「天国の門(原題:Heaven’s Gate)」を観た。

この映画は1980年のアメリカ映画で監督はマイケル・チノミで、19世紀末から20世紀の初頭までの期間を描いた映画であり、映画の主題は、移民の対立と恋愛である。

この映画の中で描かれているアメリカでの移民の対立は実際にあった。ワイオミング州のジョンソン郡でのジョンソン郡戦争のことである。

アメリカは移民の国である。アメリカ大陸に移民よりも先に住んでいたのはアメリカ・インディオの人々である。そこにヨーロッパから白人が入植し、インディオたちの土地を奪って、そこで農業や牧畜を始めたのである。

アメリカとはインディオからヨーロッパ白人たちが奪った土地であり、アメリカで幅をきかせている白人たちは皆移民なのである。つまり、アメリカに住む白人はインディオから土地を奪ったという罪をおっている。

それに加えてアメリカの移民たちはもう一つの罪を犯すことになる。それがこの映画に描かれている移民による移民の排除である。アメリカ移民たちはインディオから土地を奪い、奪った土地を自分たちの所有物として独占しようとして、後から入植してきた移民たちを排除しようとしたのである。

映画では新しい入植者として農場主と商人たちが登場する。そして先にアメリカに入植していた牧畜業者協会が新しく入植してきた農場主や商人たちを武器を用いて殺すのである。

移民が自分と同じく移住してきたものを冷遇し、殺害する。生活のためにやっていることだと殺人を合法的だと正当化するのが牧畜業者協会である。

アメリカに移り住んだのはヨーロッパで不遇の運命にあり、それを脱却しようとした人々である。アメリカはイギリスからの独立を勝ち取ることで自立した。ではアメリカ人として自立したのは誰か?それは当時のイギリス人たちである。

イギリスでは国教以外の宗教を弾圧していた。イギリスから独立した元イギリス人たちは、イギリスの国教以外の宗教を信仰していた。だから本国イギリスでの生活に耐えかねて、新天地アメリカに彼らはやってきたのである。抑圧された者たちが作り上げたのがアメリカなのである。

しかし、この映画で描かれる移民は移民を弾圧し抑圧する。自分たちの住むアメリカのルーツ(非イギリス国教派がイギリスから逃れてアメリカに移り住んだ)をこの移民たちは全く知らなかったのであろうか?

「そんなもの知ったことか!!俺たちは俺たちのルールでやる。歴史など糞くらえだ!!」そんな言葉が聞こえてくるようである。自らの歴史を知る。これはとても大切なことだ。同じ過ちを繰り返さないためにも。

至る所に神はいる。人間の中にも。

映画「シン・レッド・ライン(原題:The Thin Red Line)」を観た。

この映画は1998年公開のアメリカ映画で、第二次世界大戦ガダルカナル島の戦いを描いた作品である。この映画はある特定の1人の主人公が居て物語が繰り広げられるものではなく、ガダルカナルの戦いの戦闘に参加した複数の兵士たちの視線で描かれている。

この映画は主に3つのルーツを持つ人々が登場する。まず映画の主体となるのはアメリカ兵である。そしてそれに敵対する日本兵がいる。そしてその戦闘の地で生活をしているガダルカナルの住人たちがいる。

複数の人々の視線で描かれている映画だと先に書いたが、その人々とは主にアメリカ兵のことである。つまりこの映画はアメリカから見た、ガダルカナルにいる住人の姿と、日本兵の有様なのである。

この映画の中では映画の途中に所々誰かに話しかけている語りが入る。その語りの主人は時によって変わるが、話しかけている相手は一定の相手のようである。では一体彼らは誰に話しかけられているのか?

それはきっと「神」に語り掛けているのである。「汎神論」という言葉がある。この言葉が指す意味とは「神はいたるところにある。この世のすべてのものが神なのである」だ。太陽も木々も川も海も鳥も山も人間も「神」ということができるというのが汎神論という立場である。

“人間が神である”とはどういうことなのか?それは人間の中に生じる悪でさえも「神」であるということである。善いことが「神」と繋がっているのは理解できるが、悪が「神」と繋がっているとはどういうことなのか?

「神」は全能である。「神」は全能であるがゆえに悪いことも作ることができるのである。この考え方、つまり神万能主義においては「神」と悪とは併存できるのである。

映画の語りは常に“これも神なのですか?”“あれも神なのですか?”と語り掛ける。そして映画の最後にその疑問は確信へと変わる。

語りはこう言う。「あなたは私の目を通して見ているのだ」と。これは人間の体の中に「神」が存在していることの確信である。

人間が正しい行いを行うことができるのは悪が何かわかっているということである。つまりこの場合では悪が善が存在するために存在することが認められる。「神」はあらゆるところにある、つまり人間の中にもあるのだから、正しいことを人間が心の中に思い描くことも可能である。

「神」は人間に善という理想形を指示しているのである。最後の語り「私の目を通じて世界を見よ」とは「神」と人間の合一を表現しているのかもしれない。

ギャングをマフィア逮捕のために利用したFBI

映画「ブラック・スキャンダル(原題:Black Mass)」を観た。

この映画は2015年のアメリカ映画で、犯罪映画である。この映画は実話を元にした映画で、映画の舞台はアメリカ合衆国マサチューセッツ州のボストンである。ボストンの南にある南ボストンに3人の幼なじみがいた。

1人はジェームズ・“ホワイティ”・バルジャー、もう1人はビリー・バルジャー、そしてもう1人はジョン・コノリーである。ジェームズ(ジミー)とビリーは兄弟であり、ジョンはその友達である。ジミーは大人になってギャングになり、ビリーは州の議員になり、ジョンはFBIに入った。

南ボストンは貧しい白人が住む地域であり、ジミーがギャングになったのは不思議ではない。またビリーとジョンは成功したサウシー(南ボストン出身の人)であると言える。

この映画のポイントはFBIとギャングが協力してマフィアを排除し、そのままFBIとギャングが癒着し、FBIとギャングがお互いの利益のために他の犯罪集団を排除して、何が正義なのかわからなくなる点にある。

ある時FBIのジョンは幼なじみであるジミー(ホワイティ)にこう協力を呼びかける。「ジミー君は、“ウィンター・ヒル”っていうギャングのボスだよね。君の敵にイタリア系マフィアのアンジェロ・ファミリーがいるよね。アンジェロ・ファミリーは君たちの敵でもあるし、FBIの敵でもある。だから手を組んでアンジェロ・ファミリーを排除しようよ」と。

これがFBIの一捜査官とギャングのボスとの癒着の始まりである。FBIのジョンはマフィアの排除のためにジミーを利用し、ジミーはジミーの犯罪を密告したものをFBIのジョンから聞き証拠封じに殺していく。

この映画の中で、ジミーは何件もの殺人を犯す。そしてFBIの後ろ盾があるため捕まることはない。ジミーはFBIの情報操作のためにやりたい放題なのである。

映画の中ではこの事の始まりは、FBIのジョンがジミーに話を持ち掛けたことである。FBIは汚い仕事である殺人をギャングにさせているようにも見える。ジミーから仕入れた情報という建前により犯罪者を捕まえて、ジミーたちに対抗する他のギャングの、もしくは“ウィンター・ヒル”の中の密告者の名をジミーに知らせてたのだから。裏切り者をジミーが殺すことは当然ジョンたちFBIも予期していたはずである。

アメリカ国民の良心をFBIは裏切っているのではないだろうか?ジミーの殺人は当然人の目を引くが、それをそのまま放置していたFBIは、アメリカ国民の良心や、もしくは良くありたいと思う人間たちの良心を踏みにじっているのである。

反復する破壊的欲動

映画「イット・フォローズ(原題:It Follows)」を観た。

この映画は2014年に製作されたアメリカ映画で、映画の内容はホラーである。この映画の主人公はジェイという19歳の女子大生である。ジェイは交際していたヒュー(本名:ジェフ・レドモンド)とセックスする。

セックスの後ヒューはジェイを気絶させ拘束し、ジェイに“自分をつけて来るもの”を見せる。そしてヒューは言う。

「今のセックスで僕は君にあるものをうつした。それは感染者以外には見えない。そしてそれは変幻自在で君の命を奪いに来る。君はゆっくり確実に追いかけてくるそれから逃げるんだ。もし君が死ねば以前感染していた者(この場合はヒュー)の命を奪おうとそれはしてくる」と。

ジェイは友達のポール、ヤラと姉妹の女の子と近所のグレッグと共に、ジェイをつけて来る“It(それ)”から逃げ続ける。ジェイの仲間の中で特にジェイを思いやっているのは、ジェイのファースト・キスの相手のポールである。

ポールはヤラにドストエフスキーの「白痴」の主人公みたいと言われるような文系内向系(?)青年である。ポールは好きなジェイの見ている世界と同じ世界が見たいのかもしれない。なぜならポールはジェイが好きだから。

ポールは映画の最後にジェイとセックスする。ポールはきっとそれでジェイと同じ世界を共有することになるのを期待している。

ところで映画の中に登場する変幻自在の“It”とは何なのだろうか?その“It”が何なのかを映画はあまり説明しない。“It”は何のために現れて、何を目的にしているのか?

人間には欲動というものがある。例えば性欲、食欲、睡眠欲。欲動は一時的に解消されてもまた沸き起こる。つまり欲動は反復する。欲動の一種に破壊的欲動(死の欲動)も存在する。当然それも欲動の一種なので反復する。一旦おさまっても欲動はまた生じるのである。

この映画の中の“It”とはセックスしたいと思う性的欲動と同じ欲動である死の欲動のことでないだろうか?死の欲動が治まっても、また再発するように“It”からいくら逃げても“It”は姿を変えて繰り返しジェイの元に現れる。死の欲動と“It”とは同じものではないだろうか?

“It”は変幻自在であるのだが、その姿は女性であったり、子供であったり、ジェイの父と似ていたり様々である。

映画中グレッグは自分の母と同じ姿をした“It”とセックスをして死ぬが、そのことが“It”の変幻自在さを知るためのヒントになるのかもしれない。性欲動に反するもの、つまり破壊的欲動が“It”なのであるから、禁欲すべき相手から破壊的な攻撃を受けるのはおかしなことではないのではないだろうか?

つまり禁欲すべき相手とセックスするのは、本人にとって破壊的な意味を持つ。“It”は死の欲動つまり破壊の欲動であるから、本人を破壊する近親者とのセックスは“It”の目的とするところなのである。

女性という弱者

映画「ピクニックatハンギング・ロック(原題:Picnic at Hanging Rock)」を観た。

この映画は1975年のオーストラリア映画であり、この映画の舞台は1900年のオーストラリア、ヴィクトリア州である。アップルヤード女学校の女生徒と教師マクロウと使いの男性はマセドン山にピクニックに出かける。

ピクニックに行った先で、マクロウ先生と女生徒のミランダ、アーマ、マリオンの4人が行方不明になる。映画の途中アーマは岩山の中で発見されるが、他の3人は行方不明のまま映画の幕は閉じる。

映画の中で4人が行方不明になった理由は明かされない。はっきりとは。この4人の行方不明の事件による負担もあり神経を衰弱させていく校長の女性は、発狂して死ぬ前にこうつぶやく。

「あのマクロウってのはしょうがないやつだ。強姦されて、殺され、神隠しに遭うなんて」と言う。これは事実なのだろうか?この言葉を吐き捨てる時の校長はアルコールに浸っていて、部下との会話もままならなくなっている。

この校長の発言に信憑性があるとは言えないのではないか?つまりこの校長の言葉は、ただの酔っぱらいの暴言に過ぎないのではないだろうか?しかし、この校長の発言が嘘でないならば、それは非常に恐ろしいことである。なぜなら4人はレイプ殺人にあったということになるのだから。

この映画の中には孤児院出身の人物が2人出てくる。女学校の生徒セーラと、女生徒たちが岩山の方へ入って行くのを見るアルバートという青年である。ここでは特にセーラに注目したい。

セーラは謎の失踪と遂げる4人の中の一人ミランダを愛している。ミランダはセーラ以外の女生徒にボッティチェリの絵の中の天使のようだと例えられる美貌の持ち主である。このセーラのミランダに対する愛は同性愛的なものだと思われる。

ミランダは言う。「セーラ他の人を愛して」と。セーラはミランダに失恋するのである。セーラは女学校の校長に早く学費を払えと何度も責められる。校長は女学校の経営のことで頭がいっぱいであり、セーラの生い立ちに同情する様子はない。そしてセーラは学校の経営が傾いた後に、学校の植物園で転落死しているのを見つけられる。

校長は言う。「セーラは後見人が連れて帰ったわ。荷物も持って行ったしね」。セーラは後見人に引き取られてはいなかった。女学校で悲劇の死を迎えたのである。この映画の登場人物は現実の社会、世界にひどく打ちひしがれているように見える。女学校の校長もその1人である。

七夕の夜、鎌倉の海の砂浜で、花火をする歌

レミオロメンの2008年の通算4枚目アルバム「風のクロマ」の15曲目の曲、アルバムのラストの曲「花火」を聴いて思ったことをここに書く。特に歌詞から受けた印象について書きたいと思う。

歌詞の語り手は男性であり、燃え上がるような一瞬の恋に憧れるような傾向を持つのがこの男性像の特徴だ。「私は夏の花火のような恋ならしたくはないから/あなたをどこまで信じていいの?」という女性が男性の印象から受けて女性の中に沸き起こった思いや、「未来でも過去でもなく今が一番綺麗/永遠が心に染み渡っていく」という歌詞からも「今」を重要視する男性の姿が思い描かれる。

そしてここで気になるのは、この男性が「今」から「永遠」をみていることだ。この「今」とはどのようなものだろうか?この「今」とは「今」が「永遠」に続くというような意味ではなく、「今」が「永遠」のように尊いものであると言っていると読み取れる。つまり「今」が最高なので「永遠」になればいいと言っており、「今」が最高でなくなったらそれは「永遠」に値しないと言っているのである。

一方女性側は「夏の花火のような恋ならしたくはないから」と述べる。女性側は素晴らしい「今」が続くことに意味があると述べているのだが、男性側と違うのは「今」が最高とは言わずに、「夏の花火のような恋」は嫌と言っているように、長く続く愛がいいと言っているところである。

「僕ならいつだって単純明快なんだよ/未来でも過去でもなく今を見つめてごらん/目の前の君をずっと愛している/永遠が心に染み渡っていく」と最後に男性の思いが歌われる。これから先愛がずっと続くかどうか悩んでいて、僕とこれからも付き合っていくか困っているのなら、“ずっと続く”という部分をみつめるのをやめて、「今」のこのお互いの気持ちを大切にしようと男性は語る。ここでも男性は最高な「今」の状態が「永遠」に続くことを男性は語るのである。つまり最高でなくなったら「今」などいらないのである。

一方女性は「あなたのすべてを信じてたいの」と言う。ここには愛が盛り下がった時でも信じることはできるという事実が表現されている。つまり最高な「今」だけに注目している男性のような考えとは違い、この先、愛が冷めかけた時の男性の思い、行動を気にしているのである。

女性側は冷静である。愛には冷めている時も熱いときもある。「今」の男性の気持ちが舞い上がっているように。男性のそのあり方自体が女性にとっては不可解なのである。冷めた時も熱い時も愛である。それが女性にとっての愛である。

しかし男性にとっては燃え上がっている「今」が一番であり他は受け入れられないのである。「君の笑顔は気まぐれすぎて」とあるが、実は男性よりも長い射程で物事をみつめているのが女性なのである。「線香花火に人生を準えても 興味がなさそうだね」とあるが、女性側は「夏の花火のような恋ならしたくはない」のだから、その喩え話は女性にとってはただの戯言に過ぎないのである。最高の「今」が「永遠」に続くと信じているおめでたい男と、恋愛には波があることを熟知している女性との差異がここにみられるのである。男性は下心に気が行って熟考に至らないのかもしれない。

 

※歌詞はレミオロメンのCDの歌詞カードより参照した。歌詞を見たい方はこちらのページをどうぞhttp://j-lyric.net/artist/a000776/l013625.html