自由な、そして”痩せた”アメリカ

映画「ティファニーで朝食を(原題:Breakfast at Tiffany’s)」を観た。

この映画は1961年制作のアメリカ映画で、この映画の原作は、アメリカ合衆国の小説家トルーマン・カポーティによる同名タイトルの中編小説「ティファニーで朝食を(原題:Breakfast at Tiffany’s)」である。

この映画の主人公は、40歳前の女性、ホリー・ゴライトリーである。ホリーはニュー・ヨークに住んでおり、化粧室に入って50ドル貰う仕事と、刑務所の中にいるマフィアへの伝言をする100ドルの仕事をして暮らしており、交友関係は派手であり、ホリーのアパートの部屋で行われるパーティーにはお金持ち(最近の言葉で言うとセレブ)の客が押し掛ける。

ホリーの魅力はその奔放さにあるようである(もちろん顔が美しいということもあると思うが…)。ホリーは気の多い女性のようで、自分の周囲にいつも男性をはべらしておくようである。そして、ホリーはいわゆる玉の輿を狙って、いつかはリッチな暮らしをすることを夢みているようである。

しかし、ホリーはリッチな生活がしたくて、玉の輿を狙っているようでありながら、実はお金だけが目当てではないように思われるふしもある。それはホリーがニュー・ヨークにやって来る以前の出来事からうかがわれる。

それはこのような事実である。ホリーは実はアメリカの田舎に住んでいた既婚の女性であり、ホリーは偽名で本名はルラメーということ、そして結婚をしていた相手は医者であるゴライトリー氏であった。つまり、彼女は玉の輿を狙わなくても医者の妻として何不自由なく生活することができたのである。

そんなホリーがニュー・ヨークに出てきた本当の理由とは何か?もっとお金持ちの人に出会いたかった?それもあるのかもしれない。しかしその他にホリーがニュー・ヨークに出てきた理由がある。それは“自由”になるためである。

誰の愛にも束縛されず、一人ぼっちで自由に生きたいの!!ホリーは映画の終盤までそう言い張る。しかし、ホリーと親密な仲になりつつあったポール・バージャックにこう言われる。「ホリー、君は自由になりたいと言うけど、そのわりにはホリー君は愛という束縛を求めているじゃないか!!人生において大切なものは人が人のものになるということにあるんじゃないのか!?それが愛であるんじゃないか!!」と。

映画の中でホリーは自由奔放に生きる女性として描かれている。自由に恋愛する女性。しかし、相手の男性にはホリーの奔放さに付き合っている余裕などない。いずれは愛という束縛をホリーに求めてくる。

愛はただの束縛か?それとも人生を生き抜くための尊い行為か?ただホリーは自由にいくらか生きることができたことは注目に値する。

 

※ホリーをルメリーとして田舎に連れ戻そうとしたゴライトリー医師は、ニュー・ヨークに住んで昔と変わってしまったホリーを見てこう言う。「彼女は骨と皮だけじゃないか」と。骨と皮だけのホリーとは自由の国アメリカを象徴しているのはないか?ではなぜアメリカは骨と皮だけなのか?つまりここで言える豊満なアメリカとは福祉が充実しているアメリカである。貧しい者も再分配で救われるようなアメリカである。ゴライトリー医師は洪水で両親を失った子供たちと住んでいた。つまりゴライトリー医師は豊満なアメリカ、福祉政策の行き届いたアメリカである。1930年代、国によるニュー・ディール政策でアメリカは貧しい者にも福祉が行き渡るような国を実現していた。しかしその充実と同時に個人と市場への無介入を是とするネオ・リベラリズムが頭角を現してくる。ゴライトリー医師の言う痩せてガリガリのアメリカである。