なぜ勝たないと良いとされないのか?

映画「テキサスの五人の仲間(原題:Big Deal at Dodge City/A Big Hand for the Little Lady)」を観た。

この映画は1966年のアメリカ映画で、ポーカー・ゲームによるギャンブルを描いた西部劇映画だ。原題は2つ確認できたが、この両方ともポーカーの役が良いことを示すものだと思われる(big dealの意味は「大したもの」、big handの意味は「大きなかけ」だ)。

邦題のタイトルは「テキサスの五人の仲間」になっているが、これは映画中に登場する五人組である2つのグループを指していると思われる。この2つのグループは対立する関係にある。

一方は、P・C・パリンジャー、ドク、マリー、ジャッキー、メレディスからなる勝者のチームだ。他方は、ベン、ジェシーデニー、オット―、ベンから成る敗者のチームだ。ここに勝者と敗者と書いたが、この優劣は映画の最後でわかる勝敗によるものだ。

この映画の大まかな筋は以下の通りだ。ある街にはお金持ちの自己中心的な5人の男たちがいた。ベン、ジェシーデニー、オット―、ベンだ。彼らは年に1度だけ宿屋の奥の部屋で、1人3500ドルを賭けてギャンブルのポーカーをしている。

この5人は街で大きな顔をしていて、自分の立場が優位であることをいいことに、弱い人たちの必死の声も聴き入れようとしなかった。

例えばオットーは自らが弁護する被告を置き去りにして年に一度のポーカーにやってくるし、ヘンリーは自分の娘の結婚式の途中に突然ポーカー・ゲームへと行ってしまう。要するにこの街を支配する5人組は自己中心的で身勝手なのだ。

そこでこの支配者5人組を懲らしめるために、弱者の味方である5人組が結成される。その5人組がP・C・バリンジャー、ドク、マリー、ジャッキー、メレディスから成る弱者の味方の5人組なのだ。

映画中ギャンブルの素人であると偽ってポーカー・ゲームに勝つマリーを、支配者5人組は自らを負かしたマリーを素晴らしい女性だと言う。何故か?それは、5人組のいかさまポーカーで勝ったからだ。ただ素人の女性が。

この映画で疑問に感じるのは賭けに勝った人を負けた人が素晴らしいと評価するところだ。賭け事に勝たなければマリーはダメな人間なのだろうか?否、賭けごとき存在に人間の良し悪しが判断できるはずなどない。それはギャンブラーたちが依存して脱することのできない問題ある価値観のように思われる。

アメリカの押し付ける民主主義

映画「アトミック・ブロンド(原題:Atomic Blonde)」を観た。

この映画は2017年のアメリカ映画で、スパイ・アクション映画だ。この映画の背景には、1989年の11月のベルリンの壁崩壊がある。

映画の舞台となる場所は、西ドイツと東ドイツだ。民主主義国家と仲が良い西ドイツと、共産主義国家と仲が良い東ドイツがあり、この映画の戦闘シーンは主に東ドイツだ。

映画の主人公は、ローレン・ブロートンというアメリカ人だ。ローレンはCIAに所属する諜報員だ。そしてローレンはアメリカのCIAの諜報員として、イギリスのMI6と、ソ連KGBに潜入している。

つまりローレンは3つの国の諜報機関に所属しているが、ローレンの第1優先とする目的となるのは母国アメリカの利益だ。

この映画の中でキーとなるのは、諜報員の名前が載ったリストを誰が手に入れるかということと、二重スパイ、サッチェルとは誰かということだ。前述したように二重スパイサッチェルサッチェルとはローレンのことだ。

そしてもう1つのキーであるリストは誰の手に渡るか?ということであるが、答えをいってしまえば、リストなどもともとありはしないのだ。二重スパイサッチェル=ローレンの作った偽の情報である諜報員リストなるものは、アメリカの国益のためのおとりなのだ。

サッチェルと諜報員リストが繋がるのがこの映画の見どころであるのかもしれない。アメリカの作った偽の情報を巡って、イギリス、フランス、ソ連アメリカが対抗しあうのがこの映画の構造だ。

もちろんアメリカとしては自らの作り出した情報の有効性を確保するのがおもな対抗戦への参加の目的だろう。それに対してイギリス、フランス、ソ連アメリカの偽情報を本物であると信じているため、情報の非対称性が生じて、アメリカが優位に立つのだが。

この映画はアメリカのCIA職員であるローレンが母国に帰って幸せなのは良いとしても、アメリカの目的達成は、誰のためのハッピーなのかという疑問がよぎる。アメリカの進む道が常に正しいのだというのがこの映画の主張なのだろうか?

アメリカの進む道が常に正しい?東ドイツと西ドイツの統一が、ドイツの人々を幸福にしたのか?旧東ドイツと旧西ドイツの間に経済格差があったとしても、とりあえずは民主主義がドイツに成立して良しとしてもだ。

ドミニカ、グアデラマ、ニカラグアパナマ、中東に対してアメリカがとった行動は、良いことだったのか?仮にアメリカの推し進める民主主義とやらを良いとしても、これらの国に真の民主主義はもたらせられたのか!?

人体内の旅はサイケデリック

映画「ミクロの決死圏(原題:Fantastic Voyage)」を観た。

この映画は1966年のアメリカ映画で、SF映画だ。

この映画では、人や物が細菌のサイズになって、人体の中で人体の治療をするという空想的な話だ。人間や物を縮小する技術がこの映画の中では開発されている。政府主導によって。

だが、その縮小技術には欠点があった。その欠点とは、人や物を縮小できる時間が限られていることだ。その縮小する技術では人や物は60分だけ縮小することができる。

しかし、その60分のというタイムリミットをなくすことができる技術を持つ人物がこの映画には登場する。それはベネシュという人物だ。ベネシュは縮小のタイムリミットをなくす技術を持ってアメリカ(?)にやって来る。

しかし、ベネシュを乗せた車は何者かの襲撃に遭い、ベネシュは脳に重大な怪我を負ってしまう。その怪我の治療に、縮小する技術が使われることになる。

人の体内に、潜水艦を使って人が入る。その過程がこの映画そのものだ。

人の体へは、チームとなって入っていく。潜水艇には、治療者、操縦者、指揮官、そして警備の人間が乗る。なぜ人体の治療に警備員が乗るのか?それは何か知らないものが治療者たちを攻撃するかもしれないからだ。作品中のこの示唆が、この映画の緊張感をさらに高める。

この映画の原題はFantastic Voyageだ。直訳すると“風変わりな航海”。

体内の様子はコンピュータ・グラフィックスや模型を利用して作られているが、この映像が実に不思議な感じだ。そう言うならばこの映像はサイケデリックだ。体内の映像に現実的なもっともらしさを求めているというより、まるで異世界が人間の体内あるようだ。

映画のセリフにも「人体は宇宙だ」というようなものもある。そうこの映画の中で描かれる人間の体内は、空想的で、法外で、風変わりで、異様で、素晴らしいのだ。

この映画が撮影されたのは、1966年あたりなのだろう。1966年が映画公開年だとすれば、映画の製作は2年前ぐらいには始まっていると思われる。その年は1964年となるのだが、この60年代にはサイケデリックなカルチャーが流行していた。

1967年にはサマー・オブ・ラブがあり、ヒッピーたちが街にあふれた。ドロップ・アウトしたり、ドラッグをやる人もいた。サイケデリックな60年代が生んだトリップ(旅)がこの映画なのではないのか?

被害者と加害者

映画「エル ELLE(原題:Elle)」を観た。

この映画は2016年のフランス・ベルギー・ドイツ合作映画で、映画のジャンルはスリラーだ。この映画のタイトルはフランス語で彼女を意味する。

この映画のタイトル通り、この映画の主人公はミシェルという女性(=彼女)だ。ミシェルは50代ぐらいの女性で、両親を持ち息子と息子の妻もいる。又、映画中両親は死ぬが、息子と息子と妻との間には、息子の実の子ではないが、子供が生まれる。

この映画の冒頭でミシェルは黒い覆面の男に襲われる。そしてレイプされる。しかしミシェルはレイプされたことを通報しない。レイプの犯人はミシェルの隣人のパトリックという男だ。

パトリックは暴力的な行動をとることでしか、性的に興奮することができない。いわゆる性的倒錯者だ。

ミシェルはそんなパトリックの歪んだ性欲を何と映画中で受け入れようとする。しかし、ミシェルはパトリックと自身との関係を歪んだものだと認識して、パトリックがミシェルをレイプしている最中に息子のヴァンサンに頭部を打撃させる。

このシーンの前でミシェルはこう言う。パトリックに対して。「あなたは、これが初めてじゃないわね。もうこんなことは終わらせましょう」と。

パトリックが女性をレイプしたのは1度だけではないとミシェルは推し測る。そしてパトリックの妻もパトリックの性的被害者の1人だったのではないかとこの発言から予測できる。

映画の最後の方でミシェルとパトリックの妻レベッカと会話するシーンがある。レベッカは言う。「ミシェル。あなたがパトリックの倒錯した性愛を受け入れてくれたことに感謝します」と。

ミシェルもレベッカもパトリックの性的倒錯について、パトリックが加害者であり、しかしながらもしくはパトリック自身が、自身の歪んだ性愛の犠牲者でもあったととらえているような視線がここには見られる。

しかしレイプはあくまでレイプだ。しかしそこで加害者が加害者になってしまった経緯を理解せずには、レイプの防止には繋がらない。

この映画の主人公ミシェルの父は27人の人を殺した殺人犯であり、母は若い男をあさるし、ミシェルの友人の夫とミシェルは浮気しているし、ミシェルの元夫の恋人の食べ物の中にミシェルは楊枝を入れる。

とにかくミシェルの存在は通常の通俗的な存在ではない。世間の目を超越しているところにミシェルはいるのかもしれない。レイプの被害者でありながら、レイプの加害者の気持ちを理解する女性ミシェル。そのミシェルの姿は、キリスト教徒たちの前にも悪として映るのだろう。

クライアントがロビー団体を通じて政治家をコントロールする

映画「女神の見えざる手(原題:Miss Sloane)」を観た。

この映画は2016年のアメリカ・フランス合作映画で、映画のジャンルはスリラーになる。この映画の主人公は原題にあるようにスローンという女性だ。正式な名をマデリン・エリザベス・スローンという。

スローンはロビー団体で働く女性だ。ロビー団体とは何かというと、企業団体などが雇った団体であり、雇い主の企業等のために働く団体だ。ロビー団体は雇い主の意向を叶えるために、政治家を支援する。

つまり例えば企業はロビー団体を通して自らの意向を政治家に伝える。企業はロビー団体を使って政治をコントロールしようとする。コントロールの道具として用いられるのはお金だ。

アメリカで政治活動をして生きていくためには議席を確保する他ない。つまり議員になることによって政治家は生活してゆくことができる。選挙で当選することが政治家にとっては一番重要なことだ。

選挙で勝つためには何が必要か?それはお金だ。選挙活動として有料メディアに出ることが、政治家が議席を得るためには欠かすことのできないものになっている。メディアに出るにはメディアにお金を払わなければならない。政治家の手元にそんな金はない。

ではどうやって政治家はお金を手に入れるか?それは援助によってだ。つまり企業などの団体により作られたロビー団体からのお金の援助によって、政治家は有料メディアに出ることができる。

つまり選挙に勝つためには、ロビー団体からの資金が政治家にとって欠かすことのできないものなのだ。

そしてロビー団体は自らのクライアントの意向に合わない政治家に資金を融通することはない。よって政治家はロビー団体の言いなり、つまりある特定の資金源となる団体に逆らうことはできない。

ロビー団体の一員として働くロビイストの意向はクライアントが決める。

この映画には銃を持つことに賛成する団体と、銃を持つことを規制すべきだという団体とが対立している。当然のようにそれぞれの団体は、自らのロビー団体を持つ。つまり銃賛成派のロビー団体と、銃反対派(規制派)のロビー団体が戦うことになる。

ロビー団体にとっての勝利とは何か?それは自分たちの意向をくんでくれる議員が議会の多数派になることだ。自分たちの意向に沿った制度、法が成立するように。つまりお金のある団体は政治家にどんどん金を流し、自らの意向を達成する。

つまり金のある者が、自身に都合の良いように政治をコントロールするという事態になる。ここに国民の合意ではなく、お金が国をコントロールするという事態が発生する。あるのは国民の合意ではない、あるのはお金による国のコントロールだ。

人の限界

映画「彼女がその名を知らない鳥たち」を観た。

この映画は2017年の日本のミステリー映画だ。この映画は、主人公の北原十和子の恋愛を描いた映画といえる。この映画で描かれる十和子の姿は恋に疲れているという印象を映画を観る者に与える。

この映画で十和子と関係を持つ男性は時間順に上げると以下の通りになる。①黒崎俊一②佐野陣治③国枝④水島だ。十和子は佐野陣治と出会った後は、陣治の家に同居しながら他の男と関係を持っている。

前述した4人の男性の内、十和子を性的欲求のはけ口のみとして利用しないのは陣治だけだ。陣治と十和子は性的関係にあるのだろうが、陣治以外の男は十和子を自分の利益のために利用することしかしない。陣治のみが十和子を1人の人間として受け入れる。

北原十和子は見た目が良くて、職業が立派(ホワイトカラー)の男が好きな女の子だ。ただ問題は、見た目が良くてホワイトカラーの男が好きな女の子が多いというところだ。つまり見た目が良くてホワイトカラーの男は女性を選びたい放題なので、自分の都合に合わせて女性を切ったり、選んだりする。

つまり、見た目が良くホワイトカラーの男は女性の気持ちを考えない。見た目がいい男たちは、ご都合主義である。相手の気持ち(この場合十和子の気持ち)は考えない。

愛が裏切られて裏切られて窮地に陥った人間はどうなるか?愛はいつしか憎しみに変わる。その憎しみで自傷に向かうのか、それとも外に向かってエネルギーを発散するかは人それぞれだと思われるが、高いストレスを抱えた人間は正気でいることなどできなくなる。

この映画に登場する男たちは陣治を除いて、強欲だ。この映画の男が望むのは地位と金と名声と女だ。そのためにはどんな酷いことでもする。

この映画の中で特に酷いのは黒崎と国枝だ。黒崎は自分の出世のために、国枝という権力者に、十和子を国枝の性欲の犠牲者とする。もしかしたら、この映画を観る人には、黒崎、国枝、水島のやっていることはたいしたことには映らないかもしれない。

しかし、十和子が追い詰められた先で暴力を発する時に、多くの人々はふと我に返るだろう。自分たちのしていることは何ということだったのかと。否、もしかしたら十和子の暴力の理由が分からずに、ただ恐怖するだけなのかもしれない。

人間は人間により時に癒され、時に傷つく。それを知らない人は罪深い。

共有と所有

映画「マザー!(原題:mother!)」を観た。

この映画は2017年のアメリカ映画で、映画のジャンルはサイコ・スリラーというものだ。この映画の内容を簡単に言ってしまうと、こうである。それはこの映画は破壊と創造についての比喩的な映画だということだ。

映画は詩人である夫とその妻の2人を中心として描かれる。そしてこの夫婦2人のパーソナリティーの対立を通して、破壊と創造についての比喩的な映画が成り立っている。夫婦の夫は共有を、妻の方は所有を表していると考えることができる。

そして共有と所有はこの映画の中では対立するものとして描かれている。この共有と所有との対立から破壊が生じて、すべてが破壊しつくされて、最後に再生するというのが、この映画の大雑把な筋ということができる。

共有と所有とは何か?例えばあなたはリンゴを手に入れたとする。それを他の人と分け合う。これが共有だ。他方、手に入れたリンゴを自分1人のものとする。これが所有だ。共有も所有もものを持っている状態には違いはないが、所有には独占するという意味合いが強く現れている。

共有は「皆と分け合いましょう」であるが、所有は「これは私のものです」と独占的主張をする。

この映画の主人公はヒロインである妻だ。通常映画では主人公は善人に、対立する人物は悪として分かり易く描かれる。つまりこの映画の中では、善=妻、悪=夫となっている。そして夫は共有を表し、妻は所有を表している。

つまり、善=妻=所有、悪=夫=共有という図式がこの映画の中では用いられている。善人である妻は弱々しく規範的に描かれるが、夫とものを共有する人々は強く、強欲で、規範から逸脱しているように見受けられる。

この映画に用いられているイメージは共有を悪とするような視線を観る者に与える。実際人間はこのような対立で現れるわけではない。むしろレベッカ・ソルニット [レベッカ・ソルニット 訳/高月園子, 2014]によると共有しようとする人々の方が善的な行為をする人たちだ。サンフランシスコ地震の後に人々が自発的(内発的)な善意のコミュニティを形成したように。

そして軍隊が規範の押し付けのために罪のない人々をどさくさに紛れて殺したという事実をレベッカ・ソルニットは示している。市民は無知で暴力的だから、軍が市民から街を救う。

さてこの場合街とは何のことだろうか?街とはこの場合ただの箱モノでしかないのではないだろうか?そこに人々の姿はないのだ。

 

 

参照文献

レベッカ・ソルニット 訳/高月園子. (2014). 災害ユートピア なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか. 千代田区神田神保町1-32: 亜紀書房.