繋がり易い言葉と、繋がりにくい言葉

○繋がらないものが繋がる

 

繋がらないものが繋がる。それが哲学というものであると東浩紀は言った。キーワードを繋げるためにメモをすると宮台真司は言った。整理してはダメだ。雑然としている状態で資料がごちゃごちゃになっている状態から面白いものは生まれると内田樹は言った。

東浩紀は朝カルアーカイブ批評の書き方実践編(朝カルArchive 東浩紀 批評の書き方実践編(ラジオデイズ公演)全三巻 2010年)でそう言っていたし、宮台真司の場合はインタビューズ(「宮台真司interviews 1994-2004」 世界書院 2005年 p.76、100、110、389)の中やウェブページの「宮台真司のこれも答えですよ」

これも答えですよ!

http://www.angelfire.com/me3/meso/korekota.html)でそう発言しているし、内田樹は住まい論(「僕の住まい論」 新潮文庫 2014年)の中でそう書いている。

つまり従来あるように物事が並んでいる状態からは何も新しいものは誕生しない。従来のものとは別の在り方が新しい何かを作り出してくという考え方がこの三者の考え方からは生まれてくる。

つまり従来あるとおりに物事があるというのは保守的な立場であると言えるし、従来とは違う何かに開かれている態度は革新的であるといえる。この世の中には変わって良くなることが沢山ある。そう三者は告げているように思われる。

しかし注意しなければならないのはなんでも文脈を無視して繋げていいわけではないということである。東浩紀は朝カルアーカイブの中でそうはっきりと言っている。文脈を無視していいのには節度というものが必要なんだと東浩紀は言うのである。ではこの節度とは何か?節度など重視していては何も革新的なことはできないのではないか?

ここで来るべき革新の姿について思考を巡らすべきだと思われる。来るべき革新の姿が、文脈を無視する際の節度を設定しているように思われるからだ。

宮台真司はメモを取る時の書く快楽がひらめきをもたらすと書いている。つまり革新的な目的など当初はないのである。ひらめきが革新を決定づける。そしてひらめきとは偶然に近いものである。革新は目的であるが目的としては当初は存在しないものである。

繋がらないものが繋がる。そこには革新的なひらめきがある。ひらめきは想定できない。そのひらめきを目的として、繋がりは存在する。革新的思考にはそれ自身が持つ不確実性があるとういうことができるのではないか?繋がらないものが繋がった時にそこには従来なかった新しいものが存在する。繋がりは革新を求めるが、革新はこれであると示すことはできない。

こう言っていると何か雲でもつかむような気持になるが、繋がらないものが繋がっている、そしてそれが多くの人にとって説得的に響くというのは厳然たる事実ある。繋がらないものが繋がる。それはどこか新しくてどこか懐かしいものなのである。

 

 

○繋がり易いもの同士

 

連想し易い言葉。言葉の日常的な繋がり。繋がりやすい言葉とはこういった言葉である。日常的に使われている言葉の日常的な関連性。それが繋がりやすい言葉同士であると言うことができる。

例えば、「新聞」という言葉と、「朝刊」、「夕刊」といった言葉は繋がり安い言葉である。新聞という言葉に対しての説明を後の二つの言葉はしている。これは日常的に使われている言葉、つまり多くの人が聞いて誰もが理解することができる言葉である。

新聞という言葉と朝刊、夕刊といった言葉の繋がりは容易に見つけることができる。その言葉の組み合わせは日常的に頻繁に使われているから、誰もが新聞という言葉と朝刊、夕刊といった言葉の繋がりを異様に感じることはない。これらの言葉が同じ会話で使われることは突拍子のないことではない。「今日の朝刊読んだ?」「朝刊?読んだよ」「夕刊は?」「読んでない」という繋がりは別に奇妙に感じることはない。

もう少し詳しく記述をしてみたいと思う。言葉には実際に使われる言葉と、実際に使っている言葉の背景にある体系を構成する言葉とがある。実際に使う言葉と、その背景にある言葉の体系。

実際に使う言葉には、話し言葉と書き言葉がある。これらは動的な言葉である。そしてその反対に静的な言葉というものもある。それは実践的な言葉ではなく、言葉同士の繋がりを図式的に示そうとするようなものである。言語学では前者をパロールと呼び、後者をラングと呼ぶ。言葉にはラングとパロールがある。そう言ったのは、ソシュールという言語学者である。

言語学では実践的な言葉をパロールと呼び、体系的な言葉をラングと呼ぶ。人が実際に言葉を使う際に、言葉の体系を思い浮かべているわけではないが、人は言葉を使ってスムーズに会話することができる。人は言葉を話す時に意識して体系から取り出すことはしない。会話は体系など意識しなくてもスムーズに行われる。

アメリカにノーム・チョムスキーという有名な言語学者がいるが、チョムスキーは面白いことを言っている。人は誰もが経験的にではなく、先天的に言語というものを身に着けていると。つまりチョムスキーの考えによれば人は言葉の体系を誰しも持ち、それには特別な教育といったものは必要ない(フォー・ビギナーズ97 チョムスキー 現代書館 2007年 p.69)。

上流階級で有名な大学を出ているから、大学を出ている人よりより高度な言語体系を持っているのではない。人は先天的に誰もが膨大な数の言語を手に入れているのだと。この考え方によると言語体系はどうやって獲得するか?などという問いは立たなくなる。言語の体系を人は誰しも持っているのだから。つまりここで我々は言語体系がどこから来たのか?という根本的な問いをスキップすることができる。人は繋がりやすい言葉と、繋がりにくい言葉の関連性を持つ体系を先天的持っているのだから。

少々脱線したが本題に戻ろう。繋がりやすい言葉があると述べた。そしてその言葉を有する体系が人間には先天的に備わっている。言葉同士が繋がりやすいかどうかは、それぞれの個人の中に存在する言葉の体系によって決まる。各個人の言葉の体系はそれぞれ似通っている。言語は話す言葉が違っても似たような体系を持っていると考えることができる。つまり、この世界の多くの人々が繋がりやすい言葉という連想を持つことになる。そして、繋がりやすい言葉があれば当然繋がりにくい言葉もあるのである。

 

 

○繋がると意外性があるもの同士

 

連想しにくい言葉。言葉の非日常的な繋がり。それは人々にとって時に心地よい刺激となる。連想し易い言葉の羅列に飽きた人たちは、繋がりにくい言葉同士の連結に興奮する。繋がりにくい言葉同士が繋がる時には、時としてその言葉の繋がりが人々の中に大きな快楽を呼び起こす。それは何かわからない状態に置かれている人間が、何かわからない状態に言葉を付けて、繋がりにくい言葉同士を繋げる作業であり、その作業の結果は人々の間に快楽を生むのである。

人は先天的な言語体系を持っており、その体系の中で遠い言葉つまり繋がりにくい言葉同士を繋げる。それが答えを提示するということである。難解な問題に頭を悩ませている人がいて、その人に対して、答えを提示すること、それが繋がらない言葉同士が繋がるということである。それは快楽を生む。それはつまり、人が快楽を避けない限り、繋がらない言葉が繋がることを求めている人がいるということである。

東浩紀は「朝カルArchive 東浩紀 批評の書き方実践編(ラジオデイズ公演)」の第三巻の中でこのようなことを言っている。ここでは概要を示す。東浩紀が言っているのは大体次のようなことである。

「今思想というのは、ディグというアメリカのソーシャルニュースサイトでは、思想(アート・アンド・カルチャー)というのはライフスタイル(自動車、教育、飲食、健康、旅行)のカテゴリーに入っていてエンターテイメントのカテゴリーからは離れている。…思想や文学や芸術はライフスタイル(真面目)に区別されているけど実はライフスタイルに区別されたら負けでエンターテイメント(不真面目)に区別されなきゃいけないんじゃないかということを言いたい…真面目なもの(思想)と不真面目なもの(エンターテイメント)が混然一体となってしまった空間というのを名指していたのがデリタというのから動かないので、そうではなくて真面目と不真面目を攪乱するのがデリタだったというように発想を切り替える。実はこれで繋がるようになっている。デリタの話から思想がエンターテイメントになるという結論は出て来ない。デリタはそんなことを言っていないのだから。つまり俺の中で繋げるしかない…僕のやっていることというのはパッチワーク批評(二次創作批評)で本来だったら繋がらないことをどう繋げて、ある種のストーリーを作っていくのかという批評をやっている」

東浩紀は日本の批評界では名の知られた人気のある批評家である。東浩紀は言う。批評というのは繋がらないものを繋げることなのだと。そこに批評が批評たることの意味がある。そして東はこの中では直接は言っていないが、繋がらないものが繋がる批評こそが面白い批評なのだと言いたいのではないか。

東浩紀は当たり前のことが当たり前に繋がるというのには何の商品価値もないと言う。繋がらない事が繋がって初めてそこに商品価値が生まれると言っている。東は商品価値という言葉を嫌っているようだが、自身の評論が商品として価値を持つのは繋がらないもの同士が繋がることだと述べている。ここで繋がらないものと表現されているのは繋がらない言葉同士と私が前述しているものと言っていいだろう。

90年代から批評家として活躍する人物に宮台真司がいる。宮台もキーワード同士を繋げることに強い関心を持つ批評家(社会学者)である。

宮台真司が書く文章には強い快楽がある。宮台真司の文章を読む者はその快楽に浸ることができる。

例えば宮台真司は著書「どうすれば愛しあえるの」(KKベストセラーズ 2017年)で社会の中にあると思われている恋愛を、社会の外に位置付けるという作業を行う。つまり一般では恋愛=社会内という繋がりを、恋愛=社会の外という繋がりに切り替えるのである。

宮台真司はこう唱える。90年代以降はそれ以前では可能だったロマンチックな恋愛が不可能になった。それ以前では「人はまだロマンチックな「愛」国や恋「愛」が可能でした」と宮台真司は述べる。「非合理・不条理・理不尽を意思できるのが人格的な主体だとすれば、人々はまだ人格的な主体でした。そうであるぶん人々は、損得勘定の自発性を超え、道徳感情の内発性から行動できたといえます。」(p.45~p.46)。ここで言われる非合理・不条理・理不尽が「愛」である。

愛とは一見合理的なもので、愛はそれに等しい対価が支払われると現在では考えられがちである。しかし宮台真司はこの考え方に対してこう提示する。愛は贈与である。対称性など無い。それは与えた分返って来るとは限らない。それが愛であり、その愛が近いもの同士の繋がりを生み、その近い繋がりが自分の大切な人を守るためにもっと遠い関係にある人を助けるという繋がり(例えば国)を生み出していたと。

国が最も望ましいものかの是非は置いておくとして、宮台真司の言葉は人の中に新鮮な喜びを生み出す。それは繋がらないと思われていた考え方(言葉)が繋がる瞬間がここにはあるからである。

繋がりにくいものが繋がることには大きな快楽がある。その快楽は人を新しい言葉の繋がりを示す媒体に引き寄せる。その立役者として例えば批評家が存在するのである。

父と母と子

映画「イカとクジラ(原題:The Squid and the Whale)」を観た。

この映画は2005年のアメリカ映画で、両親共に作家である兄弟とその両親を描いたドラマ/コメディ映画である。

バークマン一家の父バーナードと母ジェーンは、フランクとウォルトという2人の男の子を育てていく途中で不仲になり離婚することになる。そしてウォルト(兄)と、フランク(弟)が保護者の間を曜日ごとに行き来する共同監護の日々が始まる。

ジョーンは成功した作家で稼ぎも多いが、父バーナードは落ち目の作家で、小説の書き方講座を開きなんとか生活を成り立たせている。

商業的成功から見離された父は、父を慕う息子ウォルトに向かってこう言う。「大衆は俗物ばかりだ」「俗物とは本や映画に関心がない低レベルの人たちだ」と。

兄ウォルトも弟フランクも両親の不仲が原因のためか精神的に病んでいる。兄ウォルトは感情的になれなく、人の気持ちに鈍感な青年であり、弟フランクは、自分の精子を図書館の本や学校のロッカーにこすりつけるような奇怪な行動をとる。

両親の方はといえば、母ジェーンは夫との不仲のせいで何人かの男との虚しい情交を持ち、父バーナードは大衆を侮蔑するだけの稼ぎのない男で、兄ウォルトの好きな女の子とセックスしてしまうようなダメなやつである。

映画は途中から兄ウォルトの心理面に迫るようになる。兄ウォルトは父バーナードにべったりの父っ子青年である。ピンク・フロイドのHey Youという曲の歌詞をパクッて学校で自作の詞として歌った件で、ウォルトは精神科医に母との思い出を語る。

「昔母と博物館に行ってイカとクジラの戦いを見たことがある。見た時は怖かった。でも家に帰った後に母とその話をした時は楽しかった」と。

映画のクライマックスで父が疲労で倒れた後、ウォルトの恋を裏切って、ウォルトの好きな女の子と寝た弱った父を前にして、ウォルトは急に博物館に走り出す。イカとクジラの戦いを見るために。

きっとその時のウォルトには父は受け入れがたい恐怖として見えたのではないだろうか?イカとクジラの戦いを前に恐怖が楽しさに変わった母との思い出を想起し、ウォルトは自身の危機を乗り越えようとしているのである。母との関係を見直すことをその行動は促すだろう。

子供を産むということ

映画「白い帽子の女(原題:By the Sea)」を観た。

この映画の舞台は1970年代の南フランスの浜辺にあるホテルとその周辺の町である。映画の主人公はローランド・バートランドというアメリカ人作家とその妻であるヴァネッサである。

ある時、ローランドとヴァネッサの夫婦は、日常から逃れて、ニューヨークから南フランスの浜辺近くのホテルにやって来る。

妻ヴァネッサは夫ローランドが出掛けている間に、ホテルの自室の壁に隣の部屋が覗ける穴があるのを発見する。するとその隣の部屋に若い新婚のカップルがやって来る。ヴァネッサは部屋の壁に空いた覗き穴から隣の部屋の様子を覗く。新婚のカップルは子供を作るためのセックスに勤しむ。

はじめは覗いているのはヴァネッサだけだったが、途中から夫のローランドも妻のヴァネッサと一緒に隣の部屋を覗くようになる。

バートランド夫婦はほぼセックスレスの夫婦であり、隣の部屋の新婚カップルのフランソワとレアはセックスばかりをしている。

ローランド夫婦の片側であるヴァネッサは、夫をかたくなに拒んでいて、映画が進行するにつれてヴァネッサの行動に不可解なものが見られ始める。

ヴァネッサはローランドに「あの女と寝たいの!!」とレアを餌に夫に対して怒鳴る。そうかと思うと、ヴァネッサはレアを自室に呼んでローランドと3人でカードをする。そして最終的にヴァネッサはローランドが覗いている時に、フランソワとセックスしようとするのである。

そうヴァネッサはどこか倒錯している。映画の終盤でヴァネッサが倒錯している理由が明らかになる。

ヴァネッサが不可解な行動をとるようになった理由とは、子供を2回流産したことによるものであり、1970年代には現在より過酷だったと思われる女性が子供を産まなければならないという社会的なプレッシャーによるものだと。

この映画の設定である1970年代当時はきっと今より、女性は子供を産むべきだというプレッシャーが強かったように思われる。子供を産むというのは女性に対する大きなプレッシャーである。それはきっと過去よりは重圧ではなくなったのかもしれないが、現在(2017.8.4)でもそうなのであろう。

女性は子供を産める時期を逆算して結婚のことを考える。私は子供が欲しいから30代前半までには結婚しなければならない。女性は社会的プレッシャーから自身で自身に対して暗示をかけているのかもしれない。

なぜ男と女から子供が生まれるのに、女性は子供に対する重圧を多く男性より担っているのだろうか?女性が子供を産めるタイムリミットと育児は別である。女性へのプレッシャーは現在でも大きい。

イギリス・アメリカ軍対イスラム武装勢力、そして民間人

映画「アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場(原題:Eye in the Sky)」を観た。

この映画は2015年のイギリス映画で、軍によるドローンを使った攻撃を描いた軍事サスペンス映画である。

この映画の主要な集団は3つある。1つはイギリス政府と軍。1つはアメリカ政府と軍。そしてもう1つはケニアの軍隊である。

その集団の中でも映画の中心人物であるキャサリン・パウエル大佐が所属するのがイギリス軍である。

この映画の中でイギリス、アメリカ、ケニアの敵役となるのが、イスラム武装勢力である。

ある時イスラム武装勢力ケニアのナイロビで自爆テロを計画する。その際自爆テロをして殉教者となるのが、イギリス人とアメリカ人の少年であり、その武装勢力の計画者である人物にイギリス国籍の女性がいる。

イギリス国籍者2人とアメリカ国籍者1人が自爆テロに関わるため、イギリス軍とアメリカ軍がテロ予防対策に関わることになるというのが話の筋である。

しかし、ここで不自然に思われるのが、なぜケニアの事件にアメリカとイギリスが主導権を握っているのかということ。そしてもう1つ不快な点が、戦闘の直接的な人的関与を主導権を握るイギリス・アメリカ軍が行わないということである。

この映画の見どころとなるのは、自爆テロの準備をする場所にミサイル攻撃をすることが決まった後に、攻撃で被害を受けるだろうと予測される場所で少女がお母さんに作ってもらったパンを売っているのが発見されるところである。

映画はこの少女を自爆テロで死ぬとされる60人の身代わりの犠牲として殺すか殺さないか揺れ動くところにある。アメリカの政府は殺してもかまわないと言うが、アメリカ軍一兵士がそれを拒む。イギリス軍は殺してもかまわないと判断するが、政府はそれを拒否する。

結局最後に汚れ仕事をするのは、イギリス軍となる。キャサリン・パウエル大佐は言う。「あなたは私の命令に従う。少女が死ぬ可能性は50%の未満のミサイル着弾点があるのね」と。

キャサリン大佐はあくまで予測は予測なのでコンピュータを扱う軍の部下に勘で予測を作り出すように促すのである。

そしてキャサリン大佐は言う。「あなたには責任はない」。キャサリン大佐の部下はキャサリン大佐の誘導に従って少女が死なないといういい加減な決定をする。60人の命のために。少女はコマーシャル的な犠牲である。

七夕の夜、鎌倉の海の砂浜で、花火をする歌2

○鎌倉とは

 

レミオロメンのアルバム風のクロマの15曲目の曲「花火」は鎌倉の海でデートをする話である。

デートの舞台である鎌倉の夜の海とはどんな所なのだろうか?しかも七夕である。

鎌倉は東京都に隣接する神奈川県にある市の名前である。東京都の中心から鎌倉までは南に大体70kmである。

鎌倉は海水浴場が多くある市で、レミオロメンの「花火」に登場する場所もこの海水浴場の内のどれかである。ちなみに鎌倉市にある茅ヶ崎(ちがさき)や江の島はサザンオールスターズの曲の歌詞に登場する場所である。レミオロメン藤巻亮太もサザンを意識しているのかもしれない。

レミオロメンの「花火」は2008年、アルバムの風のクロマ出た以前の七夕の神奈川県鎌倉市のどこかの海水浴場の砂浜での出来事であると推測できる。歌詞を書く時にはその場所に居たとか、その場所の思い出を想起することになる。もしくは行ったことのない土地でも、聞いたり見たりした言葉と映像でイメージを膨らませて歌詞を創作することができる。

この砂浜とはサザンオールスターズゆかりのサザンビーチ(茅ヶ崎海水浴場)なのではないかとも想像することができてしまう。

 

 

○男と女、二つの立場の対立

 

鎌倉の海でデートをする歌がレミオロメンの「花火」という曲である。この二人は付き合う前であり、お互いの気持ちをまだ探り合っている状況である。

女性の方は花火のような一瞬の恋ならしたくはないと考えていて、男性の方は最高な今が続けばいいと考えている。

女性と男性の間には認識のズレが存在する、一瞬の恋ならしたくはないという女性と、今という一瞬が永遠に続くよとのたまう男。

この曲の中ではこの二つの立場、一瞬は一瞬であるという立場と、一瞬は永遠に連続しているという立場のせめぎあいが繰り広げられる。

また男性は恋愛と花火を繋げたり、恋愛と人生を繋げたりする。しかしそんな時女性はそれに否定的な態度をとる。男性は恋と崇高なものを繋げようとする。そして女性は、そんな男性の態度にうんざりしているととられるのか、それともいつも気まぐれな態度しか男性に見せていない、ととられるのである。

崇高なものとは何か?それは一個人より大きな集まりであり、時間的にながく続くものであり、何か通常とは違う雰囲気を漂わせるものである。崇高なものが正しいとは限らない。

この歌詞を書いているのはレミオロメンのギター・ヴォーカルである藤巻亮太である。藤巻の男性観と女性観そして恋愛観がこの曲の歌詞には表れている。この曲の歌詞で描かれる男性は女性に対してパターナリスティックである。つまり女性に対して常に優位な態度をとろうとする。この曲の中で花火を鎌倉でしようと女性を誘うのは男性であり、過去や未来よりも今をみつめてごらんと諭すのも男性である。また女性は気まぐれであるという見方もこの歌詞の主体である男性の視点から女性をとらえたものに過ぎない。

つまり藤巻亮太が描く男性観と女性観とはこう言える。

男性は崇高なものに惹かれる理想主義者で、女性は経験的な考え方をする現実主義者であると。

社会学宮台真司宮崎哲弥との共著M2我らの時代(2004朝日文庫)にでこのようなことを述べている。

「市民革命を経験した連中は、国家とは、個人の自由を支える、血であがなった公共財で、その下で自由な試行錯誤による個人的尊厳があるという考え方が自明です。これが連合国的尊厳観ね。でも日本やドイツなど、後発近代国は違います。「追いつき追い越せ」の急速な近代化で、今まで田舎的生活を送ってきたところに突如、都市生活が始まる。共同体や自然が急速に失われて疎外感を抱く人が量産され、その寂しさを着地させる場所として国家=共同体が見いだされた。それが戦間期ファシズム研究の結果です。だからこそ枢軸国的尊厳観は「大いなるものとの一体化」なのです。要は脆弱さや寂しさの埋め合わせですよ。」(p.33)

ここで私が言いたいのはこういうことだ。

片方に連合国的尊厳観というものがあり、もう他方に枢軸国的尊厳観というものがある。連合国的尊厳観とは自由な試行錯誤によって支えられるものであるのに対し、枢軸国的尊厳観とは寂しさを抱えるものが大いなるものと一体化することにより生じる尊厳観なのである。

先程、曲中の男性は人生とか花火とか永遠とかいったような崇高なものに恋愛を結び付けようとすると書いた。つまり男性にとって枢軸国的な尊厳観が重要なものであることを物語っている。男性にとって崇高なものは良いものである。しかしそれは本当か?崇高なものが良いものなのか?枢軸国的尊厳観はファシズムを招いた。その尊厳観が良いもの?

他方女性は男性の崇高なものに対する思い入れをスルーする。線香花火を人生になぞらえても興味はないのである。なぜあなたは崇高なものを求めるの?そんな疑問が聞こえてきそうである。女性は今を未来と過去との繋がりでとらえる。そこには栄枯衰勢がある。特に過去を見つめる女性の視点は鋭い。女性は自由な試行錯誤により培われた尊厳観を信用している。だから男性の崇高な話に興味をもたないのである。

このような男性と女性を藤巻亮太が構想して詞を書いたのかはわからない。ただ詞にある文字から、このようなことを筆者は想像したのである。

 

 

○織姫と彦星の話は悲恋の話である

 

そもそもこの花火は七夕に鎌倉でデートをする話であり、恋愛の成就を願う話であるのだが、この曲の題材となっている七夕の話は恋愛の成就どころか、恋愛下手な女性が男性的な権威に翻弄される話なのである。

ここに七夕の物語の出来上がったころの文章を載せたい。

「また六朝・梁代の殷芸(いんうん)が著した『小説』には、「天の河の東に織女有り、天帝の女なり。年々に機を動かす労役につき、雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇なし。天帝その独居を憐れみて、河西の牽牛郎に嫁すことを許す。嫁してのち機織りを廃すれば、天帝怒りて、河東に帰る命をくだし、一年一度会うことを許す」(「天河之東有織女 天帝之女也 年年机杼勞役 織成云錦天衣 天帝怜其獨處 許嫁河西牽牛郎 嫁後遂廢織紉 天帝怒 責令歸河東 許一年一度相會」『月令廣義』七月令にある逸文)という一節があり、これが現在知られている七夕のストーリーとほぼ同じ型となった最も古い時期を考証できる史料のひとつとなっている。」(ウィキペティア「七夕」2018.7.8閲覧)

この文章にある織女(しょくじょ)とは織姫のことであり、牽牛郎(けんぎゅうろう)とは彦星のことである。

この文章を要約すると、織姫は仕事に忙しすぎて恋人を作る暇もなかった。そこで織姫の主人である天帝は彦星を恋愛の相手にあてがった。そうしたら織姫は仕事そっちのけで恋愛一辺倒になってしまった。そこで怒った天帝は織姫と彦星が会えるのは年に一度七夕の時にした。というものである。

つまり七夕は傲慢な支配者により引き離されてしまった恋人同士の話なのである。これからデートをして付き合い始める二人には到底似つかわしくないのが七夕の物語なのである。

一年に一度傲慢な支配者により引き離されてしまった恋人同士が出会うことのできる話。それが七夕の話の通説になっているようである。否通説では傲慢な支配者の話は隠されているようである。レミオロメンの「花火」が単純な恋愛成就の話に頽落してしまっているように。

レミオロメンの歌の歌詞に恋愛を結び付け引き裂くような支配者は存在しない。二人はどこであったのかはわからないが少なくとも支配者に傲慢に引き合わされ、そして引き離されたのではないだろう。

現代社会で恋愛をコントロールするような支配者とは誰か?政府の高官か?投資銀行家か?大企業の重役か?恋愛が人間にとっての常道としてまかり通るのは人に備わった性欲のなせる業なのか?それとも集団で生活すると内発的に沸き上がってくるようなものなのか?現代社会で天帝に代わる支配者は存在するのか?バレンタインやクリスマスの商戦に利用される恋愛という図式もあるのかもしれない。人の恋愛への欲求は、人間が性的欲求を持つ限り続くのだろう。

ハリウッドでの赤狩り

映画「トランボ ハリウッドで最も嫌われた男(原題:Trumbo)」を観た。

この映画は2015年のアメリカ映画で、実在の人物ダルトン・トランボを描いた伝記映画である。

この映画の主人公であるダルトン・トランボとはどんな人物で何をしたのか?それに触れる前にまず、トランボの生きた時代背景を描きたい。

トランボの生きた時代1900年代前半は戦争の時代だった。この期間に2度の大戦が起きて、多数の死傷者が出ている。そんな中世界は2つの中心国に影響されて時間を刻んでいくことになる。

その国とはアメリカとソ連である。ヒトラー率いるナチズムのドイツを第2次世界大戦で破ったアメリカ軍率いる連合国軍は、新たな展開を迎えることになる。

大戦時にはアメリカ率いる西側諸国とドイツを中心とする国々との戦いであったが、今度はアメリカ対ソ連という対立が生じる。ソ連というのは共産主義者が率いる国であった。するとどうなるか?アメリカ内に存在する共産主義者を、アメリカの共産主義者たちはアメリカという国の敵ですと言う人たちがあぶりだす、という事態になる。

その時先頭を切って赤狩り(共産者狩り)をしていたのがジョセフ・マッカーシーと下院非米活動委員会であった。

当時のアメリカ政府は共産党員として誰かを名指して調べ、共産主義者であると独断で決めつけ、共産主義者を刑務所に入れていた。1940年代から1950年代にかけて赤狩りは積極的に展開された。

この映画の主人公であるダルトン・トランボは、実際に共産党員であり政府により召喚状を受け取り服役した(もちろん不当に)人物である。ダルトン・トランボはハリウッドの有名な脚本家で、赤狩りで服役し出所した後も偽名で脚本を書き、アカデミー賞を2度受賞している。

ダルトン・トランボは、優秀な脚本家であると同時に、活動家で父でもあった。トランボは赤狩りとの闘いとして脚本を書き続ける。そんな中でトランボは仕事を家庭の中に持ち込み、仕事と政治活動のために家族を傷つけることになる。

人は孤立すると生きづらくなる生き物である。家族はトランボが生きていくためのホームベースである。そのホームベースが崩れてしまったら、トランボは赤狩りの闘いの中で生き残ることはできなかっただろう。敵に勝つことばかりを考えて周囲を不幸にしてしまっては何にもならないのである。

白か黒か?否グレーだ

映画「FAKE」を観た。

この映画は2016年の日本のドキュメンタリー映画である。

この映画の中で覆される内容は、耳が完全に聞こえない作曲家の佐村河内守は実は耳が聞こえており、しかも佐村河内の作曲した曲は実は新垣隆という人物がゴーストライターとして作曲したものであったというものである。

この映画中に焦点が当てられるのは、佐村河内氏は耳が完全に聞こえないのかどうか、そして佐村河内氏は作曲が自分でできるのかどうかである。

まず第1の問題佐村河内氏は完全に耳が聞こえないのかどうかであるが、映画中の佐村河内氏は自身を感音性難聴であると宣言する。感音性難聴とは一体何か?佐村河内氏は音がねじれたり、歪んで聞こえるのが感音性難聴だと答える。

つまり、聞こえないわけではないが、完全に聞こえているかどうかはわからないということだ。

人は物事に単純に白黒つけたがる傾向を持つ。右か左か、北か南かというように。しかし佐村河内氏の難聴は、白か黒かではないグリーンゾーンの難聴である。

映画中佐村河内氏は妻である香さんの手話を通じて相手と対話をする。相手が自分に話しかけている音は聞こえるが、何を相手が言っているのかはわからないという具合に、佐村河内氏の難聴は描かれる。白か黒かではないグレーなのである。

もう1つ佐村河内氏は自身で作曲ができるかどうかであるが、この映画の最期で描かれているように、佐村河内氏はシンセサイザーを弾くことができて、譜面によらない図や機器を使った作曲をすることができる。

映画中にアメリカの著名なオピニオン誌である「The New Republic」の記者が佐村河内氏にこう問いかける。「あなたは自分で作曲ができるのか?何か楽器を弾いているところが見たい」と。

映画のラストはこの記者が問いかけた疑問に対する答えである。佐村河内氏は自身で作曲ができるのである。

映画中この映画の監督である森達也氏が佐村河内氏に言う。「私は佐村河内さんを信じています。あなたは私を信じているのならば私に嘘(fake)ではなく本当のことを話して下さい」と。

この問いに対して佐村河内氏は黙り込む。あなたは嘘をついているのか否か?これは人が誰しも思う他者に対しての問いかけである。そしてその答えは白か黒かで明確に分けられるものではないのだろう。