”今ここで”から”いつかあそこで”を夢見て

映画「ニューヨーク、ニューヨーク(原題:New York,New York)」を観た。

この映画は1977年のアメリカ映画であり、音楽をバックグランドとして持つ2人の男女の物語である。この映画の主要な登場人物となる2人はフランシーヌ・エバンスとジミー・ドイルである。この2人の人物は“いつかは音楽で成功する”という夢を持ってニュー・ヨークに暮らす若者である。フランシーヌは歌手であり、ジミーはテナー・サックスのプレイヤーである。

この映画は分割すると大体3分の2の恋愛の模様と3分の1のエバンスの成功にわけることができる。物語の最初から3分の2は、エバンスとジミーの愛憎劇が描かれる。

ジミーは太平洋戦争に従軍していた元兵士で、音楽で人生を切り開こうとしている。一方エバンスはジャズの楽団でヴォーカルを務めている。ジミーはエバンスとエバンスの所属する楽団のポールというピアノ弾きから奪い取り、それから2人は結婚、子供を1人もうける。

ジミーは暴力的な夫で、エバンスは耐える女である。2人の恋愛も結婚もジミーの一方的な暴力的とも言える態度にリードされる。

エバンスはジミーの子供を身ごもった時、ジミーは子供は欲しくないと言う。ジミーは音楽で成功するという夢を果たすのに子供は邪魔だと考えているのだ。2人は子供のことでもめるが結局エバンスは子供を産み(男の子)、エバンスの元からジミーは去る。

そして、映画の残りの3分の1である。それは、エバンスが音楽の世界で成功してエバンスが出演する映像作品という形で映画では表現される。つまり、成功したエバンスがある女性(ペギー・スミス)が音楽で成功するまでを歌い演じるのである。

映画の3分の2が重苦しい男女間の、特に男性優位を描いたパートであるのに対して、この後半の3分の1は、ジミーの暴力から解放されたエバンスが生き生きと描かれている。

エバンスは成功して何もかも手に入れたようにその劇中劇では描かれるのである。地位と名誉と金と名声。スターとなって成功してそのようなものを手に入れると周囲(私たち)は信じて疑わない。

周囲(私たち)がそのように信じていれば信じているほどエバンスの成功は輝かしいものとして描き出されるのである。“私はニューヨークで成功した。つまり世界を手に入れたといってもいい”というような歌が、この映画のラストの辺りで歌われる。

人は成功を夢見る。それは“今ここ”ではなく“いつかあそこで”を夢見ているからだ。“今ここ”が貧しければ貧しいほど“いつかあそこで”は輝く。エバンスの“今ここ”は映画の前の3分の2であり、“いつかあそこで”は映画の後の3分の1で示され、後者も“今ここで”となるのだ。

権力は人を追い詰める

映画「海は燃えている~イタリア最南端の小さな島~(原題:Fuocoammare)」を観た。

この映画は2016年のイタリアのドキュメンタリー映画で、ナイジェリア、ソマリアリビアスーダン等の国の人々がイタリアのランペドゥーサ島に逃げて来る様子を撮影したものであり、その映像はランペドゥーサ島の日常の風景に割り込む形で描かれる。

この映画にはアフリカ大陸から逃れてやってきた人々が登場する。この人たちは前述した国以外にもエリトリア(アフリカ大陸の東)、チャド(スーダンの左、アフリカ大陸の中央の上)、ニジェール(チャドの左、アフリカ大陸の中央上)から来た国に住めなくなった人々である。

彼ら彼女らが国に住めなくなった主な原因としては紛争がある。アフリカのこれらの国々に住むことが困難になった人々がイタリアの最南端の小さな島ランペドゥーサ島に次々と到着しているのだ。

彼ら彼女らは船でやっくるのだが、その船は小さなボートであり、そのボートに人が何人も積み重なるように乗っているのである。船の席場所には、一等船室、二等船室、三等船室があり、それぞれ別料金になっている。

食糧や水を持っていない人々は脱水症状に陥ったりしている。ちなみに一等船室は1500ドル、二等船室は1000ドル、三等船室は800ドルである。彼らが水や食糧を持っていないのは、それらが手に入らないからであろう。持って行きたくても彼らの手にはそれが手に入らないのである。

一体アフリカはどうなっているのだろうか?遭難者の一人は皆の歌う歌を訳しながら歌う。「最初はサハラに逃げた。しかしそこでも殺されるし、犯されるし、暮らしもままならない。その次はリビアに逃げた。しかしそこでも同じ目に遭う。その次は海に逃げた」と。

この歌を歌っている人はナイジェリアの人で、ナイジェリアの状態を歌が教えてくれる。彼ら、彼女らは7日間、水も食料もなく船に揺られて過ごし、船では子供などが燃料の供給の人手として使われて、そのため全身に大やけどを負っている。燃料と海水が混ざったものが皮膚を焼いたのである。

その7日間の間には当然のように死者が出る。人が人を抑圧しているのか?明らかなことは権力を握りたい者同士が紛争をしていることである。権力への飽くことない欲求が、一部の人々を追い詰めているのである。

誰がこの悲劇を生んだのだろうか?それは一部の権力に憑りつかれた者なのではないだろうか?権力は人を追い詰めるのだ。

生きていること、死ぬということ

映画「あなた、その川を渡らないで(英題:My Love,Don’t Cross That River、原題: 님아, 그 강을 건너지마오)」を観た。

この映画は2014年の韓国映画で、映画のジャンルはドキュメンタリーである。

この映画の主人公は2人いる。それは韓国の田舎に住む年老いた夫婦である。2人の年齢は100歳近い。夫の方が妻よりも5歳年上である。

この夫婦には12人子供が生まれ、その内6人は幼くして命を失っている。老夫婦の妻の方が「服も買ってあげられなかった」と言って、6人の死んだ子供のために、子供服を買うシーンがある。

「服を買うお金がなかった」と夫婦は語るが、きっと当時の2人は金銭的に貧しかったのだろう。6人の死んだ幼子たちの話を妻がするのを聞いて夫の方は黙り込んでしまう。この6人の子供の死は、2人の間の闇の部分なのだろう。

人は誰でも死ぬ。当然のように。私も、あなたも。そしてこの夫婦はいずれは彼岸の世界に向けて旅立つ。この夫婦の場合は夫の方が先に天国に行くことになる。

はてさて、天国と書いたが、そんなものは本当にあるのだろうか?死の絶望の前に人は見たこともないものをあるかのように作り出す。生の世界があれば、死後の世界もあるのだと。

様々な宗教が人間の想像を絶するような彼岸の世界を“教え”という形でこの世に生み出している。しかし、そんなものが本当にあるのかどうかは誰も知らない。科学的に考えればそんなものはないのだろう。

しかし、その存在は人々を癒す。否、癒される人もいるというのが正しい表現だろう。

この老夫婦の妻は、夫が死んでも寒くないようにと、夫の死が近づいているだろう時期から、夫の服を燃やしていく。妻が言うには、燃やした服はあの世に行くだろう夫のための前準備なのだという。

この妻は、夫が天国へ行くかどうかは知らないだろう。あるいは知っているのかもしれない。しかし、科学はその存在を否定する。

人は想像を絶するような孤独に打ちひしがれた時、その孤独をないものにしようとして天国を作り出し、そこに住むという言うのかもしれない。それとも人は孤独のせいではなく、ただ自己の存在が無いという不安に駆られて天国を作り出すのか?

この映画を観て思うのは、自分の子供たちが怒鳴り合いのケンカをする時、もうすぐ夫が死んでいくという時、そして枯葉でじゃれ合う2人を見る時に、彼らが何を感じていたかということである。他者への想像力が自らの糧になると信じて。

未成熟な攻撃性が招く暴力

映画「グリーン・ルーム(原題:Green Room)」を観た。

この映画は2015年のアメリカ映画で、ジャンルはスリラーである。

この映画はパンク・バンドをしている4人組が、本当に攻撃的な人々の間に入ってしまい、悲劇が生じるというものである。つまりこの映画には、偽物の攻撃性であるパンク・バンドと、本物の攻撃性を持つポートランド近くの住人たちという図式がある。

パンク・バンドが攻撃的な精神を歌うのに対して、ポートランド近くの住人たちは攻撃性を地でいく、つまり本当に暴力的な人たちである。パンク・バンドは見せかけだけの暴力性で、ポートランド近くの人たちは人を刺すし殺すし、ヤクはやるいかにも暴力的といった人たちである。

このパンク・バンドとポートランド周辺の人たちとの対立はいつ生じたか?元々両者は両極に立つのだろうか?見た目がパンクで、ポートランドの人たちのような暴力的な人はきっといるだろう。

彼らがアイデンティティー的に対立しているとも言えるが、それだけでは殺し合いは生じない。殺し合いが生じるには決定的な不都合が生じなければならない。この映画の場合その不都合とは何か?

それはパンク・バンド(エイント・ライツ)のメンバーが、カウキャッチャーという精神的な暴力と肉体的な暴力が共存するバンドの殺人を目撃してしまうことだ。

エイント・ライツはアメリカ各地を旅する貧乏バンドだが、カウキャッチャーはポートランドを地元とするポートランドの恐い人たちの共同体に属するバンドであった。しかもカウキャッチャーというバンドのメンバー(?)が殺人を犯していたのである。そしてその殺人現場の地下には秘密の部屋があり、そこでは麻薬の密造が行われていたのだ。

エイント・ライツはいわゆる地元の共同体の罪を隠すために殺されてしまうという危機に陥ったのである。

パンクの一般的なイメージとして、モヒカン、恐い、攻撃的、不良、アウトローなどが上げられるが、地元共同体の外に所属するエイント・ライツのメンバーは、このイメージにとりつかれているようである。不良っぽいのがパンクなんだと。

一方、地元共同体の方はどうかといえば、彼らはパンクというイメージ通りに生活しているのである。簡単に言えば後者には「っぽさ」がない。直球に不良なのである。

パンク・バンドのメンバーたちは、これから本格的に不良か不良でないのか決まっていく人たちである。要するにエイント・ライツはまだ未成熟なのである。しかし映画は人の成長を描くものでもあるから、死闘の中生き残った人間たち(パンク・バンドのメンバーのような未成熟だった人たち)は、自ら生き抜くための攻撃性に目覚める。

そこには生きるための決定がある。殺されそうな時に彼らは武器を手にした。しかし、その決定は避けられないものだったのだろうか?非暴力の思想はこの局面では役に立たないものなのだろうか?

男性、女性、トランスジェンダー

映画「タンジェリン(原題:Tangerine)」を観た。

この映画は、2015年のアメリカ映画で、恋愛映画である。この映画の主な登場人物は売春に関わる人たちである。売る側(売春婦)、買う側(客)、売る側の仕切り役がこの映画の中心となる。つまりこの映画は恋愛を主題としながら、売春の世界を描いているのである。

この映画はロサンゼルスの売春街の日常を描いた映画とも言える。又この映画で売るのは、トランスジェンダーの人たちである。ペニスを持って生まれたことを好ましく思えない状況に取り囲まれ、そこから逃れられない人たちがこの映画の主人公である。

シンディとアレクサンドラ。2人は生物学的男性で性的には女性である。2人は親友というのがこの映画の設定である。

この2人を買う側の人物としてラズミックという男性が象徴的に登場する。ラズミックは娘を持つ一家族の夫であり、ラズミックが稼いで家を支えている。妻イエバはラズミックに対して強気に出れない女性である。

妻イエバはラズミックに堂々とした態度で接しているように一見思えるが、実は稼ぎ手の男がいないとどうにもならない弱い存在である。

エバは弱い存在である。しかし本当にそうなのだろうか?今現在の世界では家父長制が支配しているように見える。強い女性であってもガラスの天井を打ち破ることはなかなか困難であるように見える。

保守的な田舎へ行けば、女性がパートタイムで働くのが主となっているし、金が稼げるのは女性よりも男性である。

何がそうさせているのか?それは古くから続く習慣を成り立たせている制度に加担する、人々の保守的な考え方である。

1980年代女性の開放が日本でも叫ばれたが、女性が主導権を握ることに対して社会は寛容ではない。ラズミックの妻イエバに対しても社会はきつい風当たりで対応するのだろう。

女性とトランスジェンダーの立場はどうなのか?女性は男性より劣るのか?同性愛(生物学的)は異性愛に劣るのか?女性の立場は前述したので、トランスジェンダーについて考える。

近代が始まり、同性愛が隅に追いやられてここ最近やっと同性愛(生物学的な)への理解が高まってきたのかもしれない。新聞やテレビで、トランスジェンダーの話題を目にしたり耳にすることも多い。

ただそこで取り上げられる人は“特別な同性愛者”にはなっていないだろうか?私たちの日常の中に“特別でない同性愛者”は存在しているのか?“特別”という文字がなくなり、“同性愛”が特異ではなくなる日は近いのか?

全部自分色で染めてしまうのか

映画「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス(原題:Guardians of Galaxy Vol.2)」を観た。

この映画は2017年のアメリカ映画で、マーヴェル・コミックスのマンガを原作としたものである。タイトルに“リミックス”とあるようにこの映画はシリーズ第2作目の映画である。

この映画の主人公はエゴとメレディス・クイルの間に生まれた子供であるピーター・クイルである。

映画の第1作目ではピーターの父は不明であったが、今作でピーターの父がエゴであるということが明らかになる。

このエゴという名の父が何者なのかであるが、これは言葉では表現しにくい。ただし映画の説明によるとエゴが何者であるかは簡単に理解できるようになっている。

映像ではなく言葉でエゴを説明するとこうなる。宇宙空間があった。そこに脳が浮かんでいる。脳は宇宙に対して指令を送る。宇宙の成分で脳からの命令により、星が誕生する。その星に人型の生命体を作る。その生命体が宇宙の各地に行く。そしてその星(宇宙に浮かんでいる脳からできた星)と、各地の母親と呼ばれるような生命体に子供を作らせる。

星とセックスして植物が生まれ、その星の母親と呼ばれるような生命体とセックスして子供が生まれるのである。

エゴとは宇宙空間に浮かんでいた脳であり、その脳により生まれた星であり、その星から生まれた人型の生命体である。

エゴはなぜ宇宙のあらゆる場所に子を作ったのか?それは自らが宇宙そのものになるためである。永遠に自らが宇宙の全体となり、すべては一体となっている状態をエゴは望み、そのためのエネルギー源として自分の子供を使うのである。

この映画にはピーターの生みの父親としてのエゴと、育ての父親としてのヨンドゥ・ウドンタが登場する。エゴが一体化、同一性の象徴であるとするなら、ヨンドゥは多様性を象徴するかのような存在である。

エゴはピーターと同じ白人男性の姿をしているが、ヨンドゥはピーターと違い青い色の宇宙人である。ヨンドゥはエゴに雇われて、宇宙中に散らばったエゴの子供を集める仕事をしていた。

ヨンドゥは、エゴが自らの子供をエネルギーとして使い、子供は殺されていくことを知り、ピーターをエゴに渡さずに、自らの宇宙船の船員として育てることにしたのである。

ヨンドゥが多様性を示すかのようなシーンがある。ピーターをエゴの手から助け、宇宙に葬られる時のヨンドゥを燃やす炎は七色に輝いている。そして燃えたヨンドゥの遺灰も虹色の輝きとして宇宙に散らばっていくのである。

宇宙は広く、多様な生命体が存在するというのがガーディアンズ・オブ・ギャラクシーの世界観である。それと対照的なのがエゴという存在である。多様な色を自分という色で塗りつくそうとする。エゴは多様性の1つとしては満たされなかったのである。

時の癒しを待つ

映画「マンチェスター・バイ・ザ・シー(原題:Manchester by the Sea)」を観た。

この映画は2016年のアメリカ映画で、ドラマ映画である。

マンチェスター・バイ・ザ・シーとはアメリカ合衆国マサチューセッツ州エセックス郡ケープアンに位置する街の名前である。短くしてマンチェスターとも呼ばれる。

この映画の主人公リー・チャンドラーはマンチェスターで生まれ青年期の初期までマンチェスターで過ごした青年であり、暗い過去を持つ男である。

リー・チャンドラーの暗い過去とは何か?それは映画の中盤で明らかになる。

リー・チャンドラーにはランディという妻がいて子供も3人いた。子供の名前はスージーとカレンとスタニーである。ある日の夜、地元の仲間とはめを外して集団で自宅に帰ってきたリーは家の暖炉に木を2、3本くべて近くの店へ出かけた。

その時リーは暖炉にスクリーンを立てておくのを忘れていた。しかもその時リーは仲間とはめを外していた。はめを外すとは、マリファナやコカインをやり酒を飲むということである。

リーが買い物から帰ると家は火に覆われていた。妻のランディは逃げ出して助かったが、子供たちは逃げ遅れて火の海に包まれた。リーは警察から取り調べを受けるが、警察はリーに対して「これは誰にでも起こりうることだ。君に罪はない」と言いリーを開放する。

リーは自分に対する戒めの機会を失うことになる。つまりリーは自分の罪の償いをどうとっていいのかわからなくなるのである。

この映画ではリーの兄のジョーが死に、その息子パトリックの養育権がリーに託される。そしてリーがパトリックの面倒をみることになる。

ジョーの死から映画はスタートして、パトリックの身の振り方が定まるところで映画は終わる。この時系列の流れの途中にリーの過去がフラッシュバックのように回想される。

映画の中盤で、リーの苦悩の理由がわかると、次にリーがどのように贖罪を求めていくのかに焦点があたるようになる。

この映画では、父を失ったパトリック、子供を火事で亡くしたリーという2人の感情の回復を描いているといえる。

リーは感情の抑えが効かなくなるとすぐに暴力を振るってしまうタイプの人間である。リーの心が深く傷ついていればいるほど、リーの体は肉体的にも傷ついていくのである。ガラス窓を素手で殴り出血したり、バーで人に殴りかかり返り討ちにされたり。

映画の最後の辺りでリーは言う。「俺は乗り越えられない」と。リーの犯した罪は乗り越えるというよりも時が癒すのを待つしかないタイプの問題なのかもしれない。

リーは自分を責めるあまり、自身に対する好意に対しても自虐的に無視を繰り返す。リーの罪悪感は消えないかもしれないが、リーのそんな姿を見ていると時が癒すと信じてしまいたくなる。