同性愛が困難だった時代

映画「噂の二人(原題:The Children Hour)」を観た。

この映画は、1961年制作のアメリカ映画であり、この映画の原作は、1934年に作られた同名演劇である。この映画のメインで取り上げられるテーマは“同性愛というタブー”についてである。

“同性愛というタブー”と書いたが、この表現は現在の日本ではもう過去のこととなりつつあるのだろうか?

2015年6月26日アメリカ合衆国の連邦最高裁判所は、同性婚憲法上の権利として認めるという判断を示し、事実上アメリカ合衆国内全域で、同性婚が合法となった。

又、レインボーフラッグという、レズビアン、ゲイ、バイセクシャルトランスジェンダー(LGBT)の尊厳とLGBTの社会運動を象徴する旗についても報道で取り上げられた。アメリカ合衆国では、マイノリティである人々(LGBT)の声がアメリカの国民の心の元に届いたということなのだろう。

(憲法とは国民から政府への命令で、その憲法を根拠に国民が統治権力に自らの権利を奪い取られないように、同性婚は合法であると示したのである。この裁判所の判断により、いかなる統治権力も同性婚を妨害するような行為ができないということになる。そして憲法というのは、国民のものなのであるから、その憲法を根拠に同性婚を認めたというのは、国民の意思が憲法なのだから、国民の意思が憲法を認めたといっていいのである。{しかし実際にはアメリカにも同性婚に反対する保守のアメリカ国民がいるのだが。}要するに、憲法は統治権力への命令である。そしてその憲法同性婚は合法であることを守るように統治権力に命令しているのである。)

アメリカが同性婚を認める54年前の映画ではアメリカの同性婚はどう描かれていたのだろうか?それは単純に言ってしまうと、非常に厳しい状態に置かれていたというのが実情ではないだろうか?

この「噂の二人」という映画がそれをよく示している。ライト・ドビー女学校を主宰する、マーサ・トビーとカレン・ライトの2人がレズビアンであるという噂が子供たちの親たちの間に広がると、それまでは学校にいた生徒たちをすべての親たちがひきとりに来る。

2人は名誉棄損で裁判所に訴えるが、法廷では2人は“不純な”性行動をとっていたとされ裁判に負ける。学校の前には、男たちが乗ったピックアップトラックがとまり、2人の様子をうかがっており、ゆっくり散歩することもできない。

カレン・ライトの彼氏の職場の上司までもが、カレン・ライトの彼氏に向かってこう言う。「君自体は問題じゃないんだが、君の交友関係が問題だから病院を辞めてもらう」。“不純な”行動をとったことのある女性を恋人とする男性は問題なのである。

映画中、同性愛の傾向が強く表れるのが、マーサ・トビーという女性である。マーサは2人が“不純な”性行動をとったという噂を流したことを謝罪しに来た老婆に言う。「本当に救われたいのは私なの!!」と。マーサは重圧に潰される。

慈善的な態度から零れ落ちてしまう人たち

映画「ハスラー(原題:The Hustler)」を観た。

この映画は、1961年制作のアメリカ映画で、タイトルのハスラーとは、ギャンブルで相手にわざと負けておいて、相手が油断したのを見計らって、本来の実力を出してお金を相手から巻き上げる詐欺師のことである。

この映画の主人公エディ・フェルソンはハスラー、つまり詐欺師、よく言って勝負師の男である。

エディはストレート・プールというゲームの名人であり自分の腕に自信を持っている。ストレート・プールとは日本であまりなじみのない言葉だが、ゲームに使う道具はビリヤードと同じであり、ゲームのルールがストレート・プールとビリヤードでは違うだけだ。

エディは自分の実力を試したい、そして大金を得たい思いでミネソタ・ファッツというバード・ゴードンの縄張りで活動するストレート・プールのプレーヤーに挑戦をする。しかし、エディは途中までは勝っていたものの、ミネソタ・ファッツの精神力の前にストレート・プールで敗れてしまう。

当然エディは試合で自分が勝つ方に賭けていたお金を失ってしまう。それでエディは、ただの宿無しになる。自分の自身のあるストレート・プールで負け、一文無しになったエディは残った所持品を駅のコインロッカーにあずけておく。

その時コインロッカー近くのコーヒーショップで孤独に一人本を読んでいる女性と出会う。その女性とはサラ・パッカードである。サラは小児ポリオで足に軽度の障害をおっており、ろくな仕事もなく父親から送られてくるお金で大学に行く、火曜と木曜以外は酒浸りの孤独な女性である。年齢は30歳位だろう。

しかし、サラはエディと恋仲になることによっていくらかは救われてくる。孤独な障害をおった若くない女性の心をエディが癒していくのである。

しかし、エディは一度負けたゲームの再挑戦を夢みていた。エディがゲームに集中すればするほどサラのことは置き去りにされていく。再び孤独な生活に陥ることを恐れるサラはエディがサラ自身の元を去る前に自殺してしまう。

エディはサラの自殺にショックを受ける。エディは自身の賭けを取り仕切っていたバード・ゴードンに向かってこう叫ぶ。「俺たちが彼女の喉を切り裂いたんだ!!」。サラは自殺する前に洗面所の鏡にこう書く。“変質者”“異常な奴ら”“不自由な者”。最後の不自由な者とはサラ自身のことも指しているのだろう。(ストレート・プールという賭けゲームにはまったエディたちも不自由な者である。)

孤独な境遇に置かれている社会的弱者のことをほったらかしにしておいて、ギャンブルに浸る変質者や異常な奴ら。一人一人の命よりもギャンブルが大切か?世の中の優先順位のつけ方とは一体何なんだろうか?社会的弱者をほっておいてまでギャンブルをする変質者、異常な奴ら、不自由な者。

変質的で異常で不自由な生き方も確かにあるのかもしれない。しかし、社会的弱者に手を伸ばすのは一部の善良な人々のみでいいのだろうか?自らの本性を変えてまで慈善をすることは奨励されないのか?しかし慈善的な人間というレッテルからどうしても零れ落ちてしまう人々もいるのかもしれない。

自由な、そして”痩せた”アメリカ

映画「ティファニーで朝食を(原題:Breakfast at Tiffany’s)」を観た。

この映画は1961年制作のアメリカ映画で、この映画の原作は、アメリカ合衆国の小説家トルーマン・カポーティによる同名タイトルの中編小説「ティファニーで朝食を(原題:Breakfast at Tiffany’s)」である。

この映画の主人公は、40歳前の女性、ホリー・ゴライトリーである。ホリーはニュー・ヨークに住んでおり、化粧室に入って50ドル貰う仕事と、刑務所の中にいるマフィアへの伝言をする100ドルの仕事をして暮らしており、交友関係は派手であり、ホリーのアパートの部屋で行われるパーティーにはお金持ち(最近の言葉で言うとセレブ)の客が押し掛ける。

ホリーの魅力はその奔放さにあるようである(もちろん顔が美しいということもあると思うが…)。ホリーは気の多い女性のようで、自分の周囲にいつも男性をはべらしておくようである。そして、ホリーはいわゆる玉の輿を狙って、いつかはリッチな暮らしをすることを夢みているようである。

しかし、ホリーはリッチな生活がしたくて、玉の輿を狙っているようでありながら、実はお金だけが目当てではないように思われるふしもある。それはホリーがニュー・ヨークにやって来る以前の出来事からうかがわれる。

それはこのような事実である。ホリーは実はアメリカの田舎に住んでいた既婚の女性であり、ホリーは偽名で本名はルラメーということ、そして結婚をしていた相手は医者であるゴライトリー氏であった。つまり、彼女は玉の輿を狙わなくても医者の妻として何不自由なく生活することができたのである。

そんなホリーがニュー・ヨークに出てきた本当の理由とは何か?もっとお金持ちの人に出会いたかった?それもあるのかもしれない。しかしその他にホリーがニュー・ヨークに出てきた理由がある。それは“自由”になるためである。

誰の愛にも束縛されず、一人ぼっちで自由に生きたいの!!ホリーは映画の終盤までそう言い張る。しかし、ホリーと親密な仲になりつつあったポール・バージャックにこう言われる。「ホリー、君は自由になりたいと言うけど、そのわりにはホリー君は愛という束縛を求めているじゃないか!!人生において大切なものは人が人のものになるということにあるんじゃないのか!?それが愛であるんじゃないか!!」と。

映画の中でホリーは自由奔放に生きる女性として描かれている。自由に恋愛する女性。しかし、相手の男性にはホリーの奔放さに付き合っている余裕などない。いずれは愛という束縛をホリーに求めてくる。

愛はただの束縛か?それとも人生を生き抜くための尊い行為か?ただホリーは自由にいくらか生きることができたことは注目に値する。

 

※ホリーをルメリーとして田舎に連れ戻そうとしたゴライトリー医師は、ニュー・ヨークに住んで昔と変わってしまったホリーを見てこう言う。「彼女は骨と皮だけじゃないか」と。骨と皮だけのホリーとは自由の国アメリカを象徴しているのはないか?ではなぜアメリカは骨と皮だけなのか?つまりここで言える豊満なアメリカとは福祉が充実しているアメリカである。貧しい者も再分配で救われるようなアメリカである。ゴライトリー医師は洪水で両親を失った子供たちと住んでいた。つまりゴライトリー医師は豊満なアメリカ、福祉政策の行き届いたアメリカである。1930年代、国によるニュー・ディール政策でアメリカは貧しい者にも福祉が行き渡るような国を実現していた。しかしその充実と同時に個人と市場への無介入を是とするネオ・リベラリズムが頭角を現してくる。ゴライトリー医師の言う痩せてガリガリのアメリカである。

「恣意的な規範を違反したものは破壊する!!」

映画「シリアル・ママ(原題:Serial Mam)」を観た。

この映画はアメリカで1994年に公開されたブラック・コメディ映画である。この映画の主人公はビバリー・サトフィンという女性でサトフィン一家の母親である。ビバリーの夫は歯科医で2人の子供がいる。子供は息子のチップと娘のミスティである。

この映画のタイトルであるシリアル・ママとはシリアル・キラー(連続殺人犯)に由来している。つまりシリアル・ママとは“連続殺人犯の母”というような意味である。

ビバリーはこの映画の中で次々に殺人を引き起こす。ビバリーは息子チップを馬鹿にした数学教師を殺し、夫との休日を邪魔した夫婦を殺し、レンタルビデオを巻き戻さない老婆を殺し、シートベルトをしない息子の友達を殺し、秋なのに白い靴を履いている女性を殺す(※)。

※アメリカでは白い洋服を着れるのは、イースターからレイバー・デイまでという習慣が、18世紀後半の裕福な夫人たちの習慣が起源としてあり、オールド・スクールな人々(古い価値観を守っている人)の間では、守られるべき習慣とされている。イースターとは春ごろ行われるキリスト教の祭り、レイバー・デイとは労働者の日のことで、9月の第一月曜日である。イースターからレイバー・デイとは、春から9月の第一月曜日の間であり、この間でしか白い着衣を身に着けてはいけないのである。

ビバリーは自らの中に規範があって、その規範を破った人を殺していく。恐いのはビバリーの規範が、ビバリーの中にだけ存在し、ビバリーの気にさわることを誰がいつしてしまい、ビバリーに殺されるかわからないことである。

ビバリーの中の規範を他の人が見つけ出すことはできないだろうが、ビバリーの守りたいものはわかる。それはビバリーの家族である。殺人をしておいて家族を守りたいとはとてつもない矛盾だが、ビバリーの犯した殺人を見ていると、ビバリービバリーの持つ理想的な家族像を壊すような人を殺していくのである。ビバリーは規範に縛られたサイコ・キラーなのである。

通常サイコ・キラーの殺人の理由は倒錯しているが、ビバリーの殺人の規範は“良い家庭”というもののように映画を見る側には思えてくるのである。

ビバリーは自らの規範に適わないことがあると、いとも簡単にルール違反の人を殺してしまう。この単純さがブラック・コメディたる由縁なのだろう。

ビバリーは破壊的衝動に囚われた人だともいえる。自らの欲動を生産的なことではなく、破壊的なことに費やしていくのである。ここでいう破壊とは殺人のことである。

ビバリーは自分を拘束している良い家庭という模範的な理想を守ろうとして、他の家族を壊してく。ビバリーは家父長制が生んだ、家父長制の破壊者なのである。

不条理な世界と人

映画「クラークス(原題:Clerks)」を観た。

この映画は1994年に制作されたアメリカ映画である。この映画の主人公はダンテ・ヒックスという男で、映画はダンテが仕事をしているコンビニと、ダンテの友達ランドルが仕事をしているダンテのコンビニの隣のレンタルビデオ屋を舞台としている。

ダンテとランドルを中心にその他の人物たちが絡んでくる流れで、物語は進んでいく。

映画はいくつかの部分に分かれて構成されており、それぞれの部分の始まりにはタイトルがついている。そのタイトルは最初から順に①ダンテ、②悪党呼ばわり、③ジェイと無口なボブ、④ランドル、⑤構文法、⑥奇行、⑦魂の浄化、⑧絶不調、⑨前触れ、⑩先見の明、⑪常識論、⑫おふざけ、⑬途方に暮れる、⑭泣き言、⑮秤にかける、⑯カタルシス、⑰決着、である。

この映画は冒頭の①のダンテの部屋と、⑨の場面でのジェリーの家での葬式以外は基本的に、ダンテの働くコンビニとランドルの働くレンタルビデオ屋から場所は移動しない。

ダンテとランドルはコンビニとビデオレンタル屋でそれぞれ働きながら、そこに客が来て、その時の接客がこの映画の見せ場となっている。

ダンテはベロニカという女性と付き合っている。しかし新聞で、ダンテの元恋人のケイトリンが結婚することをダンテたちは知る。ダンテはそのことでイライラして仕事が手につかない。ただでさえ接客業は大変だというのに。

映画の最後の辺りでケイトリンが店に現れる。それをランドルがベロニカにチクる。それが原因で、ダンテとランドルは喧嘩をして店は無茶苦茶になる。しかしダンテとランドルは喧嘩をしたことで気分がすっきりする。終わり。

映画の冒頭で登場するのは駄菓子を作っているメーカーのサラリーマンである。チューリー・ガムというガムを売る駄菓子サラリーマンは、コンビニのレジの前に立ってこう叫ぶ。「タバコなんか買うな!!タバコは高いし、健康にも悪い!!タバコを買うならガムを買え!!」。

ダンテは当然商売の邪魔をされて迷惑だからやめてくれと願い出るが、サラリーマンの説教にのせられて、タバコを買いに来た客たちは、ダンテのことをタバコを売る悪の商人と言いダンテは責められる。タバコを売る奴は悪で、ガムを売る人は正義なのだ。

皮肉が効いているのは、ダンテの友達のランドルである。ダンテは仕事をさぼってダンテのコンビニでポルノ雑誌を立ち読みしているが、ランドルには仕事は大切だからお前も仕事をしろと言う。

するとランドルはこう返す。仕事なら何でもいいのか?ボスニアの殺人部隊はどうなんだ?殺人という仕事は誇れる仕事なのか?と。この映画は狭い人間関係の間に時折、社会風刺が効いている。

欲動は解放するべきか?

映画「カジノ(原題:Casino)」を観た。

この映画は1995年のアメリカ映画で、1970年代当時のマフィアの支配下にあったラスベガスを描いた映画である。映画の主人公はラスベガスのカジノ“タンジール”の実質上の支配人“エース”・ロススティーンであり、エースの妻であるジンジャーと、エースの友達であるギャングのニッキー・サントロとの3人の関係を中心として物語は進んでいく。

エースは賭博のプロで頭の切れる男である。最初はシカゴで不法賭博をするノミ屋として生計を立てているが、その腕を見込まれて、ある日、ラスベガスのカジノ“タンジール”の実質的な支配人として選ばれる。

実質的な支配人というのは、エースがこのカジノ“タンジール”の形式的な支配人ではないことを意味している。カジノ“タンジール”の形式的な支配人は政府の役人が務めている。エースはその政府の役人に代わって、カジノ“タンジール”を支配人という肩書以外の名目で仕切っている。例えば掃除人というような肩書で(だから形式的な支配者ではない)。

ちなみにノミ屋というのは、公的な試合に関して賭けを行い、手数料を手元に入れる仕事である。ノミ屋は例えばレースのどの馬が勝つかを予想させて多くの客からお金を集める。もちろん客の選んだ馬が勝ったら大きな配当金を客が貰えるという条件で。

ノミ屋の元には多くの金が集まる。そしてレースの結果が出ると、ノミ屋は、レースの勝敗を当てた人物に対して集めたお金の中から配当金を払う。レースの結果を当てた人の元には大きなお金が入るとともに、集めたお金の何パーセントかはノミ屋の懐に入るという仕組みだ。

エースの友達ニッキーはその相棒として集金屋として働いている。ニッキーは借金をしてギャンブルをしている客から金を取り上げるのを仕事としている。借りたお金でギャンブルをして返済をせずに手元にある金をまたギャンブルに使おうとしている客の元に集金に行って、貸したお金をきっちりと返済させるのである。

エースの恋女房ジンジャーは、実はエース以外の男が好きである。ジンジャーはエースと結婚した後もその好きな男の手助けをしようとする。ジンジャーの好きな人はたかり屋で金持ちになったジンジャーから大金(2万5千ドル)をたかる。

それを当然エースは気に入らない。このジンジャーの存在がエースとニッキーたちの人生を狂わせていくことになる。

ジンジャーはエースの愛情がただの縛りにしか感じられなかったのではないだろうか?女は結婚して家のことを守るのが仕事。息の詰まるようなことである。ジンジャーは自身の中にある欲動を抑圧し過ぎた。これがこの悲劇の原因になっているのではないのだろうか?

純粋という時として不都合な幻想

映画「ユージュアル・サスぺクツ(原題:The Usual Suspects)」を観た。

この映画は1995年にアメリカで制作されたクライム・サスペンス映画であり、映画の内容は、映画の中心を占める5人の常連の犯罪者の1人であるヴァーバル・キントなる人物の回想として説明されてゆく。

映画は5人の犯罪歴のある人物が警察に捕らえれるところから始まる。汚職警官だったディーン・キートン、忍び込みと銃のプロ、マクマナス、爆弾魔トッド・ホックニー、マクナマスの相棒フェンスター、詐欺師で身体障碍者のヴァーバル・キントの5人がこの映画の中でチームを組む犯罪者たちである。

この人物の紹介の時点ですでに信じていけない人がいることに皆さんは気付くのかもしれない。それはウソつきが得意の人のことである。

ディーン・キートンとマクナマス、トッド・ホックニー、フェンスター、ヴァーバル・キントの5人は、警察署の檻の中でマクナマスが持っていた儲けのネタによって一致団結する。儲けとは犯罪である強盗のことである。

この5人組はまず、エメラルドを強盗する。そしてその強盗のネタをくれた、ロサンゼルスのレット・フットから別のネタを貰う。それは宝石泥棒をする話だったが、実際にはヘロインが盗んだバックの中に入っていた。

怒った5人は、ロサンゼルスのレッド・フッドから情報の元であるコバヤシ弁護士について聞き出す。コバヤシ弁護士はその後5人に麻薬と金を強盗するように言う。コバヤシ弁護士にはボスがいて、そのボスの名前はカイザー・ソゼだと言う。

カイザー・ソゼは犯罪者や警察の間では名前を知られた存在だった。しかし、この最後のヤマである麻薬とお金を盗む仕事になると5人のうちヴァーバル・キントを残して他のメンバーは死んでしまう。

この映画はヴァーバル・キントによる回想によって進んでいく。ヴァーバル・キントは机に座った警察に対して、この一連の事件の詳細について詳しく話していくのだ。

ヴァーバル・キントの回想と同時に警察は一連の事件の調べを上司に報告している。そして警察はこんな情報を得る。最後の船の事件、つまりお金と麻薬を5人が盗もうとした船にはアルトゥーロ・マルケスという密告者が乗っていたというのだ。

そしてこのマルトゥーロ・マルケスは、警察に50人の犯罪者の名を売っていた(アメリカでは自分の罪を軽くするために警察に情報を提供するという取引がある)。その50人のうちにカイザー・ソゼというその世界では有名な犯罪者の名もあったのである。

この映画の中では何事もないかのように回想している人物がいる。だが人はどうしてその人の話を信じてしまうのか?それは彼が障碍者だからであろうか?