古風な家族

映画「ワイルド・スピード ジェットブレイク(原題:Fast & Furious 9)」を観た。

この映画は2021年のアメリカ映画で、映画のジャンルはカーアクション映画だ。

この映画は、国際的な軍事的行為を背景として、家族の物語が描かれる映画だ。とある国の大統領(?)の息子が、アリエスという全世界のコンピュータを衛星を使って乗っ取ることができる装置を、手に入れようとしている。そのアリエスという装置があれば、世界を支配することが可能だ。

ドミニク・トレットとその仲間たちは、昔の政府機関に属するような昔の上司からのメッセージを受け取り、そのアリエスという装置の存在を知る。ドミニク・トレット愛称ドムとその仲間たちは、その陰謀を阻止しようとして、車やバイクに乗って大活躍する。

この映画の原題のFast & Furious 9のFast & Furiousを訳すと“とても速い”となる。Fastは”速い”、furiousは”激怒した”、”怒り狂った”という意味だ。Fast and Furiousは熟語で、他にも、”熱気に満ちた”、”騒々しい”、”勢いよく”、”熱狂的な”、という意味で通常使われる。この単語や熟語の意味に当てはまるのが、この映画だ。

このワイルド・スピード・シリーズは、車についての映画だ。車がカッコよくて、速くて、美女に囲まれていて、ドライバーはハンサムで、といったことを醍醐味とするような映画だ。車と美女と主人公の俺。それがこの映画だ。

ハンサムな主人公には、家族の物語がある。ドムの父親は、子供のうちで兄であるドムのことを気に入っていた。そして、ドムの弟のジェイコブは自分が父に愛されていないと感じている。父のお気に入りの兄と、父の愛を感じられない弟。

この兄弟は、カー・ドライバーであったレース中の父の死で、仲が決別することになる。兄のドムは、父親が死んだのは弟のジェイコブのせいだと思うことになる。また、ドムは、ドムの父は、ラフプレーをするリンダ―というドライバーのせいで死んだと思い、そのリンダ―を、ドムはぼこぼこにして刑務所に入ることになる。

刑期を終えたドムは、ジェイコブと車で決闘をする。そして、決闘に敗れたジェイコブは、家族のもとから去っていく。なんとも男の世界といった内容の逸話だ。父と息子2人の関係性。男の男だけの世界。

この映画には、強い女性も登場する。それは例えばジェイコブの妻だ。バイクの運転を得意とする妻レティは、バイクでドムの運転するスーパーカーと共に走る。レティのバイクの運転の技術は、凄いものがある。

ドムの青年期の家族の物語には、女性が登場しない。父と兄と弟の物語に、なっている。その物語の下敷きになっているのは、ギリシア神話オイディプス王を元にした、エディプス・コンプレックス的なものだ。

エディプス・コンプレックスとは、父を殺し、母と貫通するという形式の物語だ。この映画では、母の部分は一切出てこない。出てくるのは、父殺しについてだ。そして、このエディプス・コンプレックスに囚われているのは、弟のジェイコブの方だ。

ドムは父殺しを望んではいなかったとこの映画では、当初描かれる。それは、エディプス・コンプレックスを持たなかった者だけが、正当化される社会を表しているかのようだ。つまり、エディプス・コンプレックスを具現化すると、社会に適応できなくなる。

エディプス・コンプレックスという概念を世の中に登場させたのは、ジークムント・フロイトだ。この概念をフロイトギリシャ悲劇のオイディプス王から採った。

それ以来このエディプス・コンプレックスは、世界中に影響を与えた。特に物語の世界では、今でもこの映画のように影響が残っているようだ。

フロイトは、19世紀の後半から20世紀の後半まで活躍した精神科医だ。フロイトの理論は、今の精神医学ではメインではないが、それ以前は世界の精神科の治療で用いられてきた。今では主流ではないということは、フロイトの理論は時代遅れということなのかもしれない。

フロイトの理論を研究していて、今の日本の思想界にも影響があるのが、フランスのジャック・ラカンという人物だ。ジャック・ラカンが書いた著書は、ない。ラカンの書いた著書は、ラカンの講義の内容を、弟子がノートにとったものがもとになっている。

ラカンの文章は難解なことで有名だ。ラカンのこの弟子のノートによる本には、エドガー・アラン・ポーの「盗まれた手紙」などの引用があり、ラカンの発言を読み解くには、その引用もとになった本を読まなければ深い理解はできない。

ラカンの言葉の言い回しは、意味深で、回りくどい。それがラカンの言葉を難解なものにしている。だがラカンの信者は多い。それだけ、理解できたラカンの言葉には、そこにしかない言葉の意味があるということかもしれない。

ラカンフロイトの影響がみられるものの、エディプス・コンプレックスは、この映画でもわかるように、背景にぼんやりと見えるだけになってきている。つまり、フロイトの影響は、実は今日ではそのかすかな名残りをみることができるだけなのかもしれない。

この映画は、巨大な陰謀の映画かと思われるかもしれないが、この映画で一番大切なのは家族の物語だ。いわゆるラテン系の人種に焦点を絞った、家族の物語がこの映画だということができる。

血のつながりがないものが家族となり、新しい家族を作っていく。血のつながりのある家族には、昔からのエディプス・コンプレックスという、古臭い名残りがある。古臭い名残りとは違った新しい家族を作りつつも、古い家族を再生する。それがこの映画だ。

この映画には、サイファーという女性の大ボスが登場する。サイファーは女性で、家族を持たず、孤独で、人をコントロールすることに長けている。それは、突っ走って行くフェミニストの姿を現しているかのようだ。

サイファーは、突っ走って行くフェミニスト。つまり、ドムという家父長制を引きずる男とは相性が悪い。家族を疑うのが、フェミニストの在り方だ。フェミニストは、家父長制を受け入れるのか?

きっとサイファーのように突っ走ってしまったフェミニストには、ドムの作り出す家族は古臭いものに思えるに違いない。その点で、サイファーは新しい。ただ家父長制とサイファーは対峙することで、悪役としてしか描かれることになる。

つまり、見方を変えればサイファーは、フェミニストのヒーローになりえる。ドムのような因縁を持たず、家族から自由で、しかし、人間であることは変わりない人物。それがサイファーだ。

この物語は、急進的なフェミニズムは望んでいない。それがこの映画だ。古風な家族を望む、古風な男の映画。それがこの映画だ。