映画『TITANE/ チタン』(2021年、フランス)では、主人公の体の中に埋め込まれたチタン、主人公の妊娠する車との間の子供という、内部の中にありながら内部化されず、内部から滲み出てくる外部性が現れる。それは、人間の内部にありながら、馴致不可能で、同化せず、異物である外部性であり、主人公アレクシアを軋ませ、怯えさせ、抑うつにさせる。主人公は、映画の冒頭で車との子供である外部性を妊娠して、ラストでその外部性を出産する。その外部性と共に主人公アレクシアが生きて、そしてラストには主人公の仮の父親のヴィンセントがその外部性を抱くことでこの映画「チタン」は終わる。ここで描かれるのは、外部性との共生だ。果たして、映画「チタン」における外部性とは何だろうか? 人間は果たして、内部に侵入し、内部を変形させる外部性に、責任を持ち、倫理的に接することができるのだろうか?こう問いたい。
映画「チタン」には、幼少期に父親との世間的によくありそうな不和が原因で、頭にチタンを埋め込んだアレクシアという女性が主人公として登場する。アレクシアは体にチタンを埋め込んでおり、人間でありながら少し人間とは違う存在になっている。アレクシアは見た目は人間の女性であるが、頭の内部にはチタンを埋め込み、それはアレクシアが社会に完全に溶け込めないことを示している。アレクシアは、32歳になりダンサーとしてお金持ちの両親のもとで暮らしており、おそらく医者である父親との関係は良くない。アレクシアは、映画中で殺人を何度も犯す。それは、自分が恋人としての責任を果たすことへの抵抗だ。恋人として、ましてや親としての責任を引き受けることをアレクシアは拒絶している。あるショーの後に、しつこく付き纏ったファンを殺して、その直後に車とセックスをして、車との間の子をもうける。するとアレクシアは、体にテープを巻いて、女性であること、妊娠していること、子供を産むことを否定しながら生き始める。そして、殺人の容疑による逮捕を逃れるために身分を偽る。アレクシアは、エイドリアンと名乗り、ヴィンセントの男の子供として迎えられる。ヴィンセントは、アレクシアのことを何も言わずに受け入れる。アレクシアは自分が女であること、妊娠をしていること、妊娠による体の変化を拒絶しながら、ヴィンセントの関係から責任を自認して、成長へと向かう。そして、アレクシアの”混血児”の出産は、ビンセントの成長の次なる成長を予見する。
アレクシアは、幼少期に頭蓋にチタンを埋め込み、車とのセックスで車と人間との間の混血児を妊娠する。アレクシア自身が、社会の内部から幼少期に逸脱しており、その逸脱からアレクシアは、車とセックスできる体になる。アレクシアは、車との間の子を妊娠することにより、体の中に外部性を抱えることになる。外部性とは、社会の内側で成立する規範・同意が及ばない領域だ。人間社会のルールではなく、社会の外である世界のルールが外部性では覆う。外部性は、社会に侵入すると危機をもたらすが、同時に社会のルールを相対化する。そして、その相対化は社会から排除されてきたものを、社会内に包摂する契機にもなる。排除されてきたものを社会に包摂する時に、倫理が生まれる。
アレクシアは、外部性を受け入れることができない。それは、アレクシアが、殺人の罪を犯して警察に追われるために、自分の身分を隠していることから読み取ることができる。アレクシアは、ヴィンセントの子供であると偽って身分を隠して、女性ではなく男性として生きようとする。アレクシアは、体にテープを巻いて、胸の膨らみや、妊娠によって大きくなっていくお腹を締め付ける。アレクシアは、女性であることの外部性や、妊婦であることの外部性、母親であることの外部性を隠蔽して生きようとする。がしかし、アレクシアは人間であり責任から自由になることはできない。そして、アレクシアは、子供を産むという責任に向き合うことになる。それは、人間の逃れられない性だ。アレクシアは、自分の中の外部性にどう応答していくのか?
哲学者のエマニュエル・レヴィナスの他者性の倫理は、思想の世界ではよく知られており、レヴィナスの他者に関する多数の論文もある。レヴィナスは言う。人は他者と出会い、責任を持つことにより、倫理がその人の中に立ち上がり、それによりその人の主観ができると。他者とは、無限であり、無限は欲望である、とレヴィナスは言う。つまり、欲望とはフロイト的に言うならリビドーだ。リビドーは主体の内部において、他者を可能にする契機であり、倫理が立ち上がるための”霊的な力”だ。リビドーとは簡単に言うと、相手と繋がりたい欲求のことだ。こう考えていると、他者とは、自分の中にあるリビドー、つまり他者と繋がりたい欲求が、自分の中に他者を映し出したものと考えることができる。人間は、自分で見ることを通じて世界を感じる。それは、自分の中に生じたものが、自分の中にある像を生じさせるということでだと言える。よって、他者が現れ、責任が生まれ、倫理ができるのを可能にするのは、自分の中のリビドーであると考えることができる。だからこの場合、リビドーを霊性であると考えることができる。アレクシアを突き動かしていた、車へのリビドーは、他者により倫理が現れることの予告にすでになっている。アレクシアが映画の最後に責任を持つことは、映画の冒頭ですでに予感できる。
女性にとっての妊娠は外部性でもあった。ここで、フランスの哲学者でありフェミニストでもある、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの著書「第二の性」の英語版からの引用を載せる。
"In natural circumstances the conflict between the interest of the feminine individual and that of the species is so acute that it often brings about the death of either the mother or the child: it is human intervention, medical or surgical, that has considerably reduced - and even almost eliminated - the formerly frequent mishaps." (p.485)
"自然の状況下では、女性個人の利益と種としての利益との対立が極めて激しく、しばしば母親または子どもの死を招くことがあります。医療的であれ外科的であれ、人間の介入が、かつて頻繁に起こっていた事故を大幅に減少させ、さらにはほぼ排除しています。"
この文章から理解できるのは、女性にとっては、妊娠というのは、死の危険性が伴うものだったということだ。死とは、生の外部にある。つまり死とは、外部性のことだ。アレクシアも死の危険性を感じながら、同時に、その死の可能性をもたらす妊娠が、人間とはどこか違う、つまり、人間と車の間の子供であることに強い不安感を覚えている。それは、映画「ローズマリーの赤ちゃん」で主人公の女性が悪魔の子供を妊娠するという描写と類似しいている。妊娠は、体の内部に”何か得体の知れないもの”があるという、主体の内部を変形させる外部性として現れる。
サウジアラビアの大学が出した論文”Reasons for childbirth‑related fear among pregnant women. A cross‑sectional study in a teaching institution” 妊娠女性の間での出産関係の恐怖の理由。教育機関でのクロス・セクショナル・スタディ の要約ではこう言われている。
"The primary fears included the fear of the baby being injured during delivery, fear of something being wrong with the baby, fear of needing a CS, and fear of experiencing tearing during birth (episiotomy). Older age, having an abortion, or having a vaginal birth were significantly associated with increased childbirth fears."
"主な恐れは、分娩時に赤ちゃんが負傷することへの恐れ、赤ちゃんに何か問題があるのではないかという恐れ、CS(帝王切開)が必要になることへの恐れ、そして出産時に裂傷(会陰切開)を経験することへの恐れでした。高齢、堕胎、または経腟分娩は、出産恐怖の増加と有意に関連していました。"
つまりは、現代においても、女性は、出産の恐怖に身を置かざる得ない状況があるということだ。出産は、死や外傷や精神的ストレスという外部性と女性が向き合うことであるという現実をこの論文は示している。
映画「チタン」や、レヴィナスや、ボーヴォワールや、サウジアラビアの大学の論文が示していることは、女性はセックス・妊娠・出産に関して、責任を持ち自らの中に倫理を新しく確立することだ。その時の他者とは、赤ちゃんだ。妊娠中の赤ちゃんとは、外部性である。そして、赤ちゃんを出産することは、倫理が立ち上がることに等しい。つまり、妊娠中の赤ちゃんは外部性となり、妊婦自身を崩壊させ、赤ちゃんが生まれると同時にまたそこに倫理が立ち現れる。そして、それはまた、ヴィンセントにおいても赤ちゃんという他者によって新しく倫理が立ち上がることを示している。
