支配からの自立

映画「フォックスキャッチャー(原題:Foxcatcher)」を観た。

この映画は2014年にアメリカ合衆国で製作された実話を基にした映画である。この映画の題材となっているのは1996年に起きたデイヴ・シュルツ殺害事件である。

この映画の主要な人物は4人いる。レスリングで兄弟そろって金メダルを獲った、兄のデイヴ・シュルツと弟のマーク・シュルツ、そしてその2人を含むアメリカを代表するレスリング選手たちのスポンサーを務めるジョン・イーグル・デュポンと、その母である。つまり2つの親族が中心となって描かれているのがこの映画なのである。

シュルツ兄弟は幼い頃に両親が離婚をして、ギリギリの生活をして大人になっている。デュポン家は母子関係が良くなく、母親は息子のことを良く評価しようとしない。シュルツ兄弟の弟のマークは兄のコントロールから抜け出すことができていない。兄デイヴの強いコントロールのせいか、弟のマークの精神状態は不安定である。映画中のマークは誰かに依存していないと生きていけないように見受けられる。

一方、デュポン家の息子であるジョン・イーグル・デュポンは母親の影響下から抜け出すことができていない。従順な息子ジョンに対して母親はこう言う。「私はレスリングは下劣な競技だと思うわ」。この言葉にジョンは強く反応しているようである。

ある時ジョンがレスリング・チームに指導している姿を母親が見学に来る。ジョンはレスリング・チームのメンバーに自らがレスリングを指導する姿を母に見せて、好意的な評価を貰おうとする。

しかし、母親はジョンがレスリングの型の実践をしている姿を見ると顔を歪めて出て行ってしまう。ジョンはただ母親の肯定的な評価(「あなたは偉いわ」「あなたは頑張っているわ」)が欲しいだけなのに。母親がその一声をかけることはない。

この映画の中には2人の支配者がいる。1人はマークに対するデイヴであり、もう1人はジョン・イーグル・デュポンに対する母である。コントロールする方は全能感を味わえるのかもしれないが、コントロールされる方はそう楽ではない。支配者の規律によってがんじがらめにされるのだから。

ところで、レスリングと上流階級の行うフォックスキャッチャー(要は“キツネ狩り”)とどっちが野蛮なゲームなのだろうか?レスリングは基本的に体と体のぶつかり合いである。しかしキツネ狩りは、一匹のキツネを馬や犬で追い回す、ただの弱いものいじめにしか見えない。確実に強いものが、確実に弱いものを狙うゲームである。どっちが勝つかは明らかである。

過剰なコントロール

映画「影なき狙撃者(原題:The Manchurian Candidate)」を観た。

この映画は1962年に公開されたアメリカ映画で、世界が東側と西側に分かれて、冷たい戦争を行っている最中に作られた、東西冷戦の一つの出来事である朝鮮戦争を背景に持つ映画である。

映画の原題である“The Manchurian Candidate”とは「満州の志願者」というような意味である。この映画に登場する満州とは中国の東北部を指すものと思われる。映画のアメリカ兵たちは、中国東北部(満州)で東側諸国により洗脳される。

東側諸国は、西側諸国の支配を望んでいる。東側諸国は洗脳されたアメリカ兵の一人レイモンド・ショーの母親を使って、アメリカ合衆国の大統領候補に、東側の操り人形となるような人物を送り込む。つまりそれが映画タイトルにあるCandidate(志願者、候補者)である。

つまり映画の原題のThe Manchurian Candidateとは、中国東北部満州に集結するような東側の指導者たちが送り出してきた、アメリカ合衆国(もちろん西側)の大統領候補のことを直接には指していると思われる。

この映画の実質的な主人公は2人いる。東側諸国に満州で洗脳されたアメリカ兵のレイモンド・ショー軍曹と、ベネット・マーコ大尉である。

2人とも洗脳されているのだが、レイモンド・ショーとベネット・マーコは精神を病みつつも、片方のレイモンド・ショーは精神が分裂したような男であり、もう片方のベネット・マーコは洗脳されつつもダークサイドと闘い、あくまでも自身の中の正義に忠実であろうとする男である。

レイモンド・ショーの分裂とは、アメリカ合衆国の一市民としての側と、東側諸国に洗脳された殺人マシーンの側との分裂である。レイモンド・ショーは自ら望んで殺人を犯すわけではないのである。ショーが殺人を犯すのは、東側諸国の陰謀のためであり、直接的には東側諸国の手先である母が、東側諸国の意向をショーに伝えるのである。

ショーは電話や母の「トランプ占いをしろ」という言葉により催眠状態に入る。ショーは自身のコントロールを失っているのである。

映画の途中で、ショーの恋人の父親であるアメリカ左派の人物が、ショーの母親がコントロールする大統領候補となる右派の人物に対して「あなたがたはソ連(東側のリーダー)よりも悪である」と言う。

実際に映画の中でショーの母と義父であるアイスリン議員は、東側のコントロールからも脱しようとする。というのも東側の手先であったアイスリン議員をコントロールしているショーの母が東側に反旗をひるがえすからである。

ショーの母は言う。「私たち親子を利用した東側に反逆するのよ!!」。母の強いコントロールからショーは抜け出すことができない。これはショーに対する母の過剰な抑圧である。そしてその母は、アメリカを裏切るだけでなく、東側を裏切る。ショーの母は自らを主人とする国家を作ろうとしたのである。その国が良い国になるかどうか、それは疑問である。

子供から大人への成長

映画「片目のジャック(原題:One-Eyed Jacks)」を観た。

この映画は1961年に公開されたアメリカ映画で、メキシコを舞台とした、ガンアクション、復讐そして、愛を描いた映画である。

この映画の主軸となるのはキッド(リコ)とダッドとの交友のもつれである。キッドとダッドの交友のもつれとは何か?それは2人の間の友情のダッドによる裏切りである。

キッドとダッドは2人でチームを組んで、悪事を働いては酒を飲んで女を抱いているような、俗にいうゴロツキの悪であった。ある時キッドとダッドはドックと3人で組んで、メキシコのソノーラという土地にある銀行を襲う。

3人は強盗という法を犯す行為をするために当然、警官隊に追われることになる。ドックは警官との銃撃戦で射殺される。残るのはキッドとダッドだけになる。2人は警官隊に追い詰められて、最後には小銃と、ショットガン一丁と馬一頭を持つのみとなる。

警官に追い詰められたキッドはダッドに言う。「くじをして勝った方が残った馬に乗って、馬を2頭連れてくるんだ」と。そしてキッドは両手に銃弾をつかみ、ダッドに「どっちの手に銃弾があるか?」を当てさせる。

つまりどっちをダッドが指しても当たりで、ダッドが馬を連れてくる役になる。しかし、キッドのこの期待も虚しく、ダッドは馬に乗って去ったまま帰ってこず、キッドは警官隊に捕まり、5年間ソノーラの刑務所に入ることになる。

そしてキッドはダッドに裏切られたことにより、ダッドに復讐を誓う。そしてキッドの復讐への執着と、復讐からの解放がこの映画の中で描かれる。

キッドがダッドへの復讐心を断ち切る元はどこにあるのか?それはここにある。復讐という憎しみとは違う愛を知ることによりキッドは復讐に満ちた心から解放されるのである。

キッドの知った愛とは何か?それはダッドの義理の娘であるルイザへの愛の目覚めである。キッドは当初ルイザのことをただのセックスの相手ぐらいにしか思っていない。キッドはルイザを口説くときに「俺は役人で、しばらくオレゴンに行って帰ってこれなくなるから、今セックスしよう」と言う。

そしてセックスが終わって夜が明けると、キッドはルイザにこう言う。「俺が昨日言ったことはすべて嘘だ。だから俺とはこれきりにしよう」と。しかしルイザはキッドへの思いが忘れることができずに、キッドに何度か会いに行く(ルイザはキッドの子供を妊娠している)。

ルイザの強い思いにキッドの心が開かれていく。「俺もまた誰かを信じてみよう」。キッドは復讐すれば心が解放されるという考えを捨てるに至る。ルイザの愛がキッドを開放するのである。愛による解放と包摂がここにある。

 

※字義通り、裏切るダッドとは“父”、裏切られるキッドとは“子供”である。子供であるキッドは父であるダッドのことを許すことができない。キッドが“大人”だったらこれは違う結果になったのかもしれない。ルイザの愛を知ることによりキッドは成長する。子供から大人になるのである。

女性の性欲は、誰にとって不都合か?

映画「草原の輝き(原題:Splendor in Grass)」を観た。

この映画は1961年公開のアメリカ映画で、映画の舞台は1920年代後半のアメリカで、主にカンザス州が映画の舞台となっている。

この映画の主人公は、ディーニー・ルニミスという女性と、バッド・スタンパーという男性である。「女性」「男性」と表記したが、この映画の始まりでディーニーとバッドは高校生であり、まだ男性性や女性性がしっかりと確立してない時期である。体は大人の状態に成長していくが、それと同時に心の葛藤が生じる年頃である。

この映画の中でジェンダー(社会的・文化的に形成された性別)やセクシャリティ(性行動の対象の選択や、性に関連する行動・傾向)の問題からピックアップして取り上げられるのは“性欲”に関する取扱い方である。

性欲の扱い方により社会の中でどのようなジェンダーセクシャリティが求められていたのか浮き上がってくるのである。

高校生の女の子であるディーニーは母親からこう教えられる。「結婚するまでセックスはしちゃだめよ!!」「性欲なんてものは無いものなの」「大人はセックスするけどそこに欲情はないの。ただの義務でセックスするだけなの」と。

高校生当時のディーニーはバッドというスポーツができて頭のいい少年と付き合っていた。そしてバッドと何度もキスするうちに、バッドのことを理解していくうちに、ディーニーの気持ちの中には抑えられない欲動が動くようになってくる。抑えきれない欲動とはつまり性欲のことである。

人間は幼い頃から性的欲求というものを持っていると考えられるが、思春期の若者に性的欲求というものは、少々厄介なものとして登場するという様子が、映画の中で描かれている。

性的欲望とはセックスをしたいという気持ちであるが、思春期とは大人のようで大人でない時期である。体は大人になっているのだが、社会的役割の中ではまだ子供である。

子供というものはどういうものであって欲しいと社会は思っているのか?それは、子供とは純粋無垢なものであって欲しいというのが、人々(大人も子供も)の願い、つまり強制である。少なくとも1920年代後半のアメリカ社会での強制的な規範であった。

女の子は優しくて、ひかえめで、セックスなんかしない。それはまさに家父長制にふさわしく作られた女性に対するレッテルである。女性に求められるのは、父の財産を受け継ぐであろう、男の子の子供だけを生むような役割である。婚外子なんてもってのほかである。そして成長期に、禁欲主義に主人公たちは悩み、苦しむのである。

 

※社会に未成年の親が子供をもうけた場合に、本人の人生をふいにせずに、大人として成長して生きていくための技術を本人につけさせるための、社会的サポートがあれば、十代のセックスも公認されるのではないだろうか?もちろん自らの財産の分散を招く妻の妊娠を防ごうとする、男性側の家父長的な社会観から脱することも大切だろうが。

同性愛が困難だった時代

映画「噂の二人(原題:The Children Hour)」を観た。

この映画は、1961年制作のアメリカ映画であり、この映画の原作は、1934年に作られた同名演劇である。この映画のメインで取り上げられるテーマは“同性愛というタブー”についてである。

“同性愛というタブー”と書いたが、この表現は現在の日本ではもう過去のこととなりつつあるのだろうか?

2015年6月26日アメリカ合衆国の連邦最高裁判所は、同性婚憲法上の権利として認めるという判断を示し、事実上アメリカ合衆国内全域で、同性婚が合法となった。

又、レインボーフラッグという、レズビアン、ゲイ、バイセクシャルトランスジェンダー(LGBT)の尊厳とLGBTの社会運動を象徴する旗についても報道で取り上げられた。アメリカ合衆国では、マイノリティである人々(LGBT)の声がアメリカの国民の心の元に届いたということなのだろう。

(憲法とは国民から政府への命令で、その憲法を根拠に国民が統治権力に自らの権利を奪い取られないように、同性婚は合法であると示したのである。この裁判所の判断により、いかなる統治権力も同性婚を妨害するような行為ができないということになる。そして憲法というのは、国民のものなのであるから、その憲法を根拠に同性婚を認めたというのは、国民の意思が憲法なのだから、国民の意思が憲法を認めたといっていいのである。{しかし実際にはアメリカにも同性婚に反対する保守のアメリカ国民がいるのだが。}要するに、憲法は統治権力への命令である。そしてその憲法同性婚は合法であることを守るように統治権力に命令しているのである。)

アメリカが同性婚を認める54年前の映画ではアメリカの同性婚はどう描かれていたのだろうか?それは単純に言ってしまうと、非常に厳しい状態に置かれていたというのが実情ではないだろうか?

この「噂の二人」という映画がそれをよく示している。ライト・ドビー女学校を主宰する、マーサ・トビーとカレン・ライトの2人がレズビアンであるという噂が子供たちの親たちの間に広がると、それまでは学校にいた生徒たちをすべての親たちがひきとりに来る。

2人は名誉棄損で裁判所に訴えるが、法廷では2人は“不純な”性行動をとっていたとされ裁判に負ける。学校の前には、男たちが乗ったピックアップトラックがとまり、2人の様子をうかがっており、ゆっくり散歩することもできない。

カレン・ライトの彼氏の職場の上司までもが、カレン・ライトの彼氏に向かってこう言う。「君自体は問題じゃないんだが、君の交友関係が問題だから病院を辞めてもらう」。“不純な”行動をとったことのある女性を恋人とする男性は問題なのである。

映画中、同性愛の傾向が強く表れるのが、マーサ・トビーという女性である。マーサは2人が“不純な”性行動をとったという噂を流したことを謝罪しに来た老婆に言う。「本当に救われたいのは私なの!!」と。マーサは重圧に潰される。

慈善的な態度から零れ落ちてしまう人たち

映画「ハスラー(原題:The Hustler)」を観た。

この映画は、1961年制作のアメリカ映画で、タイトルのハスラーとは、ギャンブルで相手にわざと負けておいて、相手が油断したのを見計らって、本来の実力を出してお金を相手から巻き上げる詐欺師のことである。

この映画の主人公エディ・フェルソンはハスラー、つまり詐欺師、よく言って勝負師の男である。

エディはストレート・プールというゲームの名人であり自分の腕に自信を持っている。ストレート・プールとは日本であまりなじみのない言葉だが、ゲームに使う道具はビリヤードと同じであり、ゲームのルールがストレート・プールとビリヤードでは違うだけだ。

エディは自分の実力を試したい、そして大金を得たい思いでミネソタ・ファッツというバード・ゴードンの縄張りで活動するストレート・プールのプレーヤーに挑戦をする。しかし、エディは途中までは勝っていたものの、ミネソタ・ファッツの精神力の前にストレート・プールで敗れてしまう。

当然エディは試合で自分が勝つ方に賭けていたお金を失ってしまう。それでエディは、ただの宿無しになる。自分の自身のあるストレート・プールで負け、一文無しになったエディは残った所持品を駅のコインロッカーにあずけておく。

その時コインロッカー近くのコーヒーショップで孤独に一人本を読んでいる女性と出会う。その女性とはサラ・パッカードである。サラは小児ポリオで足に軽度の障害をおっており、ろくな仕事もなく父親から送られてくるお金で大学に行く、火曜と木曜以外は酒浸りの孤独な女性である。年齢は30歳位だろう。

しかし、サラはエディと恋仲になることによっていくらかは救われてくる。孤独な障害をおった若くない女性の心をエディが癒していくのである。

しかし、エディは一度負けたゲームの再挑戦を夢みていた。エディがゲームに集中すればするほどサラのことは置き去りにされていく。再び孤独な生活に陥ることを恐れるサラはエディがサラ自身の元を去る前に自殺してしまう。

エディはサラの自殺にショックを受ける。エディは自身の賭けを取り仕切っていたバード・ゴードンに向かってこう叫ぶ。「俺たちが彼女の喉を切り裂いたんだ!!」。サラは自殺する前に洗面所の鏡にこう書く。“変質者”“異常な奴ら”“不自由な者”。最後の不自由な者とはサラ自身のことも指しているのだろう。(ストレート・プールという賭けゲームにはまったエディたちも不自由な者である。)

孤独な境遇に置かれている社会的弱者のことをほったらかしにしておいて、ギャンブルに浸る変質者や異常な奴ら。一人一人の命よりもギャンブルが大切か?世の中の優先順位のつけ方とは一体何なんだろうか?社会的弱者をほっておいてまでギャンブルをする変質者、異常な奴ら、不自由な者。

変質的で異常で不自由な生き方も確かにあるのかもしれない。しかし、社会的弱者に手を伸ばすのは一部の善良な人々のみでいいのだろうか?自らの本性を変えてまで慈善をすることは奨励されないのか?しかし慈善的な人間というレッテルからどうしても零れ落ちてしまう人々もいるのかもしれない。

自由な、そして”痩せた”アメリカ

映画「ティファニーで朝食を(原題:Breakfast at Tiffany’s)」を観た。

この映画は1961年制作のアメリカ映画で、この映画の原作は、アメリカ合衆国の小説家トルーマン・カポーティによる同名タイトルの中編小説「ティファニーで朝食を(原題:Breakfast at Tiffany’s)」である。

この映画の主人公は、40歳前の女性、ホリー・ゴライトリーである。ホリーはニュー・ヨークに住んでおり、化粧室に入って50ドル貰う仕事と、刑務所の中にいるマフィアへの伝言をする100ドルの仕事をして暮らしており、交友関係は派手であり、ホリーのアパートの部屋で行われるパーティーにはお金持ち(最近の言葉で言うとセレブ)の客が押し掛ける。

ホリーの魅力はその奔放さにあるようである(もちろん顔が美しいということもあると思うが…)。ホリーは気の多い女性のようで、自分の周囲にいつも男性をはべらしておくようである。そして、ホリーはいわゆる玉の輿を狙って、いつかはリッチな暮らしをすることを夢みているようである。

しかし、ホリーはリッチな生活がしたくて、玉の輿を狙っているようでありながら、実はお金だけが目当てではないように思われるふしもある。それはホリーがニュー・ヨークにやって来る以前の出来事からうかがわれる。

それはこのような事実である。ホリーは実はアメリカの田舎に住んでいた既婚の女性であり、ホリーは偽名で本名はルラメーということ、そして結婚をしていた相手は医者であるゴライトリー氏であった。つまり、彼女は玉の輿を狙わなくても医者の妻として何不自由なく生活することができたのである。

そんなホリーがニュー・ヨークに出てきた本当の理由とは何か?もっとお金持ちの人に出会いたかった?それもあるのかもしれない。しかしその他にホリーがニュー・ヨークに出てきた理由がある。それは“自由”になるためである。

誰の愛にも束縛されず、一人ぼっちで自由に生きたいの!!ホリーは映画の終盤までそう言い張る。しかし、ホリーと親密な仲になりつつあったポール・バージャックにこう言われる。「ホリー、君は自由になりたいと言うけど、そのわりにはホリー君は愛という束縛を求めているじゃないか!!人生において大切なものは人が人のものになるということにあるんじゃないのか!?それが愛であるんじゃないか!!」と。

映画の中でホリーは自由奔放に生きる女性として描かれている。自由に恋愛する女性。しかし、相手の男性にはホリーの奔放さに付き合っている余裕などない。いずれは愛という束縛をホリーに求めてくる。

愛はただの束縛か?それとも人生を生き抜くための尊い行為か?ただホリーは自由にいくらか生きることができたことは注目に値する。

 

※ホリーをルメリーとして田舎に連れ戻そうとしたゴライトリー医師は、ニュー・ヨークに住んで昔と変わってしまったホリーを見てこう言う。「彼女は骨と皮だけじゃないか」と。骨と皮だけのホリーとは自由の国アメリカを象徴しているのはないか?ではなぜアメリカは骨と皮だけなのか?つまりここで言える豊満なアメリカとは福祉が充実しているアメリカである。貧しい者も再分配で救われるようなアメリカである。ゴライトリー医師は洪水で両親を失った子供たちと住んでいた。つまりゴライトリー医師は豊満なアメリカ、福祉政策の行き届いたアメリカである。1930年代、国によるニュー・ディール政策でアメリカは貧しい者にも福祉が行き渡るような国を実現していた。しかしその充実と同時に個人と市場への無介入を是とするネオ・リベラリズムが頭角を現してくる。ゴライトリー医師の言う痩せてガリガリのアメリカである。