映画「サブスタンス(原題:The Substance)」を観た。
この映画は2024年のイギリス・フランス合作映画で、映画のジャンルはホラー・スプラッター・エンターテイメントだ。
人は何かを見ると、心の中に感覚が生じる。その感覚は、人それぞれ違うもののようで、共通の感覚を引き起こすものがあるようにも感じる。その心の中の感覚は、直観のようなものであると同時に、人の経験が作り出したもののようにも感じる。
人の経験は、社会の力関係や、社会の秩序や、人々の間の議論が作り出したもののように感じる。そのような経験から作り出された感情には、美の感情があり、美の感情の直観の雛形があるようにも感じる。
美は、プラトンにより共和国を作るのには、不要だとされた。それは、美の不定形さに問題があるように感じる。それは、何が美かは人それぞれ違うからだ。だから、美を国を作る基準にしてはならない。
ならば、美とは、個々人を尊重するものであり、崇高な尊厳の一体化である国などの存在と対立するようにも思われる。つまり、美の存在は、アナーキーであるとも言える。美食がある、食の美は差別的で、うまいものとまずいものを区別して、うまいものを大量に食べることは、人に喜びをもたらす。大食の結果が、肥満であるとしてもだ。
この映画「サブスタンス」の主人公にとって、食の美とは、自分に喜びをもたらすものだ。彼女、エリザベス・スパークルが、体型の維持のために無理なダイエットをしているので、美食による喜びは、エリザベス=スーにとって過度に非常に重要なものだ。
ダイエットによる“美しい体”は、人々の“崇拝”“信仰”の理由になる。そこには、人の直感や経験によって作り出された美の共通項があり、美しい体は、大衆の理想とされて、大衆の人気を集める。
そして、その人気により、スターは満たされる。そこには、計り知れない自己肯定がある。憧れた自己肯定の充溢がそこにはある。そして、スターは、自己肯定のために、たとえば過剰なダイエットなどをして、過剰なストレスを溜めて、いつしか、大衆からの人気が、自分を苦しめるものになる。※“いつも空っぽで満たされない経済”
大衆がスターには必要だが、大衆はスターを苦しめる元凶でもある。そしてスターの怒りはどこに向かうのか⁈ スターの人気を利用する人もいる。他人の美を、自分の権威や権力や富の増大のために利用する人がいる。
その人にとって、スターは、手段であり、道具だ。巷には、たとえばモデルという小さなスターがいる。その小さなスターを利用して、富を築き上げる人がいる。
“モデルのようになりたい“と人は、活動をして、消費をする。モデルの着ている服が着たい。「モデル」のような知識が欲しい。スターの下に、さまざまな小さなスターが存在する。スターは、ギリシア神話の神々のように多数存在する。音楽のスター、ファッションのスター、テックのスター、小説のスター、学問のスター…。
端的にこの映画「サブスタンス」を表現するのならば、美を崇拝する金持ちやテレビや大衆への反逆だろう。この映画のラストは、美を巡る現実を苦々しく思っている人たちには、痛快に映るはずだ。
自分の生き血を、自分を苦しめる大衆やテレビ関係者、そしてお金持ちに浴びせかける行為は、この映画の主人公であるエリザベス・スパークル=スーにとっては、「ザマあみろ‼︎」という場面だ。エリザベスは、テレビで活躍する自分を思い描いて、過ごしてきた。
痩身ダイエットの番組のレギュラーを務めてきたエリザベスは、昔から思い描いた夢を一応の形で達成している。だが、エリザベスの夢は、まだそこで終わらなかった。エリザベスはスーという自分の分身を作り出すことで、今ある現状よりもさらにもっと多くの承認を求めるようになる。
エリザベスは、大衆から好かれたいと思っている。子供の頃から、大衆の承認を夢見てきたのが、エリザベスだ。ダイエットして痩せることで、美貌を磨いて、人々から多くの承認を得ようとするのがエリザベスだ。
ダイエットの運動のテレビ番組をしているエリザベスは、自分の生きている理由のそのままを、そのダイエットのテレビ番組という形で示している。痩身ダイエットは、エリザベスの希望通りの仕事のように思えるかもしれない。
ただ、痩身であるには、ダイエットが必要だし、人は老いるのが常だ。ダイエットは、自分の食欲に反するもので辛い。しかも、自分の美貌も歳と共に衰えていくと、エリザベスは特にテレビのプロデューサーに思い知らされる。
テレビのプロデューサーは、エリザベスの上司だ。会社の運営にエリザベスよりも近しいところにいる。そのテレビ・プロデューサーに、エリザベスはゴミのように扱われる。ただ、一方、自分の分身のスーの方は、どうか⁈ スーはエリザベスの分身だが、エリザベスより若い。
だから、熟練したダンスの技術を持っていて尚且つ若いスーには、テレビのプロデューサーはイチコロだ。つまり、このテレビのプロデューサーは、クソ野郎だ。老いという歳を取れば誰もが受け入れる事実を、テレビのプロデューサーは醜いものだと決めつける。
そして、そのテレビのプロデューサーが、“変身”したスーの、エリザベスの姿を見ると、当然のように、老いを否定する。そして、そのテレビ・プロデューサーに、スー=エリザベスの血が、噴きかかることは、映画を観ているものにとって、ある種の達成に映る。
自分のことを悪く言う奴を懲らしめた。そして、残るのは、美への執着のみで生きている、エリザベスの中の美と同時に醜いものに対する差別の心との対峙だ。そして、そこでエリザベス=スーは、美への執着のために、美という実は存在しないものになることになる。
美は、人間の中の観念であり、実際に実在するものではない。だから、美を追求すると、それは観念の話になり、実際の肉体の存在を超えていく。そして、スー=エリザベスは、肉体を超える。
肉体を超えるとは、人間ではもはやなくなることだ。美への執着により、人間ではない、人間の肉体を超えた、人間の観念上の存在にスー=エリザベスは、到達することになる。
美への執着が、醜さを超えて、つまり、醜くくないもの、つまり、人間ではないものになる。この映画「サブスタンス」が、語るのは、美というものは、人間の観念の創造物で、人間の肉体のことを指しているのではないということだ。
美を目指すことは、つまり、人間以外の何物かになるのに等しいと、この映画「サブスタンス」は、訴えかけてくるように思われる。美というのは、人々の主観で、人それぞれ美というものは違うという考えを否定して、何か崇高な一つの美というものがあり、それをみんなが求めていると思い込む勘違いが、美を巡る悲劇を生み出す。
そして、その悲劇を滑稽に描いたのが、この映画「サブスタンス」だ。もし美が国家と結びつくと、必然的に美の規範が生まれる。つまり、“これが正しい美”というものを国家は国民の統治に利用しようとする。すると、エリザベス=スーのような悲劇が生じる。美というものは、多様であって、人それぞれに美は存在する。そのように、美を多様性で捉えると、老いも、そこまで否定されるものではなくなると思われる。

映画「サブスタンス」 10m22s エリザベスの背中 UNIVERSAL STUDIOS