暴力の連鎖

映画「ルック・オブ・サイレンス(原題:The Look of Silence)」を観た。

この映画は2014年に公開された、デンマークフィンランド、フランス、ドイツ、インドネシアイスラエル、オランダ、ノルウェー、イギリス、アメリカの合作ドキュメンタリー映画である。

この映画の背景にはインドネシアの独裁政治とその後の民主化による独裁政権への糾弾がある。

1965年9月30日にインドネシアではある事件が起きる。その当時のインドネシア共和国の大統領はスカルノであったのだが、スカルノに不満を持つ急進左派の大統領親衛隊長ウントゥンを代表とする軍隊が、陸軍参謀長ら6将軍を殺害するというクーデターを起こす。

スカルノはこのクーデターの鎮圧にスハルトをリーダーとした右派軍隊を使う。このときスハルトは左派軍隊を攻撃するだけでなく、民間の左派とみられる人たちを、民間のいわゆるゴロツキから成るような青年団や殺人部隊を使って殺害した。

この事件の後、そのままスハルトは勢力を保ち、スカルノからスハルトへの権限移行が行われて、スハルトインドネシア共和国の2代目の大統領となる。

つまり左派の軍人がクーデターを起こしたため、右派の軍人がそれに対抗してこともあろうに右派の軍人は、民間人の中に左派を見つけ出し、その人たちを民間人に殺させたのである。(右派の軍人には左派の人たちがそれほど脅威に映っていたのだろう)。民間人にも左派と右派の違いを与えて、右派が一方的に左派を殺害していったのである。

殺された左派の人々は100万人以上にのぼると言われている。ここでいう民間の左派とは組合員や小作人、知識人である。軍隊が直接民間の左派とみられる人に対して行動を行うと問題になるので、代わりに民衆を民衆に殺させたのである。

この映画の主人公は、ジョシュアという撮影当時44歳である男性である。ジョシュアは1965年9月30日の事件を機に始まった大虐殺で兄のラムリを失っている。

映画中ジョシュアは、兄の殺害に関わった民間(当時の政権に関係した人物ではなく)の人々に会って、自分の仕事の雑談として当時の話を聞き出し「あなたは兄を殺したのですか?」と問いを投げかける。

その問いかけに謝罪の意思を示す人はほとんどいない。

映画中、民間の殺人部隊の一員の妻だけが「ごめんなさい」と謝るが、他の人々はインドネシアの暗い過去に向き合おうとはしない。ただただ事実から逃げようとするだけである。罪を犯したという事実を認めようとしない。

民間の殺人部隊の“英雄”たちは、当時の殺人の様子を“美談”として自慢げに語る。しかしジョシュアの兄ラムリを殺したという事実の確認となると黙る。誰も心の底から良いことだったとは思えないのである。

 

※右派軍人勢力と共産党、左派軍人勢力の間のバランサーとしてスカルノは求心力を持っていた。つまりスカルノは左派と右派のバランスを保つ人だった。しかし急進派の左派軍人たちがクーデターを起こす。そのクーデターの鎮圧のために反クーデター勢力としてスハルトを中心とする右派軍人をスカルノは使う。そのまま右派が国を支配する。左派軍人のクーデターを鎮圧するために左派軍人を使ったらどうなったか?左派軍人は急進左派軍人を責められなかったのか?クーデターを起こした急進左派は暴力的である。対する右派の軍人たちも暴力的である。暴力がさらなる暴力を呼び起こした。これは暴力による悲惨な事件である。

自由への脱走

映画「大脱走(原題:The Great Escape)」を観た。

この映画は1963年公開のアメリカ映画で、戦争(第二次世界大戦)で捕虜になった連合国軍兵士(つまりナチス・ドイツに捕虜として捕らえられている)たちの脱獄の様子を描いた映画である。

時は第二次世界大戦(1939年~1945年)中で場所はドイツ軍占領下のどこか(映画中には場所の名前は出てこない。映画の内容に示唆されるような実在の捕虜収容所としてはスタラグ・ルフトⅢ《捕虜収容所》がある)。そこに脱走常習犯の連合国軍の兵士である捕虜が大勢移って来るところから映画は始まる。

この映画の主要な登場人物は、バージル・ヒルツというアメリカ人捕虜兵士と、ロジャー・バートレットというイギリス人捕虜兵士である。この二人には違いがある。もちろん共通点もあるのだが。共通点は同じ連合国軍の兵士であり、脱走を何度もこころみて失敗を繰り返しているところ。この二人の違いは、所属する国もそうかもしれないが、ヒルツは単独行動で脱出をこころみようとするが(映画でははじめアイブスというスコットランド人と2人で脱走をこころみようとする。まるきり一人ではないが大集団ではない)、ロジャーはあくまで軍の作戦として集団で脱走しようとするところである。またヒルツと違ってロジャーは次の脱走をしたらゲシュタポ(ドイツ)に死刑にされるところも違っている。

ロジャーにとっての脱走はあくまで軍の作戦の一環である。敵国ドイツに捕虜として捕まった後も、ロジャーは軍人として生きて、多くの部下を率い、200人~300人を脱走させるという脱走計画を立て実行する。

一方ヒルツにとって脱走とは自由のための脱走である。自分個人の自由のためというのがヒルツにとっての脱走なのである。

ロジャーはあくまで国のため、軍のため、集団のために脱走しようとするが、ヒルツおいては自分の自由のためにという目的が優先されるのである。

映画中ヒルツは最初ただ二人での脱出に失敗して、その後ロジャーの指揮下の大脱走にスカウトされる。そしてヒルツもロジャーたちと一緒に脱走を実行する。

映画の最後ロジャーはドイツ兵に銃殺される。ヒルツはスイスとの国境の辺りでドイツ兵に捕まってしまう。

個人の自由を追求する姿勢と、国の勝利のために貢献しようとする姿勢。後者の方がドイツ軍にとっては危険なものとして映ったのかもしれない。国のためにではなく個人の自由のために戦うこと。それは国という存在の存続にとって思わしいものなのだろうか?ここでは人間としての生き方を考えるといいように思われる。

つまり国というのは個々人の快適な自由のための手段として用いられるべきだということである。よって、個人の自由の追求は他者の自由を侵さない限りは、許容されるべきなのである。ヒルツの生き様はそれを考える良い機会である。

非暴力による解放

映画「グローリー 明日への行進(原題:Selma)」を観た。

この映画は、アメリカ大陸(北部)で行われていた黒人差別と、その差別と闘うマーチン・ルーサー・キング・Jrを主とするアメリカ国民たちを描いた作品である。

1619年に北アメリカ大陸へ、アフリカ系黒人たちが労働力(主に畑仕事の)として奴隷として連れてこられてから、アメリカでの黒人たちの不遇の時代が始まる。

当初アメリカへ連れてこられた黒人たちは奴隷として白人経営者が経営する農場で働かされていた。1863年に奴隷解放宣言が行われてからも黒人に対するアメリカでの“扱い方”は酷く、この映画の舞台となる1965年当時もアメリカ黒人に対する人種差別は非常に厳しい状態だった。

アメリカでも特に黒人に対する差別が厳しいのがアメリカ南部であった。1965年にマーチン・ルーサー・キング・Jrたちがアラバマ州セルマからモンゴメリーへの行進を行った当時でも、このような行進が行われた理由からもわかるように、公然として黒人への差別、暴力が行われていた。

アメリカ黒人差別主義者たちが、特にアメリカ白人たちがアメリカ黒人に行っていた暴力にはすざましいものがある。黒人奴隷には充分に給料もなく、住む所も食べる物も粗末で、黒人奴隷が働かなくなると黒人奴隷を鞭で何度も打った。そして黒人奴隷を“購入する”にはお金がかかるため、農場主たちは黒人女性に無理にでも子供を生ませた。白人男性が黒人女性をレイプして子供を生ませていた。

1965年の黒人に対する白人たちの差別はどうだったのか?まず黒人と白人では座席の場所が違った。食堂もトイレもバスの座席も黒人と白人のものとがわけられていた。そして自由を求め行動する黒人に対しては、公権力である警察が平気で暴力をふるっていた。

黒人が奴隷として北アメリカ大陸に連れてこられてから300年半黒人に対するアメリカ白人たちの態度は一貫して否定的なものである。アメリカ白人の中には“黒人は奴隷として働かせるためにアフリカ大陸から連れてきたもの”でしかないのである。

映画中、ノーベル平和賞を受賞しているキング牧師の表情は常に険しい。電話や自宅はFBIに盗聴され、黒人解放運動の参加者たちは相次いで殺されていく。しかしキング牧師は非暴力という自分の信念を貫き、黒人の選挙権の獲得、しいてはそれによる黒人の自由と平等の実質的な獲得を目指して進んで行く。

セルマからモンゴメリーへの行進はテレビ中継され、それが世論を動かした。テレビを観た人々が黒人の解放運動に参加したのだ。

子供時代を忘れてしまう大人たち

映画「大人は判ってくれない(原題:Les Quatre Cents Coups)」を観た。

この映画は1959年にフランスで制作された映画であり、ある一人の不良少年の成り立ちについての映画である。この映画の原題を直訳すると「400回の殴打」となるそうである。では「400回の殴打」とは何を意味しているのだろうか?

この映画の中では、主人公の少年アントワーヌ・ドワネルが大人に殴られるシーンが何度か出てくる。アントワーヌは父親そして鑑別所の職員に殴られる。この映像が示していること、それはアントワーヌが大人たちに直接殴られたり、直接殴られると同様のような仕打ちを受けてきたことではないだろうか?

アントワーヌは周囲の大人たちに肉体的にそして精神的に痛めつけられているのである。アントワーヌの周りにいる大人たちは、正直な少年に対して冷たい仕打ちをする人ばかりだ。その代表がアントワーヌの父と母に現れている。

アントワーヌの父と母はアントワーヌに対して冷たい。アントワーヌには愛情が足りていない。アントワーヌは映画が好きで、時折両親はアントワーヌを映画に連れて行ってくれるが、それは一時の気休めでしかなく、父と母はアントワーヌを邪魔ものとして扱う。

その結果としてアントワーヌは家出をすることを選び、生活するお金欲しさに泥棒をする。愛情が足りないがゆえに家出の道を選ばざるえなかったアントワーヌ少年に対して、父と母は言う。

父「アントワーヌを少年鑑別所に入れてくれ」。母「アントワーヌをもっと怖がらせて」。

アントワーヌは鑑別所の中で女医から受けた質問に対してこう言う。「本当のことを言っても信じてもらえないんだ」。アントワーヌの口から出た本音である。

このアントワーヌの言葉を聞いた母親は何というか。「あなたは親に対して何てことを言うの!!反省しなさい」である。

ある時母親はアントワーヌに「作文がうまくいったら、1000フランあげるから作文を頑張って書いて」と言う。するとうれしくなったアントワーヌは良い作文を書こうとして小説家バルザックの「絶対の探求」を暗記して、それを作文として学校で書く。

するとそれを読んだ学校の先生はこう言う。「これはただの盗作だ」。アントワーヌはバルザックの文学の中にある光をみつけたようで、バルザック肖像画を飾りそこに蝋燭の火を灯す。するとそれが原因でボヤが起きる。

当然父と母は理由も聞かずにアントワーヌを怒鳴りつける。アントワーヌは「盗作」という概念を知らなかった。火事騒ぎを起こしたくて起こしたのではない。アントワーヌは「世界の危険」に対して無知だっただけである。ただ学習の機会に教えるべき大人たちが不在だったのである。

少年(もちろん少女も)は無限の可能性を持っている。そして彼らの成長には導き手となる大人が必要なのである。(半面教師ということもあるかもしれないが…)。

戦争の不条理さ

映画「史上最大の作戦(原題:Longest Day)」を観た。

この映画は1962年のアメリカ映画であり、第二次世界大戦のノルマンディー上陸作戦を描いた映画である。1944年、ヒトラー総督の率いるナチス・ドイツはその勢力を西ヨーロッパまで拡大していた。もう少し西には海を隔ててイギリスがある。

イギリスは当時、ドイツ軍による空爆攻撃を受けていた。ナチス・ドイツを放っておけば、イギリスはドイツ軍によって占領されてしまう。ドイツの勢力拡大を抑えようとフランス、イギリス、アメリカを主とする連合国軍は、当時ドイツの占領下にあった現フランス北西部のノルマンディーから上陸し、ドイツ軍に占領された土地を取り戻そうとしているのであった。

アメリカ、フランス、イギリスを主とする連合国軍とナチス・ドイツを率いるヒトラーという図式がここにある。

映画で中心として描かれるのは、ノルマンディー上陸作戦の際に上陸したいくつかある海岸のうちのオマハ・ビーチと内陸のサント・メールに降りた落下傘部隊の苦闘の様子である。

連合国軍の兵は300万、ドイツ軍の兵は50万である。連合国軍の方がはるかにドイツ軍を上回る数の兵を持っている。しかし、上陸作戦はその2ヶ所(オマハ・ビーチとサント・メール)で苦戦していたのである。

ドイツ軍はノルマンディー上陸を予想していなかった。ノルマンディー作戦が行われた6月5日から6月6日にかけては悪天候であり、しかもノルマンディーはイギリスからヨーロッパ大陸へ隔てる幅が広く、ドイツ軍はイギリスから最も近い海岸があるノルマンディーよりももっと北の方にある海岸から連合国軍は攻めてくると思っていたのである。

ドイツ軍の不意を突いた連合国軍はオマハ・ビーチとサント・メールで苦戦するも上陸作戦は成功する。「史上最大の作戦」というタイトルから士気高揚のための戦争賛歌映画を想像してしまいそうになるが、この映画の戦争の描かれ方は暗い。

ドイツに占領された旧フランス領ノルマンディーの海岸一帯に連合国軍が軍艦から集中砲火をあびせるシーンがある。当然ノルマンディーには反ドイツの親連合国である住人もいる。映画中では、その人の家に連合国の砲弾が降り注ぐのである(映画中その人物の生死は描かれない)。

まさに戦争である。敵も味方もあったものではない。戦争では大多数の命と引き換えに少数者の命が平気で排除されてしまうのである。連合国軍の兵士がオック岬のドイツ大砲台を目指して死にもの狂いで進んで行くが、大砲などどこにもありはしないと分かる。“大砲があるかもしれない”という囮のための無駄死にである。

愛に狂った男

映画「気狂いピエロ(仏題:Pierrot Le Fou)」を観た。

この映画は1965年のフランス・イタリア合作映画であり、この映画の監督はフランスとスイスの国籍を持つジャン=リュック・ゴダールである。この映画はサスペンスの要素が少し入った恋愛映画である。

この映画の主要な登場人物はフェルディナン・グリフォンとマリアンヌであり、この映画の中で二人の恋は再燃し、そして終わりを迎える。

フェルディナンは文学(例えば詩)を読むインテリで、過去にスペイン語の教師をしたりテレビ局に勤めていたことがある。その恋人マリアンヌは、第三世界(この映画の場合アフリカ)を相手に商売をする売人の一味であり、過去にエレベーター・ガールや、テレビ局で働いていたこともある。

フェルディナンはお金目当てで妻と結婚したが、妻のことが好きになれず、仕事も辞めて悶々とした日々を過ごしている。フェルディナンは言う。「世の中バカばっかりだ!!」。そんなフェルディナンの元にフェルディナンの元カノだったマリアンヌが現れる。

再会したその晩に2人の恋は再燃し、マリアンヌが人を殺したことが原因となり、フェルディナンとマリアンヌは逃避行の旅に南仏へ行くことになる。

旅の序盤は仲良く過ごしていた2人だが、旅の中ごろになるとマリアンヌの方がフェルディナンに飽きてくる。マリアンヌは言う。「フェルディナンは本を読んでばかり、大切なのは生きることなのに」。マリアンヌの心はフェルディナンからどんどん離れていく。

マリアンヌはフェルディナンと5年ぶり再会して愛が再燃した時から、フェルディナンのことを「ピエロ」と呼ぶ。映画の終盤ではマリアンヌがフェルディナンに渡した自作の詩の中で、マリアンヌはフェルディナンのことを「気狂いピエロ」と表現する。マリアンヌにとってフェルディナンは頭がどうにかしたピエロのように哀れな男としか映っていないのである。

何故か?それはこの再燃した恋が偽りの恋だとマリアンヌは最初からわかっているからである。マリアンヌは自分の“兄”と呼ぶ本命の恋人のために、フェルディナンを商売の汚い取り引きに引きずりこんだだけなのである。

フェルディナンはマリアンヌとマリアンヌが兄と呼ぶ本命の男と闇の商売のお金を奪う。そしてマリアンヌは空港でフェルディナンと落ち合う約束をして去って行くが、マリアンヌはお金を持って“兄”と呼ぶ男の元へ行くのである。

フェルディナンはマリアンヌにとって愛されてもいないのに愛されていると勘違いをしている哀れな道化なのである。

映画中にフェルディナンは言葉を好むのに対してマリアンヌは感情で生きると出てくる。しかし事の成り行きを見てわかるように、女は感情的であるだけでなく同時に計算高くもあるのである。文学ばかりにのめりこむ男と違って。

互いが互いを必要としている

映画「ジェームス・ブラウン 最高の魂を持つ男(原題:Get on Up)」を観た。

この映画は、2014年制作の映画であり、この映画の主人公はファンクの帝王と呼ばれた黒人ミュージシャンのジェームス・ブラウンである。

映画の冒頭でいきなりジェームス・ブラウンはショット・ガンを車から持ち出して人前で発砲する。ジェームス・ブラウンといえば、ファンク・ミュージックの黒人ボーカリストとして有名なので、音楽の持つイメージと、ジェームス・ブラウンがショット・ガンを撃つ姿の間には深い溝があるように感じる。音楽のイメージとは愛と平和であり、銃からイメージされるのは戦争や殺人である。

ミュージシャンであるジェームス・ブラウンがなぜ銃を手に取ったのか?その理由は彼の孤独な生き方にあると、映画は観る者に語り掛ける。

ジェームス・ブラウンはアメリカのジョージア州オーガスタで幼少期を過ごしたとされている。そこでの生活は決して裕福なものではなかった。ジェームス・ブラウンの家庭は貧しく、ジェームス・ブラウンが幼い頃に母は家を出ている。そして、ジェームスを育てていた父もジェームスを身内の女性にあずけて軍隊へ入隊する。

父と母が居ず、金もない幼少期と少年期を過ごすジェームスのよりどころとなったのは、音楽だった。ジェームスの音楽の原体験は、父の歌う歌と教会で歌われるゴスペルだった。ジェームスの孤独を慰めてくれたのは音楽だったのである。

音楽を通じて信頼できる仲間も見つかる。その友達とはボビー・バードである。ボビーはジェームスが刑務所に居る時に親しくなった友達である(ボビーは刑務所に慰問公演して、実刑中のジェームスに出会った)。

ジェームス・ブラウンは強引なフロント・マンだった。バンドの練習も、バンドの音楽性も、バンドの給料もすべてジェームスが仕切っていた。強引な仕切りやで、ある時脱税の疑惑が持ち上がり、それがきっかけでバンド・メンバーのたまった不満が爆発し、バンド・メンバーは去って行った。

その際は残ってくれたボビーだったが、その後のジェームスの「お前は俺が居るから今の地位があるんだ。お前独りでは何もできない」という冷たい言葉にジェームスはボビーの元を去って行く。

父も母も友達もジェームスの元を去ってしまう。妻との仲もうまくいかなし、子供(テディ)は死んでしまう。ジェームスは一人孤独である。

映画のラスト、ジェームスは意地を張らずに友ボビーに対して歌う。「君なしでは生きてゆけない」と。映画ではジェームスとボビーとの出会いの時と同様、歌による合一で終わる。

映画中ジェームス・ブラウンがバンドのメンバー全員に「すべての楽器はドラムだ!!」と言うシーンがある。ジェームス・ブラウンの音楽の神髄はここにあるのかもしれない。