崇高さから解放されろ!!

 映画「セッション(原題:Whiplash)」を劇場で観た。

 この映画はプロのジャズ・ドラマーを目指す青年アンドリュー・ニーマンと、彼の所属する音楽学校で教師として勤めていたフィッシャーとの音楽を通じた戦いの物語である。

 ニーマンは全米屈指の名門校シェイファー音楽院に入学して、ドラムの練習をしている。しかしニーマンはバンドではドラムの主演奏者にはなれずに、主任ドラマーのための補助(ドラムのチューニング、譜面めくりなど)をする主任ドラマーのサポート役として、ジャズバンドに参加している。

 そんなある日ニーマンは、憧れの音楽教授であるフィッシャーのバンドに主任ドラムの補助として参加するように、フィッシャーから言われる。憧れの教授の元でドラムを演奏することができると喜んだニーマンだったが、フィッシャーはニーマンに対して鬼のような仕打ち(練習は午前9時からなのに朝の6時にスタジオに一人だけこさせる・テンポがズレているとニーマンの顔をビンタする・正ドラマーになれたニーマンにドラムの補助員としてライバルをあてがうetc…)をする。

 ニーマンは19歳の青年である。そんな仕打ちに慣れてはいなかった。特にニーマンはシェイファー音楽院に入っていることを自らの誇りとしているし、バードのようになりたいと(バードとは伝説的サックス・プレイヤー、チャーリー・パーカーのこと)ジャスに対して相当に入れ込んでいる。

 そんなニーマンに「お前はジャズ・プレイヤーとしてクズだ!!」と言うような音楽教授フィッシャーの態度は相当きついものであると言える。

 フィッシャー教授に「お前の演奏はクズだ!!」と言われても、ニーマンはしばらくは演奏を止めようとはしなかったが、とうとう我慢の限度を超えて、プロへの登竜門であるジャズの演奏会の演奏後に、ニーマンはフィッシャー教授に掴みかかってフィッシャーを押し倒す。

 その後ニーマンは学校を退学になり、フィッシャー教授は自らの生徒を練習という特訓で鬱状態に自殺に追い込んだという件で訴えられて学校をクビになる。

 一時期ドラムを叩くのを止めるニーマンだったが、偶然フィッシャーと再会し、ジャズのプロへの登竜門であるコンサートがあるからドラマーとして出ないか?と尋ねられてニーマンはオーケーする。

 しかし実際にコンサートに行ってみるとフィッシャーはニーマンに「俺を学校からクビにしたのはお前だろ」言い、事前にニーマンに知らせた曲とは違う曲を、ニーマンの知らない曲を演奏することになる。

 演奏の前にフィッシャーはこう言う。「スカウトマンはダメな演奏をした奴の顔を一生忘れない」。つまりダメなプレイをしたらプロとしての演奏者生命は尽きるということである。

 そこでニーマンはどうするか?ジャズの醍醐味である即興演奏をするのである。譜面なんてどうでもいい、俺はただプレイする。スカウトマンからの評価を恐れることなく、ニーマンは自身のジャズへの思いを演奏としてぶちまける。俺は裁かれることを恐れない、俺はこの肉体により演奏するのだと。

 

※主人公は始め偉大なる者になりたい、つまり偉大なるものと一体化したいという強い願望を抱いている。それを叩き潰すのが鬼教授である。つまり主人公の思う崇高なものである教授が、自身と自身の背後にある(バードやバディ・リッチ)崇高なものに対する彼の憧れを叩き潰すのである。

 つまり教授は自身の中に崇高なものを主人公が見ていると感じ取ると、その崇高さを叩き潰そうとするのである。主人公が崇高なものを見つけそれに近づきたいと思うと、その崇高さを教授が叩き潰す。その繰り返しがこの映画である。

 崇高な尊厳との一体化を潰して、また崇高さを発見させて崇高さを目指させることにより、試行錯誤させているのである。ここには、枢軸国的尊厳観と連合国的尊厳観との混合が見られる。枢軸国的尊厳観使って鍛え上げ、最後に連合国的尊厳観に閃く。

 

※プレーヤーのジャズの演奏を崇高だと“評価する(裁く)”のは教授、観客、スカウトマンなどである。とすればスカウトマンや音楽教授に見限られても、プレーヤーは観客に訴えることができる。しかも観客は素晴らしい演奏に対しては常に開かれている。演奏が素晴らしければ無名であっても歓迎する。しかも観客はスカウトマンほど執念深くなく忘れっぽいだろう。よってプレーヤーは何度でも観客に向かってプレイすればいいのである!!