女性の経済的充実と女性の生き方の多様性とは?

映画「ヒート(原題:Heat)」を観た。

この映画は1995年のアメリカ製作のアクション映画で、映画の主演はアル・パチーノロバート・デ・ニーロである。映画の中でロバート・デ・ニーロはニール・マッコーリーという強盗犯を、アル・パチーノはニールを追い詰める刑事ヴィンセント・ハナを演じている。

ニールとヴィンセントは刑事と刑事に追われる犯罪者という反対の違いがあるが、2人は実は共通点がある。それはお互いに、仕事第一で家庭を顧みないところである。ニールは仕事(犯罪)をして捕まりそうになったら、好きな女を捨ててでも逃げるのが流儀だと言うし、ヴィンセントは家庭にいる時間を作って欲しいという妻の願いも虚しく、ポケベルで仕事に呼び出されればすぐに仕事場へ飛び出して行く。

この映画の中では主人公ニールとヴィンセントの女性に対する扱いを表すように、苦悩する女性が登場する。まずはヴィンセントの妻ジャスティンである。ジャスティンはヴィンセントに家にいる時間を作って欲しいと望むが、映画の最後までヴィンセントはジャスティンの願いを聞き入れることができない。

次はジャスティンの娘であるローレンである。ローレンはヴィンセントの実の子供ではなくて、ジャスティンの前の夫との子供である。ローレンは自分の父親に捨てられたくなくて、父親の気を引こうと必死である。

ローレンは苦悩している。映画の終盤で、ローレンはヴィンセントの泊まっているホテルの浴室で動脈を切ってバスタブに浸かった姿で発見される。ローレンは自らの精神の苦痛に耐えられなくなったのである。

病院に搬送されローレンは一命をとりとめる。ローレンの自殺未遂のために母ジャスティンはより苦悩を抱え込むのである。

そして最後にニールの恋人イーディ。イーディはニールの流儀通りに、ニールに捨てられ一人になることになる。イーディは書店で働きながら、夜デザイナーをしている人と関わるのが苦手な孤独な女性である。ニールの逃避行話に人生を振り回されるのだ。

以上がニールとヴィンセントに関わる女性たちの話である。しかし、まだ他にも映画の中で窮地に立たされる女性はいる。その一人は、ニールの仕事仲間であるクリスの妻シャーリーンである。

シャーリーンは一人息子と共に警察に呼び出されてこう言われる。「お前が警察に協力しないなら息子の人生は無茶苦茶だ。お前が刑務所に入ったら息子は施設をたらいまわしにされて、いずれは犯罪者だ。息子がそうならないためにも警察に協力しろ」。

この映画ではハードボイルドの影に存在する不幸な女性たちの姿が描かれている。女性の自立が難しい世の中では女性は男性の経済力に頼るしかなくなる。機会の均等は必要である。

階級の争いを超えた愛

映画「ミツバチのささやき(原題:El espiritu de la colmena)」を観た。

この映画は1973年のスペイン映画であり、1975年にフランシス・フランコ独裁政権の終わる直前に作られた映画である。この映画にはフランコ政権に対する否定的な見方が現れている。

スペインでは1936年の2月の総選挙で、左翼勢力を中心とする人民戦線内閣が誕生し、このことによって右派であったフランコカナリア諸島総督に左遷された。人民解放政府は社会主義の理念に基づく改革を行い、その中で教会の財産を没収し、ブルジョワを弾圧した。

この人民戦線の改革を農民は支持したが、地主、資本家、カトリック教会などの保守勢力と知識層は、この人民戦線による改革に反対をした。

1936年の7月にスペイン領モロッコで軍隊が反乱を起こしたのをきっかけに、スペインの内戦が生じる。1936年10月1日に内乱を制したフランコ国家元首となり、フランコ独裁政権が誕生した。

独裁には犠牲がつきものである。スペイン内戦とフランコ独裁政権下で市民11万4千人が殺害されたか、行方不明になっている。力での抑圧が独裁である。

この映画の中では、1940年頃のスペインのカスティーリャのオユエロス村で暮らす一家族が登場する。この家の家主はミツバチについて観察をしている知識人のフェルナンドという男であり、家は立派な屋敷で、家政婦も雇っている。つまりこの家はブルジョワ知識人の家である。

フェルナンドには妻テレサとの間に2人の娘、イザベルとアナがいる。イザベルとアナは映画中、映画「フランケンシュタイン」を村の公民館で観る。映画「フランケンシュタイン」を観た後にイザベルはアナに言う。「あの怪物は精霊なの。私は精霊のいる所を知っているわ。畑の中にある小屋よ」。アナは映画「フランケンシュタイン」中で、フランケンシュタインがメアリーという少女と仲よく遊んでいるシーンをじっと見つめている。

アナはある日精霊が出る小屋の中に一人の傷ついた青年がいるのを見つけ、その青年にリンゴを渡し、家から父フェルナンドの服を持ってきて、汚れた服を交換してあげる。この傷ついた青年こそは、フランコ政権に弾圧されてきた市民の、あるいは左派勢力の、もしくは農民の象徴であるのではないだろうか。

アナが見つけて介抱した青年は独裁政権の側の人々に見つかり銃殺される。そのことを知ったアナは、精神的に不安定になりふさぎこんでしまう。

この映画の中の印象的なシーンに、父フェルナンドが毒キノコを踏み潰すシーンがある。父フェルナンドが右派独裁政権側なら、このキノコは左派もしくは市民なのではないだろうか?

落ち込んでいたアナは、この映画の最後のシーンでアナは精霊(青年)とのつながりを信じ回復する。

それぞれの苦悩

映画「スモーク(原題:Smoke)」を観た。

この映画は1995年制作のアメリカ映画で、原作はアメリカの小説家ポール・オースターの「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」であり、ポール・オースターはこの映画の脚本も手掛けている。

映画の舞台はニューヨークのマンハッタン。中年男性であるオーギー・レンはタバコ屋を営んでいる。そのタバコ店の常連客であるポール・ベンジャミンは妻を銀行強盗の巻き添えで失った小説家である。

ある日ポール・ベンジャミンは路上で車にはねられそうになったところを、トーマス・ジェファーソン・コールという小説に助けられる。ポール・ベンジャミンは助けてもらったお礼として、トーマス・コールを家に2泊させる。トーマス・コールは黒人の家で少年だったのだ。

この映画の中には、トーマス・コールを捨てて蒸発したトーマス・コールの父サイラス・コールも登場する。この映画の中では、トーマス・コールと父サイラス・コールとの再会のシーンもある。

父サイラス・コールは12年前の交通事故で、妻ルイザ・コールを失い、そのままトーマス・コールを置き去りにした。サイラス・コールは事故で妻だけでなく、自身の左肘から下も失っていた。事故のショックでサイラス・コールはトーマス・コールを捨ててしまったのだろう。それほどまでにサイラス・コールはもろい人物だったのだ。

映画の背景には、白人社会と黒人社会という構造が見える。又、映画の中にはラテン系の人物も登場する。この映画の背景には、貧しく苦難の中に暮らす黒人の姿も描かれるが、それと同じように貧しく日々の暮らしが精一杯の白人の姿も描かれている。

黒人は貧しくて苦労をしていて、白人はリッチで恵まれているという2項対立はここでは成り立たない(しかし黒人の差別という問題はそう簡単には拭い去れないものであるが)。白人にも黒人にも貧しくて苦難に満ちた人生を送っている人々がいるのである。

この映画に登場する人物で一番社会的に恵まれている人物は、白人男性のポール・ベンジャミンである。ポールは小説家であり、教養もあり、地位もそれなりに安定している。しかし、当然のようにポールっも妻に先立たれたという苦難を抱えている。苦難に人種は関係ないのである。

どんな人種の人でも、金持ちでも貧乏でも、高学歴でも中卒、小学校までの教育を受けた人、そして小学校も通っていない人でも、同じように苦悩するのである。苦悩の前では誰もが平等である。

この映画の中で一番重い人物として描かれるのはオーギー・レンの店に万引きに入って財布を落としていった黒人少年の祖母らしい人物であろう。老婆は、盲目で、黒人で、女性である。クリスマスも一人で部屋の中で過ごしているような。

人々の苦悩を緩和させるものは何だろうか?それは映画のような“作り話”の役割なのかもしれない。

惰性という習慣

映画「リービング・ラスベガス(原題:Leaving Las Vegas)」を観た。

この映画は1995年制作のアメリカ映画であり、この映画はベンとサラというカップルを中心として描かれている。

脚本家であるベンはロサンゼルスに住んでいるが、酒浸りで、金なし、仕事なし、妻子なしの生活を送っている。ベンは会社をクビになると同時に、退職金を使ってラスベガスに移り住む。ベンがラスベガスに行って出会うのがサラである。

サラはラスベガスで売春をして生計を立てている。ベンが信号無視で、横断歩道手前でブレーキを踏むと、サラが「くそ野郎」と中指を立てる。それが2人の出会いである。

その後たまたま出会ったベンとサラは、ベンの泊まるモーテルでの一夜を境に急激に接近し、付き合うことになる。ちょうど2人の付き合う直前に、サラのヒモであるユーリという男は、闇社会のトラブルのため殺される。

ベンは無職のアルコール中毒で、サラはサディスティックなヒモ男に洗脳されていた娼婦である。ベンはお酒が、サラは売春が、付き合っている相手にとっての負い目となっている。

ベンは映画の最中徹底的に酒を飲んで飲んで飲みまくる。ベンはサラにこう言う。「俺と付き合うなら、俺に酒をやめろと言うな」と。

ベンとサラは付き合いだした当初は2人で過ごしているが、当然生きていくためにはお金が必要である。サラは売春をしに夜の街に出かけることになる。

ベンはそれが気に入らない。サラが他の男と寝るのが気に入らないし、ベンは酒の飲み過ぎのために勃起せず、サラと寝ることができないため、余計に他の男とセックスをするサラのことが許せないのである。

ベンは酒をやめないし、サラは売春をやめない。映画の最後でサラはこう言う。「私と彼はお互いに甘かった。それがダメだったの」(サラは多分カウンセリングを受けていてこう言ったのであろう)。

ベンはラスベガスに酒を飲んで死ぬために来たと言う。サラは男と暮らすために売春をするという従来の恋愛観的に見てとても複雑な状況に追い込まれている。お互いに現状を打開する気はなかった。だから2人は付き合っていたのである。自分たちの現状を変化させないために。

人は長く習慣としていることに順じて生きる方が生きやすい。長年の習慣に人は逆らうことができない。誰もがずぶずぶと慣れ親しみの中に身を浸している。残念なことに、人々は旧体制から新体制への変化を望んではいないのである。

強盗して1ドル奪うのが習慣なら、その習慣に身を任せて、働いて1ドルを得ようとはしないのである。堕落した生活。良かろうが悪かろうが、人は習慣を捨てにくい生き物なのである。

テレビによる犠牲

映画「誘う女(原題:To Die For)」を観た。

この映画は、実際アメリカのニュー・ハンプシャー州で1990年に起こった殺人事件を題材とした映画である。ちなみに映画に出てくる登場人物の名前と、実際の事件の当事者たちの名前とは異なる。

映画の中では3つの集団が中心となって登場する。1つはマレット家、もう1つはストーン家、そしてもう1つは貧しい白人の高校生3人からなる集団である。この映画の主人公スザーンは、ストーン家の娘である。

ある時スザーンはラリーという男と恋に落ちる。このラリーはマレット家の長男である。スザーンとラリーは惹かれあいやがて結婚する。

スザーンには夢があった。それはテレビに出演するという夢だ。ただテレビに出るだけでは駄目である。自分が多く注目され、多く登場すればするほど良い。

スザーンは全国的に有名なキャスターを目指していた。しかし、夫のラリーはスザーンの夢を強く応援しようとは思わなかった。夫のラリーは、スザーンが全国を飛び回る有名なキャスターになることは望んでいなかった。ただ妻としてラリーのそばにいて欲しいのだった(ラリーはスザーンに専業主婦になれとは言っていないが)。

スザーンはラリーのこの考えが気に入らなかった。「人間はテレビに出ると一人前になる」のだから私はテレビに出る。ただちらっと映るだけではなくて、テレビに出続けたい。それがスザーンの望みである。

ある時スザーンは自分の気持ちを理解しない夫ラリーを殺そうと思い立つ。そして自身の勤める地方局の番組作りのために親しくなった、貧しい白人の高校生3人を、スザーンの夫ラリーの殺害のために利用するのである。

高校生の1人は金欲しさに、もう1人はスザーンと友達を続けたくて、もう1人はスザーンと恋愛関係を続けたくて、スザーンに言われた通りにラリーを殺してしまう。

映画の中でスザーンはこう言う。「私は大学も出ているし、職もある、立派な社会人だから捕まることはないわ。でもあんたたち3人は立派な社会人ではないわ。ただのゴロツキ。だから捕まるのはあなたたちよ」。

アメリカにはアメリカン・ドリームと呼ばれるものがある。貧しくても機会を生かせば社会での成功を手に入れることができる。この映画の中に登場する貧しい3人の高校生に平等に機会が与えられているといえるのだろうか?スザーンの描いていたアメリカン・ドリームのために犠牲となった3人の高校生がいると、この映画から読み取ることもできる。アメリカン・ドリームはここでは呪いの言葉なのである。

 

※メディアで、特にテレビで有名になるといいことがあるという思いに囚われて暴走したスザーンは、テレビのための犠牲者であるとも言えるだろう。

男は一人前、女は半人前。

映画「セルロイド・クローゼット(原題:The Celluloid Closet)」を観た。この映画は同性愛についてハリウッド映画がどのように扱ってきたのかを描いた映画である。映画は人を教化する役割を持っていると考えられる。つまり映画は人々の知識の収集のための宝庫ともいうことができる。

人々は映画に登場する人物を、その人物以外の登場人物がどう扱うかによって判断する。例えばAという男がいたとする。その他の登場人物の女の子たちがその男Aを褒めそやせば、人々はその男Aを好印象で受け入れるだろう。

もっと言うと、男Aを他の男たちも褒めちぎれば、男Aはより好感度が上がるだろう。そして人々は男Aのような人物を現実の世界で発見して、映画の中でその人物の元となっている男Aが取り扱われているのと同じように、現実の世界で“男Aに似た人物”を褒めそやすであろう。

つまり映画が現実の世界でのある個人の評価を決定してしまう力を持っているということである。

このように社会にあるものをどう見るべきかを教える映画は、特にその中でもハリウッド映画は、ゲイつまり同性愛者たちをどう描いてきたのだろうか?

この映画の中では1920年代のサイレント映画の時代から、この映画の公開された1995年頃までの同性愛者を描いた映像が取り上げられる。映画の中の同性愛者はまず笑い者の対象とされてきた。そしてその次に同性愛者は非道徳的なもの、悪いものとして描かれる。そして暗喩的に示されてきた性表現も次第にリアルなセックスを描くようになってゆく。

ゲイには常にマイナスのイメージが結びついている。ゲイは笑い者になったり、冷血な悪となったり、不幸や、自滅や、絶望という表現が結びつけられたり、悪漢や殺人鬼として描かれたりしてきた。

映画の中ではこう言われる。「女同士のセックスより、男同士のセックスの方が嫌がられる。それは女が半人前としか見られていないからだ」と。女性は一人前ではない。だから女性が“従来の規範”を犯してセックスしても人々の抵抗は呼ばないと映画は告げる。一人前の男のセックスが、人々に嫌悪を呼び起こすのである。

ところで映画の中で男同士がセックスをしていて、それに対してその当事者以外の誰かが「それってとてもクールだよね」と言ったらどうなるのだろうか?観客は自分の中の嫌悪感に横やりが入って水をさされた気持ちになるのだろうか?もしかしたら人々は「それってクールだよね!!」と思うかもしれない。映画が同性愛者をどう描くかで、同性愛者が市民権を得ることは充分あり得るのだ。

権力者による弾圧

映画「別離(英題:Nader and Simin,A Separation)」を観た。

この映画は2011年に発表されたイラン映画である。イランは映画に関しても政府の検閲は厳しい。この映画の中では、アメリカ映画にみられるようなキス・シーンは出てこない。もちろんセックスのシーンもない。この映画の中で娘が祖父にキスをするのを暗示するするようなシーンがあるが、娘と祖父の姿は壁越しに隠されていて直接見えない。これは、イラン政府の検閲を通過するように、映画制作者側が自主規制しているものだと思われる。

イランでは男と女の触れ合いは、例え親密な間柄を描いたものでもタブーなのである。不倫のセックスを描くことは到底できないであろう。(イランでは芸術そのものが、政府の検閲の対象になっているようである)

この映画では2つの夫婦、家族の対立が描かれている。

ナデル(夫)とシミン(妻)という夫婦がいた。シミンはイランから出国したいと考えている。イランから出てイラン以外の自由な場所で暮らしたいのだ。しかしナデルはナデルの父がアルツハイマー認知症のため心配なのでイランから出ることはできないと言う。

このことが原因でシミンはナデルの元を離れて、ナデルは父の介護のために家に介護人を雇うことになる。その介護人が夫ホッジャトを持つ女性ラジエーである。ラジエーはナデルの父の介護中にナデルの父をベッドに縛り付けて(ラジエーがいないうちにどこかに行かないようにして)外出してしまう。

そこにナデルが帰宅する。ナデルはベッドに縛り付けられて意識を失っている父を発見する。ナデルは帰宅したラジエーを外に追い出す。その時ラジエーは転倒する。ここで映画の中でポイントとなる問題が発生する。ラジエーは妊娠中だったのである。

ラジエーは流産をする。流産の原因はナデルがラジエーを追い出して転倒させたことにあると、ラジエー夫婦はナデル夫婦を訴えるのであった。

この映画ではナデルが、ラジエーが妊娠しているのを知っていて、ラジエーを押し倒したのかどうかが問題となる。ナデルはラジエーがナデル家に来ている家庭教師と妊娠について話しているのを聞いていたのかどうか?

ナデルが、ラジエーが妊娠しているのを知っていて、ラジエーを押し倒したのならば、ナデルに実刑判決が決まる。その事実を隠ぺいするために嘘に嘘が重ねられていく。

この映画の中で違和感を覚えるのは、イランでは男性の権力が極めて強いということである。ラジエーは夫ホッジャトのことを異様なほど気にかけている(「嘘がばれたら夫に殺される」)し、ラジエーはナデルの父が粗相したのに、それを洗ってやることも許されない(夫を持った女性が夫以外の男性の裸を見ることは宗教的タブー!!だからラジエーはナデルの父の粗相を洗うことができない)。

女性の地位はイランでは特に低い。日本もイランほどではないが、男女の格差はある。例えば、男女の雇用の平等さ。「女性は結婚したら職場を辞めるから」が常識になっているのではないのだろうか?