映画「リー・ミラー 彼女の瞳が映す世界(原題:Lee)」と映画「JOIKA 美と狂気のバレリーナ(原題:Joika)」を観た。
前者、映画「リー・ミラー 彼女の瞳が映す世界」は、2023年のイギリス映画で、映画のジャンルは第2次世界大戦ドラマ映画だ。
後者、映画「JOIKA 美と狂気のバレリーナ」は、2023年のイギリス・ニュージーランド映画で、映画のジャンルはスパルタ・バレエ・ドラマ映画だ。
前者の映画も後者の映画も、主人公は女性だ。前者の映画の主人公はリー・ミラーと言う。後者の映画の主人公はジョイ・ウーマックと言う。リーが主人公の前者の映画の方は、1945年頃が主な舞台だ。ジョイ=ジョイカが主人公の後者の映画は、2012年頃が舞台だ。
つまり、この前者の映画「リー」と後者の映画「JOIKA」は、時代背景が違う。時代が違うと何が変わってくるかというと、世間の女性の扱い方が変わってくる。そして、この2つの映画の共通点は、女性が苦境に置かれているところだ。
前者の映画「リー」の主人公のリーは、酒とセックスと写真が武器の女性だ。後者の映画の「JOIKA」の主人公のジョイカは、バレエを踊る技術が武器の女性だ。リーは男性をうまく利用するが、ジョイカはリーよりは男から解放されている。が、しかし、ジョイカも結婚を、自分の仕事のために利用している。近代の男たちが、そうしたように。
リーは、まだ少女の時に、ユダヤ人男性にレイプされて子供を産んでいる。その子供アントニーが、リーの話を聴く形式で物語が進んでいくのが、映画「リー」だ。ジョイカは、アメリカ合衆国出身でロシアのバレエ団のボリショイ・バレエ団に入るために、ロシア人のバレエ・ダンサーと結婚をする。リーはレイプされたが、ジョイカは無言の社会的強制の中で一応自分から結婚を選択している。
リーのレイプは過去のものであり、ジョイカの圧力による結婚も過去のものであると言えるか? 答えは、ノーだ。今でもレイプ事件は起こるし、社会的圧力による結婚は今でも存在する。
例えば、ジェフリー・エプステインの例。ジェフリー・エプステインは、未成年の少女に売春をさせていたわけだが、その後、大人となった少女たちは、性被害を今現在告白している。つまり、過去にジェフリー・エプステインによって行われた未成年の少女の売春は、被害者の精神に傷を残しており、それはレイプであったと言っても良いだろう。レイプ事件は、今現在も存在することの現れだ。
例えば、今現在の結婚を解消する女性たちの存在や、結婚に不満を抱える女性たちの存在。結婚に不快感を持っていても結婚を続けるのは、結婚が社会的強制であることの証明でもある。「まだ未練があるから」と言うかもしれないが、その未練は女性の経済力が低いことの弁明で、「今離婚したら貧困に陥るんだよ‼︎ 」という女性の本心の取り繕いが、女性に「未練がある」と言わせるのかのしれない。
レイプと強制的結婚。リーについての映画と、ジョイカについての映画。女性が生きることの困難さを描いているのが、この2つの映画「リー」と「ジョイカ」だと考えることもできる。つまり、女性は男性に優しくされもするが、それは女性の意思とは関係のないところで行われることがあると言うことだ。
自分の意思とは関係のないところで。例えば、自分の意思とは関係のないところで、自分の印象が形成されてしまうこと。人は、見られる存在だ。それは、女性だけでなく、男性も同じことだ。印象を操作することは、難しく、例えば、話し方や服装や経歴等で、その人の印象は決定されて、その印象により他人は話しかけてくる。
印象は、人の属性を決定する。その印象を操作しようとしても、その印象操作が成功するとは限らず、印象操作の結果のはずが、その印象操作の意図は違った受け取り方をされることもある。自分が、真摯に接しているつもりでも、嘘つき呼ばわりされたりするとか。
印象操作を阻害するものとして、人の先入観があるとしたい。そして、その先入観を利用するのが印象操作だ。相手の先入観を予測して、相手の先入観を利用して、自分の印象を他人に印象づける。それが、印象操作の一例だと言える。
印象操作は、他人への強制にならない程度のセルフ・コントロールのうちには入るのかもしれない。セルフ・コントロールは重要だ。自分の印象を操作することは、自分の意思を伝えるのと等しく、自分の希望を伝えることだ。
もう使えなくなった自己同一性を着せられるのは、印象操作の失敗に当たる。セルフ・コントロールと自己同一性。セルフ・コントロールにより、古くなった自己同一性から脱して、自分の望むその時々の自分になる。その時に、他人の持つ自分への印象が、重要になってくる。
他人の中の自分の印象を推し量る行為と、印象操作は密接に関わりあっている。他人が自分をどう捉えているかをどう予測して行動するかで、その人のセルフ・コントロールの結果は変わってくる。
自分が望む自分として、自分は他人に受け入れられているかどうか? その結果は、時として人の中に葛藤をもたらす。「なんで他人は、自分のことを淫売と思うのか⁇ 」「なんで、私は拒絶されるのか⁇ 」など。それらと他人が自分に持つ印象は深い関わりがあり、印象により人の精神は掻き乱されたりする。
印象ではなくて、他人の本質を見抜くことは、果たして可能だろうか⁇ 直観さえも、印象に左右されているのが、常ではないだろうか? そして、その印象を作り出す、他人が自分に対して持つ先入観は、例えば家父長制と呼ばれる先入観の集まりによって規定される。
家父長制は、主に家父長制支持者の振る舞いによって形成されてきた振る舞いによる構築物だ。振る舞いに意味を与えて、その振る舞いが意味を示しだし、家父長制を作る振る舞いによって、家父長制の支配は維持される。
振る舞いの問題。振る舞いが意味と一緒になった時に、家父長制という意味の集合は可能になる。振る舞いは意味を持ち、振る舞いの意味を読み取った人は印象を受け取り、その印象を与える人の人格が規定される。
しかし、振る舞いが与える意味は固定的であるが、人の与えたい印象は常に変化する。その振る舞いの固定性と、人の与えたい印象の流動性が、ぶつかり合うときに、そこに葛藤が生まれて、差別が生じる。
振る舞いの固定性が、家父長制だと言っていい。振る舞いの固定性の中に生きる人は、今現在の他人の希望を伝えるはずの印象を誤解することがある。つまり、家父長制の価値観を内面化した人は、相手の印象を間違って読み取ることになる。それにより、葛藤や差別が生じる。
振る舞いの解釈の固定性が、先入観を作り出し、家父長制を維持する。となると、私と他人は、どうあるべきなのか? その答えは、簡単だ。常に内面を更新していくことだ。固定性は、思考停止のアラームであり、固定性を避けて私と他人は生きるのだ。
そのために必要なのは、先入観から自由な思考だ。リーとジョイカの人生の周りには、先入観が渦巻いている。先入観が誤解を生み、差別を生み出す。リーとジョイカを救うのは、先入観から解放された思考だ。

Lee
https://www.digitalspy.com/movies/a62771481/lee-kate-winslet-available-sky-cinema/

Joika
https://www.videobuster.de/dvd-bluray-verleih/902738/joika