誰にも知られず、皆を守ること

映画「ダム・キーパー(原題:The Dam Keeper)」を観た。

この映画は2014年のアメリカ映画で、パステル画やアクリル画のようなタッチのアニメ作品で上映時間は18分の短編映画である。

この映画の主人公はブタである。ブタはまだ学校に通っている子供であるが、ブタはその年齢に見合わぬ(?)重大な仕事をしている。ブタは汚れた大気から街を守るという仕事をしているのだ。

ブタが守る街は、山と山との間に存在する街であり、その街の向こう側に山と山との間を繋ぐようにダムがある。そしてそのダムの上には風車がある。巨大な風車が1つあるのだ。

ダムを隔てて街の反対側には黒い汚れた大気が満ちている。しかし街の方にはダムとダムの上の風車のおかげで、黒く汚れた大気は入ってこない。

このダムの上の風車を動かして黒く汚れた大気を街に寄せ付けないのがブタの役割なのである。

この仕事のことを映画では「ダム・キーパー」と呼ぶ。

ブタは1つの街を毎日黒く汚れた大気から救っているのだが、学校ではみんなのからかいの種であり、いじめっ子にもいじめられている。ブタは街のみんなを救うという名誉ある仕事をしているにも関わらず、周囲の人はブタを冷遇するのである。

しかし、その“みんな”の中にもブタを冷遇しないキツネという転校生が出現する。キツネは木炭でスケッチ・ブックに絵を描くという特技で転校生というひとつ間違うと冷遇される立場を回避している。

ある日キツネはブタをいじめる子の絵をわざとバカにしたように描いてブタを笑わせる。しかし、その後ブタは、キツネがある人物を笑いものにしようと描く木炭画のスケッチでブタを周囲の笑いのネタに使っていると誤解する。この誤解はとけてブタとキツネは仲直りするのだが。

映画中、ブタがダム・キーパーの仕事をわざとサボって街中が黒い汚れた空気に覆われてしまうというシーンがある。黒く汚れた大気が街を包んでいく様子が、ブタの心の中を表現しているように見える。この映画の中で最もショッキングなシーンである。

街の守護者であるブタが、悪に染まってしまうように見える。「僕は誰を信じたらいいの!!みんないなくなってしまえ!!」と。

街が黒く汚れた大気に包まれた後、キツネがブタの元に訪ねて来る。

ブタは街が黒く汚れてしまったことで申し訳ない気持ちになっている。ブタは自分の過ちを責めている。そんな時キツネは黒い大気による汚れを、キツネの木炭画の汚れと同じように扱う。

黒い大気による汚れは木炭画を描く時の汚れほど軽いものではないだろう。しかしキツネはブタを責めたりしない。キツネにはブタの気持ちがわかっているから。キツネはブタと一緒に楽しく笑い転げるのだ。

開拓とサマー・オブ・ラヴと背徳

映画「砂漠の流れ者/ケーブル・ホーグのバラード(原題:The Ballad of Cable Hogue)」を観た。

この映画は1970年のアメリカ映画で、舞台はアメリカ合衆国の砂漠で、時代は西部開拓時代である1860年~1890年代頃だと思われる。

この映画の主人公はケーブル・ホーグという中年の男で、砂漠に2人の仲間に水を奪われ、取り残される所からこの映画は始まる。

ホーグは砂漠に水なしで残されるが、偶然砂漠の中で水を見つけて、その場所に1軒の家を建てる。その場所は街から街への中継地となり、旅人のための食事と何よりも水を提供する場所となる。もちろん有料でだ。ホーグの砂漠の中継点はケーブル・スプリングスと名付けられる。

ケーブル・スプリングスの近くの街の売春宿でホーグはヒルディーという売春婦に一目惚れする。ケーブル・スプリングスで一時期ホーグはヒルディーと過ごすが、ヒルディーはホーグが自分を本当に愛していないと知り、サンフランシスコに旅立ってしまう。

この映画の中に登場するのは恋愛、復讐劇、宗教などである。その中でも中心となるのが恋愛の要素であろう。ヒルディーとホーグとの関係、特にヒルディーのセクシーな裸体が物語を引っ張っていく印象を映画は与える。

ホーグが2人に置き去りにされる所からホーグの復讐劇は始まり、ホーグが水を探し当てた所にやってくる牧師ジョシュア・ダンカン・スローンの登場から映画に宗教色が加わり、ホーグが近くの街によってヒルディーを見初める所から恋愛劇が始まる。

先程も書いたように、ヒルディーとホーグが結ばれて恋愛劇として映画が終わると思いきや、復讐相手を救ってホーグが自らの死を招くことにより映画は終わる。

映画を締めくくるのはインチキ牧師ジョシュアの言葉である。「砂漠の暑さを耐え抜いたホーグには、地獄の炎もなんともないだろう」。通常故人の最期は美辞麗句で締めくくるものである。「故人○○は偉大であった」とか。

しかし、インチキ牧師ジョシュアは「ホーグは人殺しだから地獄に落ちるだろうね」と故人に、故人の友人たちに語り掛けるのである。

この映画が作られたのはサマー・オブ・ラヴの最中(1960年代後半)のアメリカである。アメリカ各地にはラヴを信条とするコミュニティがいくつも出現していた(?)頃である。そう世の中の若者たちはコミュニケーションを重要視していた時勢で、砂漠に住む人殺しであるホーグとは何と反時代的な存在であろうか。

西部開拓時代の風景は、カウンター・カルチャーと結び付くだろうが、ホーグ自身はその文化から逸脱しているのである。

フリー・セックスとブロマンス

映画「さすらいのカウボーイ(原題:The Hired Hand)」を観た。

この映画は1971年のアメリカ映画であり、アメリカの西部開拓時代に生きたカウボーイ2人とその片方の妻子を描いた映画である。

1848年にアメリカ大陸の西、カリフォルニア州で金鉱が発見されると同時にゴールド・ラッシュが起こり、アメリカの西側である太平洋岸が開拓された。その後開拓は、カリフォルニア州の海岸から内陸に向かって進むのだが、この映画の登場人物たちは、内陸部からカリフォルニア州の海を目指している。

ということは開拓初期の段階か、それとも発展したカリフォルニア州を目指す田舎の人の話であると思われる。

この映画の主人公ハリーはアーチとダンという男と一緒に放浪の旅をしていたが、急に家が恋しくなったとある町に着いた時に言い出す。それはきっとハリーたちが釣りの最中に発見した金髪の少女の川に流れていく死体を見たからであろう。ハリーには一人娘がいたのだった。

ハリーは家に戻ると、ハンナという名のハリーの妻はジェイニーというハリーとの間の娘を連れて生活している。ハリーは男の姿のないことに安心するが、街でハンナは誰とでもセックスするのだと酒場の下品な客に言われる。

この映画は1971年の映画であるが映画は完成するまでに2~3年かかるそうなので、この映画が作られ始めたのは、1968年か1969年頃になると思われる。1969年と言えば、サマー・オブ・ラブというヒッピーたちによるフラワー・ムーヴメントが終わりを迎えた年である。

なぜここでヒッピーの話が出たのか?それはハリーの妻ハンナの奔放さと関係する。ハンナは誰とでもセックスする女、つまりフリー・セックスを信条とする女性である。

フリー・セックスとはフラワー・ムーヴメントの特徴の一つでもある。ちなみにカリフォルニアはママス&パパスの「夢のカリフォルニア」という曲にあるように、ヒッピーたちの聖地である。

ハリーはカリフォルニアという夢の街を目指すのを止めて家に帰ったら、そこは1848年の古い家のしきたりがあるはずだったのが、1960年代後半の時としては最先端の文化(フリー・セックス)がある自由な家だったのである。

この映画ではハリーは友人2人の敵討ちをする。ハリーはそのうちアーチという男にとてもひかれている。ハリーはアーチと2人で、1848年に現れた1969年バージョンの家に帰るのだが、アーチが西を目指して家を出るまでハンナとセックスしようとしない。

ハンナはハリーの気持ちに鋭く気付いている。ハリーはアーチのことが好きだ。セックスはしないが、そこにはハンナに対する愛に匹敵するほどの愛がある。ハリーは同性間のセックスに対して開放的ではなかったが。

遠くにあるようで実は近い問題

映画「AMY エイミー(原題:Amy)」を観た。

この映画は2015年のイギリス・アメリカ合作映画で、ユダヤ系イギリス人の女性歌手エイミー・ジェイド・ワインハウスの10代から27歳でのエイミーの死までをまとめたドキュメンタリー映画である。

本名エイミー・ジェイド・ワインハウス、芸名エイミー・ワインハウスの生涯は決して平坦なものではなかった。

エイミーは「リハブ」の大ヒットによって世界中にその名を轟かせた。そしてエイミーの周囲には大勢の取り巻きが溢れ、エイミーは心と身体のバランスを崩して27歳で若くして死ぬ。死因は摂食障害とアルコールによる心臓停止によるとされる。

この世の中に平凡な人生など存在するのか?という疑問が生じるが、私はエイミーの人生を波乱にとんだ人生だったと名付けることにしたい。

エイミーは心も身体も不安定な状態だった。それは10代から、いやもっと幼い頃からだったと思われる。

エイミーに立ちはだかった困難とは何か?それは両親の離婚、祖母の死、過食症、アルコール依存、薬物の使用である。そしてもう一つエイミーを安心させてくれるような恋人の不在もその中に数えられるのかもしれない。

エイミーが幼い頃にエイミーの両親の仲は冷めきったものとなり、エイミーの元から父は去り、エイミーは母親に育てられることになる。そして10代の頃に多量に食べ飲み吐くという行為をするようになる。そしてその後もアルコール薬物依存症になる。

この映画の中でエイミーはだんだんやつれていく。10代の頃から既に摂食障害だったのであるが、それに薬物依存が加わりエイミーは痩せ細っていく。そして心臓がその負担に耐えられなくなってエイミーは死ぬ。

エイミーの抱えていた問題はエイミーがスターだからのことなのであろうか?いや違う。エイミーと同じ問題を抱えた人は世界中に大勢いる。両親の離婚やアルコール依存、摂食障害は世界中の人々の抱える問題でもある。

エイミーに関するこの映画は、世界中に多く存在する社会的問題を抱えた人々を我々が発見することに繋がる。エイミーの存在が世界から隠されようとしている問題へと目を向けさせるのである。

エイミーの持つ悩みの中に現実と自分が望むものとのギャップがある。エイミーはスターとしての自分を受け入れることができなかった。この理想と現実とのギャップがエイミーを闇の中へ引きずり込むことの一因となってもいるのだろう。

エイミーの死へと向かう姿を見て我々は何を感じ取ればいいのか?それは社会的弱者に対する眼差しだと思われる。エイミーのようなスターの抱えていた問題は、一個人としてのエイミーの問題でもあり、それは我々が思っているよりも近くにある不幸なのである。

フラワー・ムーヴメントの名残り

映画「ギャンブラー(原題:McCabe&Mrs.Miller)」を観た。

この映画は1971年のアメリカ映画で、開拓時代のカナダを描いた、ロバート・アルトマン監督による作品である。

この映画の原題にある通り、この映画の主要人物はジョン・マッケーブとミラーという男女2人である。ジョン・マッケーブは酒場の主人で、ミラーは売春宿の主人である。

映画はジョン・マッケーブが鉱山を生業としている人々が元となっている街に到着するところから始まる。

最初この町にはシーハンという宿と酒場の経営者がいたが、ジョン・マッケーブはシーハンの店で賭博をして金を儲けて自分の酒場を作る。そして酒場のすぐ近くに売春テントを建てる。ジョン・マッケーブは酒と女で金を稼ごうとするのである。

そこに現れるのがミラーである。ミラーは無教養なジョン・マッケーブと違い教養を持つ女性として描かれる。教養を持つといっても大学で教えている教養といったような教養ではなく、洗練された都会的な常識を持つといったような意味で考えるのがいいと思われる。

ジョン・マッケーブはミラーが好きになるのだが、ミラーの方はジョン・マッケーブを1人の売春相手となる客としてしか見ていない。教養に憧れるミラーにとって、ジョン・マッケーブは魅力的には映らないのである。

何故か?ジョン・マッケーブは教養を欠くから。しかもこの町は山中の田舎だからである。ミリーは自分の夢を語る。「私は将来サンフランシスコに住むの」と。

カナダ北西部の小さな鉱山の町とサンフランシスコでは大きな差がある。サンフランシスコは暖かく都会で洗練されている。ミラーは洗練された街に憧れる。

この映画はカナダのブリティッシュ・コロンビア州の山の中に町のセットを作り、そのセットを使って撮影されている。カナダの山の中の小さな町。しかも100年前(1871年頃)の町である。この映画のセットは都会的な洗練とは真逆の所にある。サンフランシスコとこの町を比べてみればすぐにわかるだろう。この町の存在自体が前近代的で変化から逃避しているような点があることに。

1969年はフラワー・ムーヴメントが終わった年であるといわれている(ギャンブラーは1971年の映画。この映画には、フラワー・ムーヴメントの名残りが見られる)。フラワー・ムーヴメントとは、現代の社会の在り方に反抗をした若者たちが中心となって起こした運動だった。

その時代を描いた映画にはヒッピーたちが拓いた町に住む姿が描かれていることもある(ex.イージー・ライダー)。ヒッピーたちは文明社会を文明社会の中で糾弾した。この映画のセットの在り方は、そのヒッピーたちの在り方と似ている。この映画のセットも自給自足ができる町を売り物にしていると特典映像で売り物にしている。

支配欲

映画「ワイルド・パーティー(原題:Beyond the Valley of the Dolls)」を観た。

この映画は1970年のアメリカ映画で、ショー・ビジネス界の若者たちの混沌とした日常を描いた映画である。

この映画の中心となるのは3人組の女性バンドとそのマネージャーである。ケリー、ペット、ケイシーから成る3人組の女性バンドと、そのマネージャーのハリスは音楽の世界で成功するために各地を公演して廻っていた。

そんな時バンドのヴォーカル・ギターであるケリーの叔母が100万ドルを遺産として受け取ったとの知らせが、ケリーの元に届く。ケリーは自らの亡き母が貰うはずだった遺産の相続のために、叔母スーザンの元に行く。

そのスーザンはショー・ビジネスで仕事をする人物で、ロニー・バーゼルという男と繋がりがあった。ロニー・バーゼルはZマンとも呼ばれる男装者で、業界の仕掛け人であった。そのコネを生かしてケリーとペット、ケイシーは音楽業界で成功をおさめていく。

しかしその成功に反するかのように、マネージャーのハリスは心傷ついていくのだった。ハリスはケリーを愛していた。時はフリー・セックスの時代だったが、ハリスはケリーという一人の女性を求めていた。お互いに一対一で付き合って生きていくことをハリスは望んでいた。

この2人は最後には結ばれることになるのだが、この物語の背景となるショー・ビジネス界の結末はハッピー・エンドではない。

ロニーは男装者であると書いたが、ロニーは映画中男性として振る舞っているが、実は体も心も女性である。ロニーはランスという美青年を愛するのだが、その愛は残酷にも踏みにじられる。

ロニーは自らの権力を使い、ランスを自らの愛のしもべにしようとするのだが、ランスに「この醜い女め!!」とののしられる。ロニーはその言葉に激怒しランスの首を自宅にあった“エクスカリバー”で切り落とす。

ロニーはランス(たち)変装ごっこをする。「自らはスーパー・ウーマン役だから私が一番美しい。スーパー・ウーマンはすべての男が望むものだから」だと。つまり「変装してスーパー・ウーマンになった私は、スーパー・ウーマンだから私は世界一美しい」と言う。

確かにロニーの観念の世界でならばそうなのかもしれないが、実際肉体の方は観念の力ではどうともならないこともあるのである。

ランスに拒否されたロニーは暴走して自宅にいる人間たちを皆殺しにしようとする。観念的に最上級になったはずなのに、この私にひざまづかないランスたちなど死んでしまえばいいとロニーは暴走する。

この暴走はものすごくインパクトがある。性的に抑圧された女性のような男性のようなロニーという人間が行き場を失ってしまうのである。否、性的に抑圧されていたというよりは、観念の世界が壊されたと言うべきか?ロニーには、自らの世界の拒否の後の行き場が残念ながらなかったのである。

権力に都合の良い口実

映画「キャッチ22(原題:Catch-22)」を観た。

この映画は1970年のアメリカ映画で、第二次世界大戦と思われる時代背景を持ち、爆弾を落とす戦闘機のアメリカ軍のパイロットの精神状態を描いた作品である。

映画中“キャッチ22”という用語の説明がされる。そこで示されるキャッチ22の意味とはこうだ。ある戦闘機(爆撃機)のパイロットがいる。パイロットは自分が精神を病んでいてもう爆撃機には乗りたくないと言っている。そして軍に、自分はもう精神的に病んでいて気が狂っているから爆撃機には乗れないと訴える。すると軍からはこういう返事が来る。「飛行の免除を願うことは精神的に病んでいないことの証拠だ。だから出撃免除にはできない」と。

つまりこの場合軍は、爆撃にすすんで出る者は異常者で、爆撃に出ない選択をする者こそ正常だというのである。つまり軍が自ら軍の命令を快諾する者は病的であるとすんなり認めるのである。

しかし軍は自国の国民に国を守るために戦うことを推奨する。軍にとって国のために戦ってくれる兵士は重要な必需品(人ではない)である。人を品と思っているとは言い過ぎかもしれない。

仮に軍は人を物だとせず、人を権利を持つ存在だと認めているとしよう。軍はそこで国民を勧誘する際に「軍の兵士は異常です」とは言わないだろう。「軍人は精神的異常者の集まりですよ」と言ったところで誰も軍には加わろうと思わないだろう。

しかし、いざ軍人となってしまうと話は別なのである。「君たちは異常者だ」と軍は平気で国民(軍人となった)に言う。一旦国民を取り込んで軍人にしてしまえば後は軍法会議を脅しに使って執拗に軍人たちを戦地に仕向けるのである。

特に過去の戦争ではそのような体制が整っていたのだろう。否、現在でも戦闘兵に対してはそのような態度がとられているのかもしれない。

普通の人間なら、一度戦場に出ただけでその恐怖に打ちのめされてしまう。しかし彼らは軍を出ようとしない。それはキャッチ22のような仕組みを使って軍が兵士たちを縛っているからであろう。

例えば、その縛りの例としてアメリカ兵たちの兵士になる理由がある。貧しいアメリカ人は大学へ行きたい。大学を出た方がより好条件の職場に就けるからだ。大学へ行く金を稼ぐには軍人になるのが手っ取り早い。

よって貧しいアメリカ人の若者は軍隊に入隊して学費を稼ごうとする。すると、軍は“キャッチ22”のような口実、この場合“貧困から抜け出したければ命を危険にさらして国に奉仕せよ”を使う。「キャッチ22」も「大学へ行くための従軍」も軍隊に都合の良い口実にしかすぎないのである。