神の出現、神による監視、そして裁き

 映画「ディス・イズ・ジ・エンド 俺たちハリウッド・スター最凶最期の日(原題:This is The End)」を観た。

 この映画はキリスト教と深い関わりを持つ映画である。なぜならこの映画は、聖書に登場する最後の審判について描かれたものだからである。

 新約聖書ヨハネの黙示録には「最期の審判が下り、10日間の悪魔による災いに耐えたなら、命の冠が与えられるだろう」とある。つまり最期の審判という神による裁きの日が来て、その時あなたが善人なら、地獄と化した地上から天の国へと引き上げようと神が言っているのである。

 映画では最期の審判が始まった直後から天から青い光がさして善人たちが天国へと救い上げられて行く。10日間の災に耐えるまでもなく、日々善行にいそしんでいれば、その人は最期の審判が来た直後に天国に行けると映画では表現されている(聖書になんと書かれているかは不明。筆者の勉強不足のため)。

 簡単に言うとこうなるだろう。世界にはひとつの神がある。その神が地上を作った。神は地上の寿命を知っていて、地上を滅ぼすこともできる。人間はそれに対して無力であり、悪魔の侵略に怯えるしかないのか?

 否、それは違う。人間にも打つ手はある。人間も善行をしていれば、最期の審判が下っても、地獄と化した地上ではなくて天国で生きていくことができる。天使となって。「神の意向によって、不幸になりたくなければ善い行いを日頃からしなさい。もし日頃の行いが足らなければ、最期の審判の日から10日間だけは神が見ていて、善い行いをしたら天国に引き上げてあげましょう」ということである。

 人間は何かに監視されていなければ、悪い行いをしてしまうという考えがこの教えの中には含まれているように思われる。悪い行いは地獄に通じていて、悪い行いをすれば地獄での苦しみが待っているだけだと聞くと、信じやすい人間ならば、自らの行為が常に神に晒されていると信じてしまうだろう。

 神を信じる人間にとって神とはどのように体験されるのであろうか?どのような道のりを経て人は神を信じるようになるのだろうか?神の証明とされる神秘性、奇跡を人は何に感じ取っているのだろうか?

 それは日常の自分の言葉では説明できないような現象を感じた時に人はそれを神のようなものと感じているのではないのだろうか?又、そのような時に宗教の言葉がその影響力を増大させるのではないか?人は日々の中にある非日常的体験から神を知る。そして宗教の言葉で”お前は悪だ”と罵られるのである。