苦難の時にこそ歌う

映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク(原題:Dancer in the Dark)」を観た。

この映画はビョークという世界的に有名な女性ミュージシャンが主演を務めた2000年制作のデンマーク映画である。映画の舞台はアメリカ合衆国の田舎町である。主人公のセルマ・イエスコヴァはジーンという息子と共に、ビルとリンダ夫婦の家にあるトレイラーの中で暮らしている。

セルマには年上の女友達であるヴァルダと、セルマを慕うジェフという知り合いもおり、又セルマはアマチュアのミュージカルに参加している。

セルマはチェコからの移民であり、工場勤めと内職をしているが、トレイラー暮らしで家計は苦しく、その上遺伝性の病気を持っている。それは目が見えなくなるという病気であり、遺伝性の病気のためにセルマの息子ジーンにもその病気は遺伝している。

そもそもなぜセルマが移民としてチェコから移り住んできたかというと、アメリカでその遺伝性の病気の手術をするためである。この映画の設定上、チェコにはその病気を治すための医療技術がないということになる。

セルマは息子だけでも失明という状況から救おうとお金を貯めている。しかし、そのお金は、トレイラーの持ち主である警官のビルに盗まれてしまう。セルマは衰えつつある視力の中で、お金を取り戻そうとするが、その際にビルともみあって、またビルの、借金と消費癖を持つ妻を持つことへのプレッシャーからの死にたいというビルの願望もあって、セルマはビルを殺してしまうことになる。そしてセルマは刑務所に入り、死刑の判決を裁判で受けて、絞首刑になる。

この映画のタイトル「ダンサー・イン・ザ・ダーク」とは、暗闇の中で踊るミュージカルのダンサーのことをいっていると思われる。暗闇の中でとはどういうことか?それは失明をして真っ暗になってしまったセルマの視界のことである。

セルマはミュージカルを心から愛している女性である。趣味でミュージカルのサークルに入り、映画館に入っては白黒映画のミュージカル映画を観ている。セルマは自身の苦しい状況を音楽に、特に歌の力で乗り越えようとする。

セルマは辛い工場での労働や、ビルの殺人、失明、絞首刑といった自分の人生における危機のショックを、自ら歌う歌によって和らげていく。セルマは音楽が生んだ子のようである。セルマは周囲の音をヒントに自ら音楽を作り出す。

工場のインダストリアルな音、人間が歩く時にする足を踏み鳴らす音、刑務所の通気口からする音、そして死を前にした静寂。それらの中でセルマは音楽を鳴らす。自らの持つ声を武器として。

セルマは、視界は奪われたが、音は自らの中に保つことができた。そしてその歌を彼女は死の直前まで歌うのである。セルマは言う。「ミュージカルのエンディングの歌は嫌いなの」。彼女は首を縄でくくられながら、最期の時にも「これは終わりから2番目の歌」と歌った。セルマが嫌うミュージカルのエンディングの歌とはどんな歌を指しているのだろうか?

アブラハムの犠牲

映画「未知への飛行(原題:Fail Safe)」を観た。

この映画は1964年のアメリカ映画で、米ソ冷戦という状況の中高まっていた核戦争の危機を描いた映画である。この映画の中では主にアメリカ大統領とアメリカ空軍そしてソ連側の代表者が描かれている。

第二次世界大戦後アメリカとソ連は、共に大きな軍事力を持ち、世界を西側(アメリカ側)と東側(ソ連側)に分けて勢力争いを、アメリカとソ連の直接対決という形には示さずに、表面上には出ない水面下で行っていた。この直接的ではない間接的な戦いを指して冷戦という。

アメリカとソ連は軍事力で拮抗していた。共に当時最強最悪の兵器であった核爆弾を、米ソ共に持っていたのである。核による戦争とは、その殺傷能力から考えて、人類滅亡の戦争である。核戦争によって世界は焼き尽くされるだけでなく、放射能によって汚染される。核戦争の起きた世界はとても人間が生きていけるような環境ではない。

この映画では核爆弾は飛行機に設置されている。広島、長崎の時のように目的地上空から核爆弾を落として、都市を壊滅させるのである。

この映画の設定時代は1945年以降(映画制作は1964年)であり、広島、長崎の時より科学は進歩(?)しており、核爆弾もその殺傷力をより巨大にさせた水爆に代わっている。映画ではアメリカ軍の機器故障とソ連による通信妨害により、水爆を積んだ爆撃機がモスクワへ水爆を落としに行く。

アメリカ側もソ連側も何とかしてその爆撃を阻止しようとするが、上手くいかない。そしてアメリカの大統領はソ連との立場の公平さという点から、もしモスクワに水爆が落ちてしまった時は、アメリカ軍自らがニューヨークに水爆を落とすという決定をする。この決定をアメリカ大統領は聖書の中の「アブラハムの犠牲」を用いて表現をする。

アブラハムは、ようやく妻との間に授かった息子を神のために捧げろと、神に命令された。そしてアブラハムは愛する息子イサクを神に捧げようとしたのである。

この映画で述べられる「アブラハムの犠牲」とは、自らが信じる生と死の公平さのために国民の命を捧げるという犠牲のことである。愛するものを絶対的な存在者のために捧げるのである(この場合絶対的存在者として捧げものを受け取るのはソ連か?それともアメリカとソ連が神に対して両国の国民という捧げものをしているのか?)。

しかし、その決定は正しいのか?それは神のみぞ知ることであろう。人間の判断は絶対的な事実の前では単なるごみ屑に過ぎない。神は人間の思惑を超えたところに存在するのである(つまりこの場合、アメリカとソ連は神におのおのの国民を捧げたことになる)。「アブラハムの犠牲」とは、限界の状況に来た時、神に救いを求めて非合理的な決定をしているようにしか見えないのだが。

世界の終わりに対する執着

映画「博士の異常な愛情または私は如何にして心配することを止めて水爆を愛するようになったか(原題:Dr.Strangelove or :How I Leaned to Stop Worrying and Love the Bomb)」を観た。

この映画は1963年に制作され、1964年に公開されたアメリカ・イギリス合作の映画である。この映画の背景には冷たい戦争と言われた米ソ冷戦がある。

第二次世界大戦後世界は西側(アメリカ、イギリス等)と東側(ソ連等の共産主義国)との冷たい対立が続いていた。この映画は西側と東側の国家間の核兵器によるにらみ合いという、当時の現実をブラック・ユーモアたっぷりに描いた映画である。

この映画は世界が核戦争に陥るまでを描いており、映画中世界を恐怖に陥れるのはアメリカ側の2人の男である。1人はアメリカ空軍のジャック・リッパー将軍であり、もう1人はアメリカ政府お抱えの科学者ストレンジラブ博士である。

リッパー将軍は、アメリカ空軍の基地の中でクーデターを起こし、アメリカのソ連へ向けた核爆撃戦闘機を発進させる。ストレンジラブ博士は、核よりも強い抑止力である「皆殺し装置」を発案した科学者である。ストレンジラブ博士の「皆殺し装置」とは巨大な水爆のことである。

リッパー将軍はストレンジラブ博士が作ったコンピュータにより完全にオートマティックに作動する「皆殺し装置」を実行に移させるきっかけを作るのである。

ストレンジラブ博士は映画中にこの装置を抑止力のために作ったと公言するが、映画のラストに水爆が使われることになると、世界の破滅に嬉々としている。ストレンジラブ博士は「皆殺し装置」が作動することを望んでいたのである。

「皆殺し装置」が作動してしまったらどうするのだと尋ねるアメリカ大統領に対して、ストレンジラブ博士はこう言う。「人類のうち10万人ぐらいなら炭鉱などの地下1000メートルに住むことができる。人口は足りないかもしれないが、1人の男に20人の妻を与えて子供を増やせば問題ないよ。だから選ばれる女性は性欲をそそる美人がいいですよ」と。

ストレンジラブ博士は実際に水爆が爆発した後のシナリオまで考えていたのである。ストレンジラブ博士には世界崩壊後のシナリオがあった。つまりそのような未来を予想していたのであり、世界崩壊後のプラン作りも博士は喜んで行っているのである。

水爆が抑止力になるなんて嘘もいいところである。水爆の爆発が決定的になると、博士は座っていた車椅子から立ち上がりこう叫ぶ!!「総統歩けます」ドイツ人であるストレンジラブ博士は機能を回復し立ち上がる。新しき総統=アメリカ大統領を前にして。

神は気まぐれ

映画「アルゴ探険隊の大冒険(原題:Jason and the Argonauts)」を観た。

この映画は1963年のイギリス・アメリカの特撮映画で、ギリシア神話のアルゴナウタイを元に描かれた映画である。アルゴナウタイとはギリシア神話の長編叙事詩に登場する英雄たちの総称(ウィキペティアより)である。

英雄たちが、そのリーダーであるジェイソン(ギリシア名:イアーソン)に率いられて巨大なアルゴー船で旅をする話である。アルゴーの船員=アルゴナウテースという単数形の表現からアルゴーの船員たち=アルゴナウタイという言葉が導かれる。アルゴナウタイとはつまり、アルゴー船に乗って旅をする英雄たちのことである。

この映画で描かれる物語はアルゴナウタイが、黄金の毛皮を獲得するという目的でコルキスという国へ旅をするというのが大筋である。アルゴナウタイのリーダーであるジェイソンはアリスト王の息子であり、姉と妹と両親をペライアスによって殺された過去を持つ。

ジェイソンは再び自らが王となる思いを抱き、王になるためには民を魅了する奇跡が必要で、その奇跡を起こすには黄金の(羊の)毛皮が必要であると語る。現にその黄金の(羊の)毛皮を持つ国コルキスは繁栄しているのである。

ジェイソンは船に乗ってコルキスに旅立つことを決意するが、その仲間には競技をした勝者を選ぶことにする。そしてその勝者たちの中には自らの王アリスト王を殺したペライアスの息子アカスタスも含まれている。

ジェイソン一同はブロンズ島で、テイロスの銅像と対決し、フリジアで目の悪いフュニアスを怪鳥から助け、ほえる岩と呼ばれる岩が滑落してくる海を挟み込む岩場を神の息子の助けにより通り抜け、アカスタスの裏切りにあい、コルキスの地でその国の王と王が操る魔物と戦う。

その試練を助けるのは、神の妃であるヘラと、女神ヘカーテに使える女官メディアである。ジェーソンが危機になると女性が決まってジェイソン一行を助けるのである。

この映画は神の世界にいる神々が、英雄と人間の世界を見下ろしているという構図をとる。救いをもたらすのは神であり、災いをもたらすのもまた神なのである。

ゼウスの妃であるヘラがこう尋ねる。「なぜあなたは罪を犯している人を見逃したり、見逃さなかったりして、不公平なの?」と。ゼウス(神の中の神)は答える。「たまに罪を見逃してやると寛大だと思われるだろ」と。

つまりすべての決定は神の気分次第ということである(いつも見逃す神の方が寛大だが、それだと神の存在感が薄くなるとでもいうのだろうか?)。ジェイソンは言う。「神は残酷だ」と。その通り、神はその下々の者にとっては不合理極まりない存在なのである。神は気まぐれなのである。 

介護と精神的疲弊

映画「たたり(原題:Haunting)」を観た。

この映画は1963年のアメリカ合衆国の映画で、丘の家という幽霊屋敷とその屋敷に集まった4人の男女(男2人、女2人)とその屋敷の管理人の夫婦等を描いたホラー映画である。

この映画の主人公は、エレナー・ラーンスという中年の女性であり、エレナーは独身の女性である。エレナーは何故独身なのか?ただ一人でいたいからなのか?映画の製作された時代背景と、映画の中のエレナーの状態からエレナーは望んで独身でいるのではないように思われる。

エレナーたち3人を屋敷に呼び寄せるのはジョン・マークウェイという人類学の学者である。そしてジョンは、丘の家と呼ばれる屋敷に伝わる悲劇に興味を持ち、その悲劇の起こされた世にも不思議なものに惹かれているのである。ジョンはそれを「超自然現象(スーパーナチュラル)」と呼ぶ。

エレナーが独身でそれを好んでいるわけではない理由は、エレナーがジョンに好意を寄せることから何となく察せられる(当時の女性にとって結婚は死活問題だった)。エレナーが独身でいた理由とは何か?それは母親を11年間つきっきりで看病していたからである。そしてエレナーは介護の疲れから精神的にまいってしまっているのである。

映画中エレナーは自らの母の最期をこう語る。「母はいつも壁を叩いて、私を呼んだ。母が死んだ日も母は私をそうして呼んだの。しかし私はその日は母の元へは行かなかった」。つまりエレナーは母の介護に疲れ切っていたのである。

エレナーの聞いた壁を叩く音は幻聴だったのではないのか?映画中、幽霊屋敷で超自然的なものがエレナーたちのいる部屋の壁をドンドン叩く音が聞こえるシーンがある。それはエレナー以外の人にも聞こえているのだが、明らかにエレナーが特にその“壁を叩く音”に異常に反応する。その様子は、エレナーが正気でないこと、エレナーが幻聴を聞いているような印象を与える。確かではないが。

映画の終盤エレナーは「あの壁を叩く音は私を呼んでいる音だわ!!」と言い、過去に悪い出来事が起こった屋敷の部屋に、おしかけてきていたジョンの妻を助けに行くシーンがある。

そしてそのシーンの後にエレナーは自分と敵対していると思っていた屋敷が、自分と一体となったと感じる。つまりエレナーにとっての“壁を叩く音”とは“エレナーを呼ぶ母が壁を叩く音”だったのである。

エレナーは壁を叩いて助けを呼ぶ者(前述のジョンの妻は夫の愛のなさに心の悲鳴を上げている)に反応して行動して、母を見殺しにしてしまったかもしれないという罪悪感から解放されたのである。

そしてエレナーにとって罪悪感の元となっていた“家”という存在と和解し、エレナーは再び自分にとっての家を見つけることができたのである。エレナーは家つまり家族によって疲労させられ、罪を着せられた後に、再び家に戻れると思った直後に死ぬことになる。エレナーにとって家に戻るとは再び従属することを意味するのだろう。エレナーは死という不幸な解放を得たのである。それは喪失でもあるが。

古代の儀式と現代的合理性

映画「血の祝祭日(原題:Blood Feast)」を観た。

この映画は1963年のアメリカ映画で、スプラッター・ムービーの元祖的存在の作品であり、監督はハーシェル・ゴードン・ルイスである。この映画はアメリカ合衆国のとある一時期に起こる連続殺人を描いたものである。

連続殺人の犯人はフアド・ラムセスという「古代宗教儀式」という架空の本の著者である老人であり、このフアド・ラムセスが古代宗教の儀式にのっとって殺人を犯していくのである。

映画中、血が飛び散るシーンが多い。これがこの映画をスプラッター映画と呼ぶ原因だと思われる。そして血が飛び散る殺人シーンの殺害者役となっているのが、フアド・ラムセスという老人である。

フアド・ラムセスは“ラムセスのエスニック料理サービス”という店を営んでいる。ラムセスは「古代宗教儀式」という架空の本の著者であり、ラムセスはこの本が欲しくてラムセスの元に住所と電話番号を記してくる若い女性の元へ、殺人へ行くのである。

「私は『古代宗教儀式』という本が欲しいんです」と手紙に住所と電話番号を書くと、そこに本と殺人者が届くというわけである。

ラムセスは何の宗教についての本を書いたのか?それは古代エジプトの宗教儀式についての本であると映画中の出来事から推測される。古代宗教儀式についての網羅的な本がこの「古代宗教儀式」という本で、その本の一部にきっとエジプトの古代宗教儀式に関する記述があるのだろう。

ラムセスは古代宗教儀式を行っている。だがその儀式は生贄を必要とする儀式で、現代行えば犯罪に当たるのである。人の生贄(この映画では若い女性)は古代では慣習に沿って受け入れられているものだが、現代の法では明らかな異常行為、犯罪なのである。時代が変わると人間の考え方も全く変わっていくものだと感じさせる。

ラムセスが心酔しているのは、メソポタミア神話に登場するイシュタルという女神である。この女神は性愛、戦いの女神であり、出産、豊穣につながる女神でもある。性愛の女神であると同時に、勃起不全などの性愛の不具合を象徴する女神である。

ここでは出産、豊穣に注目したい。儀式のために流される多量の血は「金枝篇」を思い起こさせる。儀式のために流される多量の血とは水のことであり、豊穣のために必要なものとされる。

出産とは新しく生まれることであり、人間が死に新しく生まれてくるというような「金枝篇」の記述を思い起こさせる。又、犠牲となるものを食べるという行為は、生けるものの若さを自身のものとしているようである。古代の儀式というのは何ともおぞましいものだ。

「母の求めている私」と「理想の私」

映画「わたしに会うまでの1600キロ(原題:Wild)」を観た。

この映画は2014年にアメリカで公開されたロード・ムービーというよりウォーキング・ムービーである。この映画の舞台となるのは、アメリカ合衆国にある長距離自然歩道(The Pacific Crest Trail/パシフィック・フレスト・トレイル/略称PTC)である。

Pacificは「太平洋の」を意味し、crestとは「頂上」を意味し、trailとは「痕跡」を意味する。要するにPTCとは、太平洋沿いにある山の頂上を通って行くような道の跡のことである。PTCはアメリカのメキシコとの国境から北へ向かって、アメリカのカナダとの国境への長い道のことである。

この映画の主人公シェリル・ストレイドはたった一人でこの長い道を歩いた実在の女性である。この映画の原作はシェリル・ストレイド本人が書いた自叙伝である。

シェリルが幼い頃にシェリルの母ボビー・グレイは娘シェリルと息子リーフを連れて父親の元を去っている。何故か?それは父親の暴力が原因である。シェリルの父は酔っぱらって家族(特に母ボビー)に対して暴力を振るうような父親だったのである。

シェリルは母ボビーの手によって育てられることになるが、そんな母も病気のために、シェリルが20代のうちに死んでしまう。シェリルは母親の病気のショックのためか、行きずりの男とのセックスを繰り返し、ヘロインに手を出してボロボロの状態になる。

そんなギリギリの状態からシェリルを救い出してくれたのは元夫のポールだった。しかしシェリルの心の問題はそんなに簡単に解決しない。シェリルにとって父の暴力と父の不在、そして母の死はとても大きな陰をシェリルに落としていたのである。

この映画に映し出されるのは自然と、踏みならされた、時には未踏の道を歩く人間たちの姿である。シェリルは同じようにPTCを歩いている人々と時に触れ合いはするものの、ほとんど大半の時間を一人で歩きながら、時にはテントの中で過ごしている。

歩いている最中は自分で自分の頭に浮かび上がってくる思いや音楽や思い出などと共に過ごしている。シェリルは「母が求めていた私」になるために4年7ヵ月3日の旅をすることになる。

旅の終わりのシェリルの所持金は20セントである。シェリルは苦悩の最中に言う。「昔の私は母の望んでいる私だったのに、今の私は母の望んでいた私じゃない」と。ドラッグとセックスにおぼれて確固たる自分の姿をシェリルは見失っていたのかもしれない。

ドラッグは現実感を薄れさせるのだろうし、複数人とのセックスは自身の中の自分像を曖昧にするのかもしれない。「母の求めている私」であることは、シェリルの精神状態を安定させるために必要なものだったのだろう。「母の求めている私」はシェリルの理想の自分と等しいものになったのだろう。