映画「ボンジュール、アン(原題:Paris Can Wait)」を観た。
この映画は2016年のアメリカ映画で、映画のジャンルは浮気未満恋愛映画だ。
この映画の主人公は、成功した映画のプロデューサーのマイケルの妻であるアンという女性だ。アンは、自分の仕事を持っていたが、仕事の共同経営者がアメリカからロンドンに引っ越したため、今は仕事を辞めている。
マイケルとアンの娘のキャロルは18歳になり、カリフォルニア大学に入り、子供が巣立ちをしている。マイケルとアンのロックウッド夫妻は、アンが仕事を辞め、子育ても終わり、人生の区切りになっている。
アンは夫マイケルとの時間を過ごしたいと考えているようだが、マイケルは仕事が忙しく、アンと共に過ごす時間のことをあまり重要に考えていない。そのマイケルにあるのは、妻を独占したいという所有欲だ。
だから、マイケルはアンを、ジャックというマイケルという仕事仲間が連れだすことを渋る。「ジャックはフランス人だ。人の妻にも手を出すのがフランス人だから、君(アン)をジャックと一緒に行かせることは気が乗らない」とマイケルは、口に出す。
マイケルが、ジャックとアンを一緒に行かせるのを渋るのには理由がある。それは、マイケルとジャックは、アンがいない時に、アンには当然内緒で、女性とも会っていたことがあるからだ。マイケルは映画プロデューサーだから、若い女性と会う機会も多い。
マイケルは、自分の過去の女性との経験を踏まえて、ジャックのことを警戒している。多分、マイケルは、ジャックが女性を口説く姿を何度も目にしているのだろう。既婚でも、男はつるんで、女性をあさる。そうマイケルは経験から知っている様子だ。
映画中で、アンは、マイケルがジャックとつるんで、女性とも関係していたことを、ジャックの口から聴くことになる。その時、ジャックが、マイケルがアンからの贈り物のブレスレットを、映画関係のおそらく女優になりたい女性に譲った話をする。
すると、当然アンはその話に不機嫌になり、ジャックとの夜のホテルでの食事の席から立つ。翌日は、ジャックからのモーニング・サービスで機嫌を取り戻すが。
なぜ、アンとジャックが、ホテルに泊まっているかというと、ジャックはアンを口説く気があり、マイケルはそのジャックの隠された意思を感じ取りながら、アンがジャックと、パリに向かうことを許したからだ。
アンは、ジャックの車に乗って、一直線にパリに行くことを願っている。ジャックは、アンを口説くことが目的なので、パリまでの道中を寄り道をしていくことをで、時間をかけて過ごそうとしている。
ジャックは、「ここの食事は最高なんだ」と、次々と寄り道をする。それに最初は抵抗しているアンだが、ジャックの楽しそうな様子に徐々に惹かれるようになっていく。アンは、ジャックに気を許していく。
ここまで書いたことでは、金持ちの不倫未満のお話といった感じだが、映画がシリアスになる瞬間が、この映画では2回ある。それは、アンとジャックの親しい人間の死を語るシーンだ。
アンには、マイケル以前の旦那との間に子供ができた経験がある。その子供の名前はデヴィッドという。デヴィッドには生まれつき病気があり、生まれてから三十数日の命で死んでしまう。
アンは、デヴィッドの死で、マイケル以前との旦那との関係が悪くなり、マイケル以前の夫とは別れることになる。傷心のアンは教会に入り、その時、世界中の子供を失った母親と繋がった気持ちになる。そのことをジャックとの道中で教会に入った時に、アンはジャックに思い出して語る。
「世界中の子供を失った母親」というのは、どんな人たちか? それを考えると、この映画は、何か巨大な恐ろしいものを感じさせる。難民として子供を失った母親。戦争で子供を失った母親。交通事故で子供を失った母親。子供が自ら命を絶つことで、その子供を失った母親。
世界中の子供を失った母親を思うとは、そういうことだ。世界には様々な幸福もあれば、様々な不幸もある。世界中の子供を失った母親と繋がるとは、世界中の母親子供を失った母親たちの気持ちを想像して、それに共感することだ。
アンの子供を失い、一つの結婚を失った話をして、すこし時間がたった後に、今度はジャックが近親者の死について話す。車を運転しながら。
ジャックには共同経営者の兄がいた。兄には息子がいた。ある日、兄は死んだ。ジャックの兄は自殺をしたのだ。ジャックの兄が自殺をしたことを知っているのは、ジャックとジャックの話を聴いたアンだけだ。ジャックの兄の子供は、ジャックの兄が自殺したことを知らない。
ジャックは未婚者だ。ジャックは、兄の残した息子を育てているようだ。ジャックは結婚の機会を逃している。兄の死因を隠しながら、兄の息子を育てるジャックは、兄の息子に嘘をつきながら育てていることになる。その嘘は、今はまだ必要な嘘かもしれない。
この映画は、食事をするシーンが多く出てくるシーンだ。ジャックは、食事をすることが大好きだとアンに語る。とにかくジャックは良く食べる。それに付き合ってアンも食べる。高級なことで知られる、フランス料理がこの映画では何度も登場する。日本人が日本食を食べるように、フランス人はフランス料理を食べる。なぜなら、そこはフランスだからだ。
ジャックの一番の思い出は、母親と食材を通して過ごした日々だ。アンの一番の思い出は、デヴィッドと過ごした日々だ。ジャックが料理好きなのには、ジャックの一番の思い出と関係がある。アンは、デヴィッドのことを一番の思い出だと思っている。
この映画は、前半は、ただの浮気未満旅行に映るかもしれない。ただ、映画が、死に触れる時、この映画の真意はそこにあるように思われる。先進国で過ごす、先進国のリッチな人たちの話が、急に世界中の人たちと繋がりを持つ話に変わる。
この映画は、先進国のリッチたちの、ただのお遊戯では終わらない理由が、この死を語るシーンにある。死は、先進国も第三世界もない。死は、誰にも等しく訪れ、そして、死からは誰も逃れられない。
この映画で、食事をすることは、生を謳歌することだ。そしてその背景には、死の存在がある。生と死は切り離すことができない。この映画は、死を抱えた人間が、生をその人たちなりに、精一杯生きている様子を描いた映画だ。
美しく見える先進国の生活の虚無を、告発すればこの映画はよりいっそう深いものになるかもしれないが、アンとジャックの死に関する描写で、一応、第三世界との繋がりが示され、この映画は少し深いものになっているのかもしれない。