男性、女性、トランスジェンダー

映画「タンジェリン(原題:Tangerine)」を観た。

この映画は、2015年のアメリカ映画で、恋愛映画である。この映画の主な登場人物は売春に関わる人たちである。売る側(売春婦)、買う側(客)、売る側の仕切り役がこの映画の中心となる。つまりこの映画は恋愛を主題としながら、売春の世界を描いているのである。

この映画はロサンゼルスの売春街の日常を描いた映画とも言える。又この映画で売るのは、トランスジェンダーの人たちである。ペニスを持って生まれたことを好ましく思えない状況に取り囲まれ、そこから逃れられない人たちがこの映画の主人公である。

シンディとアレクサンドラ。2人は生物学的男性で性的には女性である。2人は親友というのがこの映画の設定である。

この2人を買う側の人物としてラズミックという男性が象徴的に登場する。ラズミックは娘を持つ一家族の夫であり、ラズミックが稼いで家を支えている。妻イエバはラズミックに対して強気に出れない女性である。

妻イエバはラズミックに堂々とした態度で接しているように一見思えるが、実は稼ぎ手の男がいないとどうにもならない弱い存在である。

エバは弱い存在である。しかし本当にそうなのだろうか?今現在の世界では家父長制が支配しているように見える。強い女性であってもガラスの天井を打ち破ることはなかなか困難であるように見える。

保守的な田舎へ行けば、女性がパートタイムで働くのが主となっているし、金が稼げるのは女性よりも男性である。

何がそうさせているのか?それは古くから続く習慣を成り立たせている制度に加担する、人々の保守的な考え方である。

1980年代女性の開放が日本でも叫ばれたが、女性が主導権を握ることに対して社会は寛容ではない。ラズミックの妻イエバに対しても社会はきつい風当たりで対応するのだろう。

女性とトランスジェンダーの立場はどうなのか?女性は男性より劣るのか?同性愛(生物学的)は異性愛に劣るのか?女性の立場は前述したので、トランスジェンダーについて考える。

近代が始まり、同性愛が隅に追いやられてここ最近やっと同性愛(生物学的な)への理解が高まってきたのかもしれない。新聞やテレビで、トランスジェンダーの話題を目にしたり耳にすることも多い。

ただそこで取り上げられる人は“特別な同性愛者”にはなっていないだろうか?私たちの日常の中に“特別でない同性愛者”は存在しているのか?“特別”という文字がなくなり、“同性愛”が特異ではなくなる日は近いのか?