貧困とは惨めなものだろうか?

映画「ラスト・ショー(原題:The Last Picture Show)」を観た。

この映画は1971年のアメリカ映画でサニーという少年が高校を経て仕事に就くまでの期間を描いた映画である。

この映画の主人公サニーの父は薬物依存症者であり、父は定職に就いていないようで、家にも帰って来ないようである。つまりサニーは貧困家庭の子供である。

サニーが住むのはアメリカ合衆国のテキサスの田舎町である。街にある娯楽といえば、ビリヤード場と映画館そして時折開かれるダンス・パーティーである。

サニーにはデュエーンという親友がいる。サニーとデュエーンはジェイシーという金持ちのお嬢様が好きである。デュエーンはジェイシーと付き合い別れ、サニーはデュエーンがジェイシーと別れた後にジェイシーに誘惑されしばらくの間付き合うことになる。最後にはサニーもジェイシーに捨てられることになるのだが。

この映画の中に登場する既婚女性は不幸な境遇に置かれている。何が不幸なのか?それは彼女たちには職がなくて夫に愛されていない専業主婦であったり、職があっても夫は病気で借金があるという具合である。

つまりお金があってもお金が無くても不幸なのである。サニーもお金が無くて不幸という点では、この既婚女性たちと同じである。現にサニーは学校のフットボールとバスケットボールのコーチの妻であるルースと不倫の関係に陥る。

ルースは物質的には満ち足りているが、精神的には不安定な女性である。サニーとルースは不幸であるという共通点を持つために恋仲になったのではないかとも思われる。

サニーがよく通うビリヤードの店にはビリーという少年がいる。ビリーは知的障碍者だと思われる。街の大人たちはビリーが車にひかれて死んでも運転手のせいではなく、ビリーが知的障碍者だから仕方なかったと判断する。それを見たサニーは言う。「お前らなんかクソだ!!」と。

サニーは大学に行くお金もなく高校卒業後働きに出るが、デュエーンは貧しいためだろうと思われる仕事の選び方をする。それはどういうことかというと、デュエーンは軍隊に入るのである。デュエーンは朝鮮戦争に出兵する。

2000年代のアメリカでは貧しい家庭の若者は大学に行くために軍隊に入る。デュエーンは大学へ進学するとは思われないが、軍隊という選択肢を選ぶ。1950年頃の若者も、2000年以降の若者も貧しい者が選ぶ道は同じである。これが仕組まれたシステムだったら明らかに不幸である。

規範を内面化する時に出会った規格外な人物

映画「ハロルドとモード 少年は虹を渡る(原題:Harold and Maude)」を観た。

この映画は1971年のアメリカ映画でタイトルにもある少年ハロルドの成長を描いた映画である。

金持ちの息子として生まれたハロルドは、なかなか子離れできない管理大好きの母の元で生活している。ハロルドはそんな生活を息苦しいと感じている。

そんなハロルドが管理主義の母親から唯一解放される時があった。それはハロルドが自分の死を演じている時である。

ハロルドは学校の実験の意図的な失敗により大爆発を起こしたことがあった。その時ハロルドは学校を黙って抜け出して家に帰った。そこに警察がやってきて母に警察がハロルドの死を告げると、あの普段はハロルドの管理ばかりしたがる母親が倒れ込んだのである。

その時ハロルドは気付いた。母親を倒して母親から解放されるのは自分の死の模擬以外にはないと。ハロルドにとっては死=開放であったのである。

ハロルドは死の香りに誘われて他人の葬式に自前の霊柩車で参加するようになる。見ず知らずの他人の葬式にだ。その葬儀で知り合うのがモードというもうすぐ80歳になるという女性だ。

この女性モードはとにかく画一化から解放されたがっているように見える。モードと対照的なのは警察という役割であろう。警察というのはひとつのおきて(法)に従って周囲を均質化していくような存在である。物を盗んではダメ。スピード違反はダメと。

モードは警察にただ反抗しているだけではない。そこには実はモードなりのルールが存在しているようである。モードはハロルドに言う。「私は自由と権利と正義のために戦ってきたの」と。

ハロルドはモードの生き方に魅せられモードの死と立ち合い、ハロルド自身の規範を見つける。ハロルドを縛り付けるハロルドの母親は、均質化しようとする母(女)である。それに対してモードは均質化から脱する女である。

ハロルドは子供として一旦社会の掟(法、道徳、習慣)を身に着ける。しかしそれだけでは生きて行けない。従来の掟には悪いところがある。それを更新しながら人間は生きていくのである。従ってモードのような理念に燃える独創的な女性から学ぶことも多くあるのである。

ハロルドの母に育てられ、モードと出会い愛を知り、現実との繋がりを強く意識したハロルドは、独り立ちすることに成功する。愛という現実と分かちがたく結びついたものにより、ハロルドは現実を生きる力を身に着けたのだ。ハロルドは一人前の人間になったのだ。

60年代と映画監督の時代

映画「イージー・ライダーレイジング・ブル(原題:Easy Riders,Raging Bulls:How the Sex Drugs and Rock’n’Roll Generation Saved Hollywood)」を観た。

この映画は2003年のアメリカ映画で、アメリカの映画産業の中心であるハリウッドの1966年~1970年代末までの映画作品とその監督、俳優を追ったドキュメンタリー映画である。

この映画では1966年当時ではB級作品とされていたものが、1970年代末にはB級大作映画となり後の映画界を築いていく基本となったことが描かれている。

1960年から1970年代のアメリカ映画ではそれまではアンダーグラウンドで制作されていたものが大衆に浸透していった道筋が見られる。1969年の映画「イージー・ライダー」を、“主張する監督時代”のピークの始まりとして取り上げる。

アメリカのその時代を代表するヒット作には共通点がある。それは映画が1966年以前では描かれなかったセックス、酒、麻薬そして暴力といったテーマを取り上げるようになったことである。そして、その映画を撮る監督は予算の主導権をも握ってしまうような、主張する監督たちであった。

そこで上げられる映画監督の主要な人物はコッポラ、ボグダノヴィッチ、ペキンパー、スコセッシ、アルトマンである。これらの監督以前では映画監督が主張することがなくなっていたのである。

しかし、これらB級映画の監督たちは違った。自らの作品で自らの世界を描いたのである。時代は1960年代から1970年代である。

1960年代後半といえばフラワー・ムーヴメントの起こった時代である。若者たちは現行の体制に強い不満を持っていた。アメリカ国内では黒人差別が公然と行われ、アメリカ国外では、アメリカ軍がベトナムの民間人たちを攻撃し殺害していた。

アメリカの若者たちは、このような行いをする政府に対して強い憤りをおぼえていたのである。世界中の特に先進国の若者たちは、ラヴ・アンド・ピースを声高らかに唱えたのである。そんな時代背景を持つB級映画の監督たちも、主張する若者たちの中の一人であったのである。

しかし、そんな主張する監督たちの時代も終わりを迎える。酒やドラッグによりボロボロになっていく人や、主張し続けることに消耗したからである。

その後B級映画は大作になり、ジョージ・ルーカススティーヴン・スピルバーグのような娯楽映画が生まれてくるのである。スピルバーグのような大監督も、主張する監督時代なしにはありえなかったのである。

消失点

映画「バニシング・ポイント(原題:Vanishing Point)」を観た。

この映画は1971年のアメリカ映画であり、ロード・ムービーであり、カー・アクション映画でもある。この映画のタイトル「バニシング・ポイント(Vanishing Point)」とは①平行線が一つに集まる地平線上の点の外観➁その点を超えるとものが消える、あるいは存在しなくなるものを指している。

①の意味での「バニシング・ポイント」とは絵画にみられる遠近法という画法で出現する消失点のことを示している。手前にあるものを大きく描き、遠くにあるものを小さく描く。それを描いた時、例えば壁を描いたとしよう。

その壁がずっと向こう側まである時、それを絵画で描くと前の方から壁がある一点に消えてしまうように見える。それが消失点である。レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」という絵の背景でおなじみの画法も消失点を持つ技法である。

➁の意味での「バニシング・ポイント」とは存在そのものが消えてしまう点であると示される。存在しなくなる限界点とは何か?それは“死”である。

この映画の主人公コワルスキーは元バイクレーサー兼自動車レーサー兼警察である。コワルスキーは警官という体制の側から麻薬の売人からスピードというドラッグを買って車を猛スピードで陸送する、どちらかというと反体制的な立場に立っている。

コワルスキーはとにかくスピードの盲者である。コワルスキーにとってスピードとは自由である。コワルスキーは地平線上に見える道路の果て(=消失点)まで、アクセルを全開にして進んで行く。

コワルスキーを止めるものは“死”以外何もない。コワルスキーを止めることができるのは死なのである。ここで②の意味の存在の消失としてのバニシング・ポイントが思い浮かべられる。

コワルスキーの目の前に見えるのはこの①、②の意味の消失点両方なのである。コワルスキーは道路の先にある消失点を目指して進んで行くが、その消失点は存在の限界である死の点でもあるのである。

人間は生きているから自由たりえる。自由に物を買い消費するという所有の面において、人間は自由なのである(但しお金が続く限り)。しかしコワルスキーにとってスピードこそが自由なのである。

スピードを所有すること、それがコワルスキーにとっての自由なのである。スピードという自由には危険な中毒性がある。それはスピードの無い場所では生きられないことである。スピード狂いにとっては止まることイコール死なのである。

他者への想像力

映画「ドライヴ(原題:Drive)」を観た。

この映画は2011年のアメリカ映画で犯罪アクションと恋愛の要素を持つ映画である。

この映画の主人公は車の修理工、スタント・ドライバー、レーサーそして逃走車の運転手をしているキッドという男である。キッドは同じ階に住むアイリーンという女性を好きになる。

しかし、アイリーンには夫がいた。夫の名はスタンダード。スタンダードとアイリーンの間にはベニシオという子供がいる。

アイリーンとキッドが付き合うきっかけになるのは、アイリーンの夫であるスタンダードが刑務所に入っていたからだ。愛するに離れられた人は孤独を強く感じる。そんなアイリーンの前に現れたのがキッドだったのである。

スタンダードは出所した後も街のゴロツキに悪い仕事を押し付けられる。スタンダードは刑務所の中で借金をしたのだという。その借金を返すために質屋の強盗という犯罪行為を押し付けられるのだ。

スタンダードは家族の安全のためにキッドを逃走車の運転手としてその仕事をするが、スタンダードははめられて殺されてしまう。

スタンダードに仕事を依頼してきた連中は元から盗んだお金をスタンダードを殺して奪うつもりだったのである。

スタンダードをはめた相手はニーノというユダヤ系のゴロツキである。ニーノは質屋にマフィアの金があるのを知っていて、その金をスタンダードに奪わせ、その後スタンダードを殺してその金を手に入れようとしたのである。

「スタンダードがマフィアのお金を盗み、その後お金の持って行先はわからなくなる」というのがニーノの筋書きである。よってニーノ以外の連中がその事実を知っていると問題である。ニーノがマフィアに殺されてしまうからだ。

この映画の最後にキッドはお金とニーノとつるんでいたバーニーの死体の元にマフィアの金を置いて街から去って行く。キッドはその金でアイリーンとベニシオと逃げようとしたが、それがより不幸な結末を生むのを避けたのだろう。

キッドとは多分本名ではないだろう。修理工として働く先のボスが彼のことをキッドと呼ぶのである。“キッド”はその名の通りずっと子供のままなのであろうか?

いや違う。キッドはアイリーンとの決別を選ぶことで、キッド(子供)から大人になる。そこには自身の思いだけでなく、他人の未来を冷静に見つめて、両者のためになる未来を紡ぎあげるような想像力が存在する。そのような想像力を持つことができること、つまり自分自身の幸福だけでなく他者の本当の意味での幸福のために生きることができること。それがきっと成長した人間の姿なのだろう。

求められるべき共同体

○糞な共同体

 

2012年の日本での自殺の10万人当たりに対する死亡率は23.1人で、世界ワースト9位である(※1)。

地域社会が空洞化しているらしい。

しかし逆に、地域社会の絆が強いとはどういうことだろうか?

地域社会の絆が強いということはそれだけ抑圧されている人間も多いということなのである。地域社会を存続させるのにはそれだけコストがかかるからそれは我慢しなさいという意見もあるようだが、こんな地域社会に何を投資しろと言うのか?たとえ地域社会が良くなるように投資したとしても、古くからある共同体の悪しき習慣はゾンビのように生き返って来るだろう。

今の地域社会を継続するのではだめだ。地域社会のためにコストをかけるという前に地域社会の仕組みを、一部の共同体内の弱者にとって負担にならない仕組み作りを呼び掛けていくことの方が重要だというのが僕の意見である。

何より憤りを感じる意見は地域社会の絆を守れという意見である。僕は思う。守るべき地域社会など実はどこにもない。あるのは人間の腐った習性からなる、ずぶずぶの習慣だけである。そう、新しき共同体を打ち立てる必要がある。

先ほど自殺が日本では多いと書いたが、日本は自殺者が多い国であることは周知の事実である。では自殺を何故防げないのか?自殺するのもその人の自由だという意見もあるかもしれないがここでは自殺を避けるべき悲劇として考えたい。自殺に追い込まれている心境を想像してみるだけで、その状況自体がどれほど悲惨かがわかるはずである。しかし、共同体が空洞化した現在、人の想像力すら奪われているのが現状かもしれない。人間の想像力は共同体によって培われるのだから。

自殺の原因として人間を支えるホームベースが壊れているという意見がある。そうなのである。日本は地域を支えるホームベースである家族と地域社会が空洞化しているのである。

地域が空洞化している結果として孤独死や無縁死などが起きている。孤独死とは一人誰にも看取られずに死を迎えることである。無縁死とは孤独死してその遺体を誰も引き取る人がいない状況である。

このような状況では、家族も地域社会滅んでもう新しい共同体を作るしか日本には手がないのである。そしてそれはきっと優秀なエリートによる設計やそのエリートの計画を分かり易く多くの人たちに伝えるオピニオンリーダーが必要なのだろう。そして何よりも我々一人一人の意識の変革が必要なのである。

いや、もしかしたら人々の意識の変革などなくてエリートが良くできた仕組みを作りさえすればいいのかもしれない。

しかし、ここであえて社会契約説のように国民一人一人が契約を国民同士で交わして、一人一人の国民が自立した国の統治者としての意識を持つということが大切なのかもしれないとも考えたい。

少数のエリートによる寡頭制か、すべての国民からなる民主制か、それも考えていかなければならないのだろう。

民主制の負の側面であるポピュリズムが話題となる昨今であるが、民主制にかけてみるのも一つの手ではないかというのも私の意見である。経済的不調によって不安になり煽られ易くなっている人々も、機会が与えられれば成長するのではないか?私はそう考える。

 

○様々な共同体

 

共同体というと皆さんは一体どういったものを想像するだろうか?三人ぐらいの集団を想像する人、もっと広い範囲に散らばった個人から成る集団を想像する人。小さな町の名前を思い浮かべる人、それとももっと大きな国という単位を思い浮かべる人。それよりももっと大きな国と国との関係、例えばEUなどを思い浮かべる人もいるだろう。人により共同体という言葉によって思い浮かべる範囲は様々だろう。

ここでは共同体を国の内部、そして各国同士の関係という観点から見たい。そして主にこの文章で述べられる共同体は国の内部にある複数の共同体を指す言葉として使いたい。そう、共同体の内部を考えるとは共同体の外部を考えることでもある。

人は内側を考える時、必ず内側との対立である外側を考えざる得なくなる。そう国という共同体の内部を考えることは、国と国同士の関係をなしには行うことができない。そしてそのように考える時、国の内部を考える時も同じことが言える。国の内部にもさらに小さい集団が存在する。

国の内部があるということは、国の外部が存在するということだ。そして、国の外部が存在するということは、国の内部が存在するということだ。そう共同体には内と外が存在する。国の外側には国と国の対立があり、国の内側には国より小さな共同体があるというよううに。

 

ここでは個人を包摂する共同体を6つ上げたいと思う。いずれも国の内部と外部に関係するものだ。それは、経済共同体、市民社会、国家、地域共同体、家族、サブカルチャー共同体である。

 

まず経済共同体であるが、これは人間の経済活動により生じる共同体である。簡単に言うと会社である。会社は一つの共同体である。企業で互助会費を集めて従業員の家族の死亡などの際に香典を出したりする互助会などが経済共同体の分かり易い例であろう。

経済共同体は国を超えても存在する。日本の企業が海外に拠点を持つことは珍しいことではない。経済共同体は国を跨いで存在するのである。

 

市民社会とは国を超えて人と人が繋がるような共同体である。市民社会は国の内部に居ながら国の外部を想像する。市民社会はある種の全体性のことである。前述した経済共同体と国を超えて繋がるという点が共通している。しかし、経済共同体が軍事産業を生業とする共同体である場合には望まれないことを市民社会はその結合の約束とすることができる。市民社会は経済共同体が除外するような理想を掲げることができるのである。

例えば軍事経済共同体が望まない平和を共同体の原則とすることが市民社会にはできるのだ。市民社会には経済共同体が持てないようなどこが崇高な理想を持つことができるのである。

 

国家とはある国と国との間に引かれた線によって存在するような共同体である。国と国のぶつかるところに国家生じるのである。もっと正確に言うならば、ある集団と集団が対立してしまう境が、国という範囲を決定するのである。又、国家は同じ領土に住み、同じ言葉つまり共通言語を持つ集団である。

 

国家と市民社会はどちらか片方なしには存在することができない。

人は国家がそれぞれ分かれていることによって、どの国家に所属するか決定する立場に立つことができる。国家が一つしかないならばそこに人の選択の自由はなくなる。国家が一つしかない場合、人は国家が複数ある場合よりも不自由なのである。国家が一つになれば市民社会という一つの大きな共同体という理想が無くなる。一つの市民社会が成立した時、一つの国家が誕生する。しかしその一つの大きな共同体と呼ぶべきものは選択の自由を欠いた、より不自由な共同体でしかないのである。

国家が複数あって市民社会の理想も生じるし、市民社会が実現しないことにより複数の国家というより自由な状態が生じるのである。

 

地域共同体はある特定の範囲に住む住人たちから成る共同体のことである。○○町とか、○○市といった範囲のことである。○○町の○○地区といったものももちろん地域共同体である。自分の住んでいる場所を起点としてその場所がどの自治体に位置しているかが地域共同体の決め手である。

 

家族とは共に一つの屋根の下に住む近親、近縁の共同体である。祖父、祖母、父、母、子供というあり方が古めかしい家族の在り方だろう。核家族や同性愛のカップルなども家族の中に含めたいと思う。同棲している状態もある種の家族の在り方だろう。

 

サブカルチャー共同体は簡単に言えば趣味による集まりである。マンガが好き、映画が好き、サッカーが好き、電車が好き、なんでもよい。ある文化における特定の趣味趣向で集団が出来上がるのである。

 

これら6つの共同体はそれぞれに重なりあう部分を持っている。ある一人の人間が複数の共同体に属するということがあり得る。一人の人が、株式会社に勤め、市民社会の一員としての意識を持ち、国家の成員であることを自覚して、ある特定の場所に住み、好きな人と同棲し、映画やマンガの趣味が合う友達と付き合うことができる。

共同体の役目は個人に他人からの承認や理解による安心感を与えることにある。また危機的状況に陥った時に救ってくれるののも共同体である。共同体は人々に精神衛生上好ましい状況を作り出すための必要条件なのである。

しかし、今これらの共同体はうまく機能していない。地域共同体も家族も空洞化していて、今個人が頼れるのは行政つまり国家になっている。国家つまり行政の基盤はお金である。国家つまり行政は金が無くなったら終わりである。そして今経済は不景気である。国が動こうにも税収が減っている。不景気になれば企業も弱くなる。経済共同体も空洞化する。国が動けないならば市民社会はどうか?国家が弱まれば市民社会の力も弱まる。なぜなら市民社会と国家は依存関係にあるから。国家が希薄になれば市民社会の理想も薄まる。その理由は、国の境界がなくなり一つの市民社会に近づくから。

残されたサブカルチャー共同体はどうか?サブカルチャー共同体はタコツボ化している。つまりそれぞれのサブカルチャーの共同体同士の繋がりが弱くて相互扶助できないのである。つまりお互いの欠点を補い合うことができない。

 

日本の共同体の現状は悲惨なものなのである。今、国は国債を発行し年の予算の不足分に当てている。国債とは借金である。つまりこの先につけが回されている。借金はいずれ返さなければならない。返済時に経済が右肩上がりでなければ借金で国は潰れる。この先経済の成長は緩いのが現実である。

 

共同体について考えるとなんだか気が重くなってくるが、この共同体を支える前提とは何なのだろうか?それは民主制である。

 

○共同体を作り上げる民主制とは何か?

 

民主制は共同体を作り上げる。ここでは民主制について考えてみたい。

民主制とは古代ギリシアに遡ることができる体制である。古代の民主制は奴隷制度の上に成り立っていた。古代ギリシアの民主制はポリスという都市国家を共同体の単位とする組織だった。

古代ギリシア人は奴隷に生活の糧を生産させ、ポリスの市民たちは奴隷の労働に支えられて政治や演劇や戦闘などを行った。古代ギリシアの市民生活の充実は奴隷の土台によって支えられていた。古代ギリシアの成人男子たちは投票により政治内容を決定しており、投票は多数決で行われていた。古代ギリシアの成人男性は、戦士として国を守ることにより投票権を得た。

しかし古代ギリシアの民主制には現代民主主義が民主制の大前提としている自由と平等、基本的人権といったものはなかった。古代ギリシアで女性、在留外人、奴隷は差別されており自由も人権も認められていなかった。古代ギリシアの民主制では自由はなく、平等もなく、人権もない不平等な民主制だったのである。

 

現代考えられている民主主義とは古代の多数決による政治の決定という側面を受け継ぎつつも古代ギリシアの民主制とは異なっている。古代民主制にはなかった自由と平等が認められるのが現代民主主義であり、従って人権の保障された民主主義体制が現代社会の民主主義である。

 

自由とは神の前の平等が認められることによって、各人が権利を主張することにより認められた民衆の間に生じたものだった。17世紀イギリスのキリスト教ピューリタンたちの主張した信教、内面、良心の自由から現代の実際の自由が始まっている。

では平等、自由、人権はどのようにして生じたのだろうか?

 

キリスト教旧約聖書に登場する神は、不条理の神である。人間に対する慈しみの神である新約聖書の神とは違う。恐ろしく、そして理不尽な神である。

旧約聖書にはヨブ記というものが存在する。ヨブは神を信仰する敬虔な信者である。ある時悪魔が神にこう囁く。ヨブは、今は信心深くあなたを信仰しているかもしれないが、ヨブにひどいことが起こればヨブは神を信じることをやめるかもしれない。神よ、ヨブを試せ。すると神はヨブの信仰心を確かめるためにヨブの子供を殺し、財産を奪い、ヨブの全身を皮膚病にする。しかしヨブは信仰を捨てない。神からヨブへの散々の扱いに対してもヨブはひたすら耐えるのである。

旧約聖書の神とは人間の信仰心を試すために何も容赦しない。そこに慈悲深い神などいない。するとこういう帰結が生じる。神を信じていても何が起こるかはわからない。人は信心深くでも、信心がなくても不幸になりえるのである。ここに従順な信徒と怠慢な信徒の差はない。神はどちらにも罰を与えるのかもしれないのである。神の前では誰もが不幸になりえる可能性を持つのである。つまり神の前では優れた者であっても、劣ったものでも同じ扱いを受けるのである。これぞ神の前の平等である。

信仰心を持つキリスト教徒であるならばこの神の不条理さに、神の前の平等に気が付くのである。そして神の不条理さに気付いたキリスト教徒たちは自分たちと王や貴族との間に何も差異がないことに気が付いていくのである。そして実際に17世紀イギリスのピューリタンたちは自分たちの持つ、信教、内面、良心の自由を訴えたのである。人が自由と平等と人権に気が付くには不条理な神の存在が必要だったのである。

現代民主主義は自由、平等そして人権を保障する制度である。誰もが自由に自分の考えを持ち、他者の権利を害さない限り自由に権利を行使することができる。誰もが等しく人権を保持することができるのである。人は生まれながらにして自由で平等であり、人権を持つのである。

 

自由、平等を約束する人権の保障という主権をもたらしたのは、宗教における神の存在が大きかった。人は神の持つ力を想像することにより、神の力を具体的に精神に抱き、それを人間の手元に引きずり下ろした。それが人権である。

人権が生じる前の段階には国家の主権というものがあった。神の権利が、国の主権に及び、国の主権が人の主権に至ったということができる。

17世紀のヨーロッパでは30年戦争という長い戦争が続いた。30年戦争の後にヴェストファーレン条約が結ばれる。この条約によりヨーロッパに宗教によりどころを持つ国々の並立という状況が生じた。どの国にも同じ権利ある。つまりA国にもB国にもC国にも同じように同じ主張をする権利があると認められた。どの国も主権国家となった。

その後18世紀後半から19世紀初期にかけて国民国家が成立する。ここで人権が成立するのである。国の持つ権利を国の主権者であるとされる国民が持つようになったのである。

国民は国家の登場と共に生じるが、国家は国民が作り上げたものである。ここには国家と国民の循環がみられる。国家が先に生じたのか?それとも国民がより先にあることがあり得たのか?ここで強調したいのは、国を作って国の行く末を決めるのは国民であり、国民の同意なしには国家は生じないということである。そして、その民主主義により生じた国民の統治権力への命令が書き示されているのが憲法なのである。

 

憲法は国民から統治権力への命令である。憲法には、国の主体たる国民が統治権力をコントロールすることが宣言されている。それが憲法と呼ばれるものなのである。つまり国民一人一人が国の主人である。つまりそれは、国の主人たる国民の命令が憲法に書かれているということだ。

日本人にはこのホッブス、ロック、ルソーの社会契約説的な憲法の在り方がいまひとつ理解されていない。憲法は国から国民への命令で、国は国のトップにいる人たちが作ったという思い込みがいまだあるように思われる。しかし、憲法はそんなものではない。憲法は我々が作り出したものなのである。我々は失っていた自信を取り戻すべきなのである。

 

憲法を自らのものとすればおのずと人は自らの生き方を選び出すかもしれない。自ら主体であること。自らの決定が自らの未来を切り開いて行くということ。その事実はきっと人々を勇気づける。我々はとるに足りない小さな存在だと思わされていた人々が、自らの手にある権利を、権利を統治権力から守り保障する憲法を自覚した時にその時には今までとは違った未来が切り開けるのかもしれない。主権者としての意識が憲法を導き出す。その経緯に共同体の尊厳の回復の1つの道しるべが、見えるのかもしれない。

 

民主主義は主義である。つまり主義とは思想である。民主主義とはある特定の主義を持つ人々の集まりである。民主主義とは特定の思想を持つ人々が作り出す共同体を導き出すものでもある。主義により集った人々。民主主義を持つ人々。民主主義が共同体を作り出す。

自由、平等、基本的人権を重んじる思想を持つ人々が集うのが民主主義体制である。そして民主主義体制とは共同体である。民主主義が作り出す共同体。それが現代の社会で求められる、人気のあるものであることは言うまでもない。その証拠に今現在でも世界中に民主化の嵐が吹き荒れている。

民主化は世界の人々が、つまり多くの民衆が望むものである。アジアでも中東でも南アメリカ大陸でも民衆が民主主義を求めて声を上げている。今、民主主義は世界の流行である。それまで国の大多数の虐げられてきた人々が自分たちの存在の尊さに気付き、自分たちより上位者にしかない権利を自分たちも持つことが可能であると自覚し行動に移っているのである。民主化は世界の流れである。誰もこの流れを止めることはできないだろう。

 

最良の寡頭制、他よりもましと思われる民主制。このどちらがより合理的なものなのだろうか?共同体は少数のエリートによって運営される方が良くなるという見方の方が合理的であるという意見もある。しかし、世界の圧倒的に多くの人口が虐げられてきた人々であるならば、底辺の人々の底上げは避けられない事実である。民主化は合理性の面では寡頭制に劣るのかもしれないが、人口の多くは民主制を望んでいるし、それらの人々が人権を保障されていない限り、民主主義に基づく共同体は産声を上げ続けるだろう。

 

○共同体が必要な理由

 

日本には経済共同体以外にすでに実用的な、共同体は存在しないといわれる。

相互扶助のためのネットワークとして共同体が必要だという意見は良く聞く。社会学宮台真司は自説の中でよく共同体の重要性を示す。宮台真司によると共同体は社会という言葉で表すことができる。今の日本は経済回って社会回らずだと宮台真司は言う。

経済が好景気ならばお金が循環しそのお金によって弱者が救済される。しかし、今の日本の経済は下り坂である。世界はグローバル化が進んでいる。グローバル化が進めば賃金の安いところに仕事が流れる。物の価格は低くなる。しかしその分労働者の賃金も減る。物は安くなるが、賃金も安くなる。つまりグローバル化が推し進めば労働者の賃金は下がることになる。

そうなると労働者の手元には自分の年老いた両親を老人ホームに入れるお金も無くなる。自分の知的障碍者の子供を施設に入れるお金も無くなる。労働者は抱えきれない家族の負担に押しつぶされることになる。家族単位では老人や障碍者を支えるのは無理である。そこで登場するのが共同体、社会である。

共同体(=社会)が強固ならば老人や障碍者のような社会的弱者を養っていくことが可能であると、宮台真司は言う。つまり経済的に脆弱になっても社会が、地域による繋がりが強固ならば、その共同体は経済が潰れても幸せにやっていけるのである。

そこで宮台真司はアメリカの新自由主義の例を取り出す。強いものが勝ち、弱いものが貧乏になるアメリカの経済の仕組みでアメリカが破綻しないのは何故か?それはアメリカが経済的敗者を包摂する強い社会を持っているからである。

アメリカの強い社会の絆はどのようにして醸成されているのか?それは宗教のネットワークである。アメリカでは弱者が出ても宗教的繋がりを持つ共同体でその弱者は救われる。お金がなくて食べ物が食べれない弱者が存在すれば宗教的ネットワークがその弱者を支えるのである。経済的弱者でも社会が回れば救われるとはこのことである。

今の日本では経済がかろうじて回って弱者に再分配が行われている。しかし経済が回らなくなって再分配をする財源がなくなってしまったら日本ではすでに社会が回っていないので、日本という国は弱者を見捨てる国になるだろう。つまり経済が回らなくなった途端に日本の財の再分配制度は破綻し日本は弱者切り捨ての強者のみの世界になるだろう。弱者は道端で力尽き、強者は安い労働力を使って富栄えるだろう。

前述したように、この先世界はグローバル化が進み安い労働力のある場所に資本は流れる。人件費の安い土地に工場が建つ。そこで安い労働力を使って安い製品が作られる。そして、そこで作られた製品が世界に出回る。

繰り返す。自由貿易で関税がつかなければ一番価格の安い商品が店頭に並び売れることになる。そこでその商品に競合するために各国でも安い製品が作られる。そうなると必然的に賃金は抑えられる。

するとどうなるだろうか?価格が安い国につられて、その国よりも高く製品を作っていた国の製品の価格が引き下げられることになる。当然以前よりも高く製品を作っていた国の労働者の賃金は引き下げられることになる。つまり以前回っていたように経済が回らなくなる。その国の経済全体が値下げをしない限り。

 

よって経済に頼れなくなった国は社会に頼らざる得ないが日本のような社会弱小国では、経済が回らなくなれば国は終わりである。そのために共同体が必要なのである。では現存する共同体の残りを回復すればいいのか?

いや違う。いまある共同体では弱者は苛め抜かれるだけだろう。そこで今の共同体に代わる新しい共同体が必要なのである。

では新しい共同体とはどのような共同体だろうか?その共同体の見本となるような共同体の例は世界のどこかにはないだろうか?アメリカ?ヨーロッパ?どこかにお金がなくても回っていくような、つまりお金がなくても弱者が救済されていくような国は存在しないのだろうか?そしてさらにいうなら古い共同体のように入退不自由な共同体ではなく、入るのも抜けるのも自由な共同体が実現し、バーリンの唱えた~からの自由が万全に整えられたような新しい共同体の確立はできないのか?

それは共同体に好きな時に入れ、好きな時にそのコストを払い、好きな時に抜けられる、そしてまた好きな時に入れるような共同体である。自由を、特に~からの自由を保証しないような共同体は共同体の資格はない。新しき共同体は柔らかで流動的かつ恒常的な存在なのである。

 

ここで~からの自由、~への自由という自由の二つの在り方について説明したい。~からの自由は消極的自由とも呼ばれ、~への自由とは積極的自由とも呼ばれる。この言葉はイギリスの政治哲学者アイザイア・バーリンによって1969年に出された「自由論」という著書の中の第3論文「2つの自由概念」で登場する言葉である(※2)。

~からの自由とは簡単にいえば権力や他者から干渉されずに、自分のありたいようにある自由のことである。~への自由とは権力に参加する自由である。例えば、参政権がこれに当たる。

~への自由には注意が必要である。なぜなら積極的に権力に参加することで権力に取り込まれて、逆に権力に利用され、結果自身の自由や他者の自由が奪われることになる可能性があるからである。~からの自由がより根本的な自由になるといえる。なぜなら存在するだけで人は自由であることを示すのが~からの自由だからである。

 

~からの自由が保障されるような柔らかで、流動的かつ、恒常的な共同体を我々は作り上げるべきなのである。

 

○共同体とは何か?

 

さて先ほどから共同体という言葉を使っているがそもそも共同体とはいったいなんなのだろうか?共同体という言葉をインターネットで検索しみた一例が以下ものである。

 

 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

 共同体 きょうどうたい Gemeinde;community

 利益,目的を同一にする人々の結合体。

  (1) 社会学では,アソシエーションに対する用語として,自然発生的に共同体意識,共属感情をもって生活している人々の生活体もしくはその地域社会をさして使用される。

 (2) 経済史上の用語としては,資本主義的生産以前の生産段階における社会組織の諸形態をさして使用されている。マルクスは原始共同体が解体したあと歴史上出現してきた諸形態を,自然発生的血縁集団を中核とするアジア的共同体,古代ギリシアのポリス (都市国家) に代表 される古典古代的共同体,ゲルマン民族にみられたゲルマン的共同体の3類型とし,さらにその発展としての中世ヨーロッパの村落共同体や中世都市のギルドなどを共同体としてあげている。低い生産水準のもとでは共同して土地の占取をすることによって初めて私的な生活の再生産も成り立ちえた。そうしたところでは人々の生産や生活の全面にわたる共同が必要であった。こうした歴史の必然のもとで共同体が維持されていたのである。(※3)

 

要は共同体の成員は「共同体意識」「共属感情」といったもので結びついているもので、それは資本主義以前からあった社会組織であるということである。

この解説の中に共同体(=コミュニティー)に対立する語句としてアソシエーションというものが登場する。以下アソシエーションに関するインターネットで検索した語彙を載せる。

 

 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

 アソシエーション association

 ある特定の関心を追求し,一定の目的を達成するためにつくられる社会組織。結社とも訳す。 R.M.マッキーバーはこれとコミュニティーとを社会集団の2類型として設定した。コミュニティーが一定の地域のうえに展開される共同生活を意味するのに対し,アソシエーションはそれを基盤としてそのうえに個々の人間の共通関心に従って人為的,計画的に形成される結びつきである。近代社会の発展と個人の欲求の多様化に伴い,質量ともに拡大してきた。一方大衆社会化によりこの社会組織は変質しつつある。(※4)

 

この解説によると、人々の「共同体意識」「共同感情」で結びついてできている共同体(=コミュニティー)に対してアソシエーションとは共同体という社会組織を基盤としてその上に築かれるまた別の社会組織ということになる。つまりコミュニティーの上にアソシエーションが乗っかっているのだ。コミュニティーがなければアソシエーションはない。 コミュニティーの方が先にあり後にできたのがアソシエーションという新しい社会組織なのである。

ここでコミュニティーを支えるのは共同体意識、共同感情ものであると言われる。コミュニティーは、個人個人の中にある共同体はこんな感じの形であるという意識(=「共同体意識」)や共同体のメンバーであることによって生じる感情(=「共同感情」)により生じている。共同体の各メンバーは共同体の全体像を心の中に思い描き、共同体の他のメンバーに対して感情的繋がりを抱いているのである。そしてそれが共同体を作り出しているのである。

 

前述したように共同体は糞である。特に今日本にある共同体は確実に糞である。その共同体を作り出している根本は個々の人間の中にある想像力や感情であると、共同体に関する記述から推測することができる。

ならばこの共同体を変えるには個人個人の想像力や感情を変化させれば、この糞な共同体を変えていくことができると考えることができないか?共同体の在り方は一人一人の心持ちで変わっていくのである。

 

しかし、ここで捉えきれていない問題があるような予感がする。人は集団になると個人個人でいる時とは違った心持ちをするようになるということである。それを山本七平氏は空気の支配と呼んだ。

空気の支配とは一体どういったものか?山本七平氏の「「空気」の研究」から引用したい。

 

  「空気」とはまことに大きな絶対権を持った妖怪である。一種の「超能力」かもしれない。何しろ、専門家ぞろいの海軍の首脳に、「作戦として形をなさない」ことが「明白な事実」であることを、強行させ、後になると、その最高責任者が、なぜそれを行ったかを一言も説明できないような状態に落し込んでしまうのだから、スプーンが曲がるの比ではない。こうなると、統計も資料も分析も、またそれに類する科学的手段や論理的論証も、一切は無駄であって、そういうものをいかに精緻に組み立てておいても、いざというときは、それらが一切消しとんで、すべてが「空気」に決定されることになるかも知れぬ。

 

                       

  「空気」の研究 文春文庫 1983年 p.19 8行目

※傍線部筆者

 

 

これは第二次大戦時の日本軍のエリートが戦艦大和の無傷での勝利は確実ではないと言って、戦艦大和の出撃を拒んでいたが(つまり勝ち目のない戦いだった)、空気の支配に戦艦大和の出撃を許してしまったというエピソードと共に語られている山本七平氏の言葉である。スプーンが曲がるというのはこの本が出版された当時(単行本刊行1977年)スプーン曲げという科学的合理性では説明できない超能力がメディアで取り上げられていたことによる、山本七平氏の皮肉である。空気の支配の非合理性は、スプーンがスプーンに手をかざすと自然に曲がるという超能力という非合理性と同じどころかそれよりも大きいと山本七平氏は読者に語り掛けるのである。

 

非合理性が支配をしているという空気の支配。それが集団の中における日本人の心理である。日本人はどんな時でも空気を読む。日本人として集団に属する限りは日本人として空気を読みあいながら生活をしなければならない。

 例えばいじめられている人がいるとする。いじめているのはいつのもリーダーである。いつものことだ。そう、そういう空気がその集団の中にあるのだ。つまり空気の支配によっていじめられっ子はその空気が続く限りいじめられるのである。これが糞な共同体の糞な空気の支配である。

 

○共同体の空気にあらがうには━日本人に倫理は可能か?

 

ではこの空気の支配に我々はどう対処していけばいいのだろうか?それは人々の心の習慣を変えることによってである。

心の習慣とは何か?それは一神教の宗教がもたらす人間のうちから湧き上がる倫理のことである。心の習慣とは民主主義や資本主義の原理である。倫理と道徳という言葉があるが、倫理とは内から人間を律する規律で、道徳とは人間の外部からやって来る人間を律する規則である。空気とは先ほどの説明からわかるように、外からやって来る規則つまり道徳のことである。

日本人は内から湧き上がる倫理を持たない。日本人は空気という道徳に準じて行動する。つまり日本人には一神教の教えは浸透していない。日本人に一神教を布教したら倫理が生まれるのだろうか?結論を先に言うと、それはあり得ない。

 

例えば、日本人はなんでも自分たちの土俗の文化と混ぜ合わせてしまう。日本人は仏教徒でも神道でもクリスマスを祝う。そして神教も仏教も土俗の文化と混ぜあさわっている。クリスマスはキリスト教の文化だが、日本人はそれを年末のイベントとして自らの文化の中に埋め込んでいる。クリスマスにケーキを家族、恋人同士で食べて、プレゼントを交換するのが日本人の風習となっている。キリスト教徒でなくても日本人はクリスマスを祝うのである。

ここに一神教の厳格な倫理が日本人に芽生え始めている事実を見て取ることができるだろうか?日本人はキリスト教の厳格な倫理観を持ったからクリスマスを祝うのではない。クリスマスは家族や恋人と過ごす雰囲気があるから、クリスマスを祝うのである。クリスマスは国民的雰囲気つまり空気である。倫理すら飲み込むのが日本の空気である。

 

日本人は道徳という空気に支配されて生きる国民である。空気がなければ道徳もない。つまり社会から規則が消え去る。規則が消え去るということは、それはそれで問題かもしれない。

しかし、いじめを発生させるような規則など必要なのだろうか?どうにかして新しい規範を日本人の中に組み入れて過去の負の部分を捨て去ることができないのか?

 

空気は集団の中にいるという意識によって醸成される。つまり個人が所属する集団が複数になれば特定の集団の空気に支配されずに済むのかもしない。この集団では認められない行為が、ある集団なら大丈夫である。だからしばらく、移行前では認められなかった行為が認められる移行先の集団にいて、移行先の集団でも問題が生じればまた別の集団に所属すればいいというように。

つまりこの世界観には複数の異なるルールを持つ集団が必要である。集団の多様性これこそが空気の支配から苛め抜かれる個人を救う方法のひとつであると思われる。この集団からあの集団へ。いつでも入退自由な集団の群れ。それが空気の支配から抜け出す方法のひとつである。日本でありながら日本の空気に飲み込まれない場所が必要だ。

 

○他者に対する想像力

 

空気に支配されない集団を維持するには、各集団の中に、そして各集団同士の間に、他者に対する想像力がなければならない。他者とは例えばいじめっ子に対するいじめられっ子のような存在である。反対にいじめられっ子に対するいじめっ子の存在も他者である。

他者に対する想像力を欠く場所では人から人への人権の侵害が平気で行わることになる。他者に対する想像力の欠如ほど多様な社会にとって致命的なものは無いと思われる。

他者への想像力は、他者への共感力と言い換えることができる。

他人の感情に共感できないと人はその場にいる状況を共有することはできない。Aは悲しいという状況をB、C、Dは知っている。その時B、C、Dの間にはAは悲しい思いをしているという共通理解がある(もっと具体的に言うと、この時Aが悲しい思いをしていると、Aを見ている自分が当事者以外の第三者の視点を想像して、第三者が想像するであろうAの気持ちを了解するのが共感つまり共通理解である)。それが集団の結束の機会となる。そしてAが幸福になるようにという共通目的もそこから生まれてくることがありえる。

共感は共同体の原因であり、共同体の目的のために必要な最低限の基盤なのである。

 

では、共感能力が無い者は共同体に必要ないのか?それはそうではない。共同体には共感能力が無い人が必要である。共感の能力が無いことが、共感能力を持つ人たちの間の共感理由になることがあり得る。

共感の能力が無いことを知った周囲の共感能力を持つ人たちは、その共感能力を持たない人と話しているという共通認識を共有するだろう。するとそこには共感能力を持たない人という存在の共有が行われる。そこで共感能力を持たない人がそのように扱われるのかは、その場にいる人々の采配次第である。そこで誠実な態度が求められるのは当然のことだろう。

共感能力が無いことを理由に、その人を虐げる状況が我々を不快にさせるのは想像に難しくないことだと思われる。ここでは共感能力がある人が共感能力の無い人に支えられるかもしれないという事実が浮き上がることになる。

共感能力が無い人の存在によって共感能力のある人たちが、共感能力の無い人も含めてある集団を作り上げるのである。共感能力の無い人が共感能力のある人たちを救っていることになる。要は能力のない人という共通認識が集団を作り上げるネタになるのである。ネタをどう扱うかはその人たちの人格による。そして、そこで人間としての成熟度が試されるのである。

 

ある共通のネタを共有して、連帯を作り上げる。それで共同体が出来上がるのである。そしてそのネタの扱い方がその共同体の性質になるのである。共同体Aでは項目αを否定的に取り上げているが、共同体Bでは項目αを肯定的に取り扱う。そういった共同体内での各項目に対する態度が共同体の性質を作り上げる。共同体の差異とは項目の扱い方の差異であるということができる。共同体とは項目αを扱う態度により差異化でき、その差異により人々は共同体を選択すべきなのである。

このように他者に対する想像力により共同体はできあがっており、各共同体内でのネタの扱い方が各共同体にそれぞれ違った特徴を与えるのである。

 

○共同体の壁を取り払え!!

 

いくら各個人に他者への想像力があっても、共同体に参加できなければ個人は取り残されることになる。従って共同体への入り易さ、共同体の壁の高さ、つまり共同体の敷居の高さがどれほどかが問題となる。

共同体の壁を取り払えと言っても、共同体同士を区切る壁が無くなってしまえば、共同体そのものがなくなってしまうのではないのか?そう、差異あっての共同体である。この場合の壁とは入退自由な共同体同士の敷居の低さのことである。そうするとこのような疑問が沸き上がる。

共同体に入りにくいこと自体を売りにしている共同体にはどのように入ればいいのか?共同体の壁の、つまり敷居の高さこそが売りなのにその売りを無くしてしまってその共同体に何の得があるのか?

この場合、筆者は共同体の壁、敷居は低い方がどの共同体にとっても特になると考えている。

敷居の高い共同体に入り易くしてしまえば、高い共同体に対する憧れも無くなり共同体に寄り付くひとも少なくなるであろう。そうすれば共同体は、共同体のある項目に対する態度の取り方が共通する人々つまり、本当に共鳴しあう人々によって構成されるだろう。

数が増えると質が悪くなるという議論を前提にこの記述をしているが、項目に対するある特定の態度の集積に対する共鳴がはっきりしていれば、その共同体は充分自分たちの共同体を維持しているという実感が持てるだろう。この実感こそが大切で、この実感が共同体の良質さをもたらす。

入退自由にしても共同体は共同体として維持できるのである。数が増えれば質が落ちるとか、数が少ないなら共同体の質が高いなどとはいえないのである。重要なのはその共同体に対する価値観の共鳴度なのだ。共同体は入退自由でも共同体としてやっていける。それが筆者の意見である。だから保守も革新もお互いに不信になる必要はないのである。それらは入退自由な共同体の一部なのである。

 

共同体は自身のサイズを大きくすることを考えがちである。前述した共同体の例には挙げなったが、党派によって結びつく政治による共同体も、自身を大きくすることを考える。様々ある共同体の中でも政党という共同体、又その政党を支持する共同体である。

政治は多数決の世界であるから、自身の大きさは自身の未来を大きく左右する。

例えば多様性を重視する政党があるとして、それに対する均質化を望む政党があるとする。当然意見の対立は起こる。政治は勢力争いそのものである。その対立のせめぎあいの中で、数々の政治的判断がされていく。その中には多様性を歓迎するものもあれば、均質性を是とするものもあるだろう。

 

政治によって生じる共同体も人間が生きてくために最低限度の尊厳を獲得するために必要なものである。

では我々は政治の共同体に参加するときには、どうすべきなのだろうか?簡単である。すべてを政治決定させなければいいのである。すべてを政治決定させないために、我々は政治決定を行うのである。

我々は共同体の中で生きている。共同体にいる我々一人一人には物事を評価する価値基準というものがある。

制度を網の目のように細かくしいて行くのではなくて、制度ではなく我々自身が主体的に判断していけばいいのである。その時価値判断の時よりどころとなるのは、規範となる試行錯誤を経て獲得した自己信念であり、共同体で培われた良き共同体への自らの意識である。だから試行錯誤を経て獲得した自己信念を基軸として共同体を作り上げる。その実践の細かいところは常に我々が主体的に判断してくのである。

民主主義は行為決定までに時間がかかるし、少数者の意見は切り捨てられる。しかし民主主義以外に適当な制度が我々の間に思い浮かばない間は、民主主義に頼るしかない。そして民主主義により弊害をこうむる場合には我々は声を上げ行動に出るべきなのである。

主権は我々の手にある。憲法は我々から国への命令である。民主主義の主人公は我々一人一人である。そんなことを自覚しながら一人一人が共同体の成員として生きて行けば、共同体の糞さは少しずつ減って行くのではないか。そうこれは共同体の成員への、そしてその共同体を超えた、共同体成員への呼びかけなのである。

 

 

 

 

 

 

 

参考資料

 

※1社会実情データ図録 http://www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/2770.html 2017.7.23閲覧

 

※2ウィキペティア 自由論(バーリン) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E8%AB%96_%28%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3%29 2017.7.23閲覧 

※3コミュニティ コトバンク https://kotobank.jp/word/%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%83%86%E3%82%A3-3469 2017.7.23閲覧

※4アソシエーション コトバンク https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%82%BD%E3%82%B7%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3-25719 2017.7.23閲覧

 

 

 

 

 

参考文献

 

MIYADAI.com BLOG 「ドイツ哲学的人間学と最先端の社会科学」の後編です 投稿者 miyadai 投稿日時 2015年1月7日 23時57分22秒http://www.miyadai.com/index.php?itemid=1062

/まもなく刊行される小室直樹先生追悼イベント第Ⅰ部の宮台司会部分の抜粋です 投稿者 miyadai 投稿日時 2013年4月25日 21時56分59秒 http://www.miyadai.com/index.php?itemid=999

「空気」の研究 山本七平著 文春文庫 1983年

ニッポン問題 M2:2 宮台真司宮崎哲弥著 朝日文庫 2006年

近代民主主義とその展望 福田歓一著 岩波新書 1977年

私たちはどこから来て、どこへ行くのか 宮台真司著 幻冬舎 2017年

終わりなき日常を生きろーオウム完全克服マニュアルー 宮台真司著 ちくま文庫 1998年

情報環境論集 東浩紀コレクションS 東浩紀著 講談社BOX 2007年

道徳感情論 上・下 アダム・スミス著 水田洋訳 岩波文庫 2003年

日本人のための憲法原論 小室直樹著 集英社インターナショナル 2006年

法の臨界[Ⅱ]秩序像の展開 井上達夫嶋津格・松浦好治[編] 東京大学出版社 1999年

言葉と存在の断絶

映画「断絶(原題:Two-Lane Blacktop)」を観た。

この映画は1971年のアメリカ映画で、登場人物たちが車に乗って旅をする道中を描いた映画、すなわちロード・ムービーである。

この映画の主人公はシェビー・ブロックという車種の車に乗った運転手であり、その車の整備士、そしてその車に同乗する少女、シェビー・ブロックと張り合うGTOという車の運転手がこの映画に登場する副次的な人物たちである。

この映画の名前にはほとんど人の名前は登場しない。代わりに登場するのが、車の車種の名前である。

シェビー・ブロックにはじまり、70年型カマロ、68年型バラクーダ、へミ・ロードランナー、70年型クーガ、GTOと車の名前は様々出てくるが、人の名前はほとんど出てこない。

特に主要な登場人物に近づけば近づくほどその人物の名前は出てこない。出てくるのは車と車の部品の名前とアメリカの州の名前だけである。

この映画の原題のTwo-Lane Blacktopとは、各方向に車線があるアスファルトの道路というような意味であるだろう。目の前に道路が東西南北様々な方向に向かって伸びているのを想像すればいいのかもしれない。

この映画はロード・ムービーである。つまり旅の出来事を描いた映画である。この映画で旅する手段は車である。車の旅の映画といったところだろうか。

先ほど、この映画では人名が登場しないと書いたが、この映画の主要人物たちの生い立ちいった背景は描かれない。特にこの映画に主人公のドライバーの対立者として登場するGTOという車に乗るドライバーの話の出鱈目ぶりは甚だしい。

GTOの運転手は愛車に乗って旅をして、旅の途中様々なヒッチハイカーを車に乗せる。GTOの運転手は、その都度同乗者に対して話をするのだが、その話は毎回全く違う。GTOの運転手は何か事実について語るということはしていない。出てくるのはその都度調度良いような車に関する話であり、旅の目的もはっきりしない。毎回言っていることが違うのである。

GTOの運転手はまるで虚構のような存在である。彼が口を開けば開くほど彼の姿はどんどん嘘のように思われ、我々の視界からぼやけて消えてしまいそうになるのである。

GTOの運転手はそこに居るのだが言葉により、それを捕まえようとしてとしも無理なのである。

なぜなら、彼の語っていることの現実性はないに等しいのだから。GTOの運転手はそこに居るようでそこには居ない。

しかしだとしたら私たちの目の前の存在について、それがそこにあることを示すことができるのだろうか?いくら言葉を綴ってみても、そこにあるのはただの虚構なのだから。言葉により存在を示すのは困難である。そこに実在するものがあったとしても。