狂気により成り立つ大衆芸能ヒット作と、モラルを重んじる芸術家の売れない芸術

映画「ブロードウェイと銃弾(原題:Bullets Over Broadway)」を観た。

この映画は、1994年のアメリカ映画で、映画のジャンルはバック・ステージ・コメディだ。

この映画は、アメリカのブロードウェイという演劇を行う有名な劇場の公演にまつわる映画だ。この映画の主要な登場人物は、主人公の劇作家デビッド・シェーンと、デビッドが書いた演劇に出演する過去の栄光を持つ大女優ヘレン・クレンシアと、デビッドの劇に出資するギャングのボスのニックの用心棒チーチと、チーチが護衛と言いつつ動向を見張っているチーチの所属するギャングのボスのニックの愛人オリーヴ・ニールだ。

この映画「ブロードウェイと銃弾」を簡単に言ってしまえば、ブロードウェイというアメリカの大衆芸能の頂点で成功することについての映画だ。この映画の冒頭で、映画のプロデューサーのマルクスが、主人公の劇作家デビッドに言うことがある。

「重い芸術作品をやりたいなら、グリニッジ・ヴィレッジのカフェでやれ!! ブロードウェイで公演するなら、劇が黒字にならないと意味がない」と、マルクスは、主人公の劇作家デビッドに言う。

グリニッジ・ヴィレッジとは、別名でビレッジと呼ばれるニューヨークの下層の人が集まるマンハッタンの西側の近辺のことだ。北は14番通り、東はブロードウェイ、南はハドソン通り、西はハドソン川に接している。

グリニッジ・ヴィレッジは、セブンス・アベニューの西のウェスト・ヴィレッジ、グリニッジ・ヴィレッジの北西のミートパッキング地区から成っている。グリニッジ・ヴィレッジという名前はオランダ語のGroenwijckから来ていて、意味は“緑の地区”だ。

20世紀、グリニッジ・ヴィレッジはアーティストの天国として知られ、ボヘミアンの首都で、現代のLGBT運動の発祥の地で、東海岸のビート・ジェネレーションそして、1960年代のカウンターカルチャーの生まれた場所だ。要は、家賃が安いグリニッジ・ヴィレッジに、お金がない売れない芸術家、お金がない芸術家の卵が集まっていた。

グリニッジ・ヴィレッジは、ワシントン・スクエア・パーク、そしてニューヨーク大学、ニュー・スクールという2つの私立大学を含んでいる。つまり、グリニッジ・ヴィレッジは、貧乏人と、インテリと、芸術家の街だ。

20世紀半ばより、地域の高級化が起こって、お金がない芸術家たちは、ソーホーやトライベッカへと流れて行った。(以上、グリニッジ・ヴィレッジに関する記述はWikipediaのGreenwich Village(英語版)、グリニッジ・ヴィレッジ(日本語版)より 閲覧日2023年11月11日)

まだ、家賃が安かったころのグリニッジ・ヴィレッジは、芸術家たちのたまり場で、その地区にあるカフェでは、芸術について芸術家たちが語り合っていた。その議論の中には、本物の芸術とは何か? という語りもあったのかもしれない。

この映画「ブロードウェイと銃弾」の中で、グリニッジ・ヴィレッジの芸術家たちがカフェで、ヴァン・ゴッホエドガー・アラン・ポーも、本当の芸術家たちは死んでから売れたと、売れない芸術家こそ本当の芸術家だという、自らの売れない芸術家としての立場を擁護する語りをしているシーンがある。

そのような、グリニッジ・ヴィレッジの対極にあるのが、グリニッジ・ヴィレッジの東に位置するブロードウェイだ。華やかで、お金が集まるのが、ブロードウェイだ。グリニッジ・ヴィレッジが、売れない真の芸術家たちが集まる場所なのに対して、ブロードウェイは芸術、特に演劇で成功した人たちが集まる場所だ。グリニッジ・ヴィレッジの住人に言わせれば、ブロードウェイは、客の魂を変えることより、客のお金を集めることに特化した場所、ということになるのかもしれない。

そして、そのような華やかでお金が集まる場所であるブロードウェイの劇場の舞台裏で繰り広げられるのが、この映画の邦題「ブロードウェイと銃弾」だ。映画のタイトルの「ブロードウェイ」とは大衆芸能の頂点、そして「銃弾」とは、映画を観ているとわかるのだが、芸術家の芸術に対する狂気のことを示している。

この映画の原題「Bullets Over Broadway」は、直訳すると「ブロードウェイを超えていく銃弾」となる。これは、映画を観ていると、銃弾とは芸術家の狂気で、その狂気はブロードウェイの演劇の域を超えてしまった、つまり常軌を逸してしまった銃弾による演劇のための殺人を指しているのではないかと推測できる。

つまり、ブロードウェイ演劇に携わる者が持つ芸術に対する狂気が、この映画の中心となると仮定できる。その狂気とは映画を観ているとわかるのだが、簡単に説明すると以下のようになる。

劇作家デビッドの劇に参加することになったギャングのボスの愛人の女優のオリーヴには、用心棒のチーチが付いていた。チーチは、用心棒としてデビッドの演出する劇を観ているうちに、チーチの中に「こうしたらこの芸術家腐った劇は、大衆芸能として成功するのではないか」というもやもやが、沸き起こってくる。

それがとある機会に、チーチからデビッド達演劇関係者に伝わると、それまで大衆芸能としての成功とは遠かったデビッドの劇が生まれ変わるきっかけになる。デビッドはそれ以降、脚本を書くのをチーチのアドバイスのもとで行うようになり、ついには、直接チーチがデビッドの脚本に手を入れる。つまり、チーチは大衆芸能の天才で、デビッドの作った脚本は芸術家のための芸術作品だったということだ。

この話には続きがあり、その続きこそが、この映画の邦題・原題と直接的に関わってくる。それは、チーチがデビットの書いた脚本を手直しすることにより、チーチがデビッドの劇を自分の劇だと思うようになり、大根役者のチーチのボスのニックの愛人であるオリーヴを、自分の劇を台無しにする人物であると確信して、チーチはオリーヴを殺すことだ。

このチーチの大衆芸術に対する執着こそが狂気であり、それはグリニッジ・ヴィレッジの芸術家のために芸術を作る人たちとは一線を画していた。グリニッジ・ヴィレッジの芸術家たちの代表をデビッドと考えるなら。

デビッドは、芸術のために人を殺すのはいけないことだと、チーチがオリーヴを殺したことを責める。デビッドは、芸術は人を殺すのではなくて、芸術は人を救うものだと思っている。デビッドにとって芸術は人びとの救済だ。

大衆は人殺しによって成り立っているような大衆芸能のブロードウェイに金を出す。しかし、グリニッジ・ヴィレッジの芸術家は人を殺すような芸術を求めていない。そして、そのようなグリニッジ・ヴィレッジの芸術を認めているのは、デビッドの彼女のエレンのような人たちなのだ。