植民地支配

映画「エイリアン2完全版(原題:Aliens)」を観た。

この映画は1986年のアメリカ映画で、映画のジャンルはSFアクションだ。

この映画の主人公は、リプリーという女性だ。リプリーは宇宙航海士で、エイリアン・シリーズの第1作目のリドリー・スコットが監督したもので、既にエイリアン退治をしている。この第2作目の監督は、アバターで知られるジェームス・キャメロンだ。

この映画でも、映画の見どころになっているのは、エイリアン退治だ。第1作目では、エイリアンとの遭遇にも重点が置かれていたが、今回は、エイリアンそのものの存在を知ることということよりは、エイリアンを全滅させることに重点が置かれている。

映画の主な登場人物は、ウェイランドという会社の航海士であるリプリー、同じ会社のバークという男、そして傭兵たち、植民先でのエイリアンからの生存者であるウェイランド社の社員の子供の女の子のニュートだ。

リプリーは、植民先の惑星LV426で、先に植民した60から70の家族と連絡が途絶えていて、エイリアンによって滅ぼされたと思われるその惑星に、同僚のバークや傭兵たちと出発する。

リプリーは、冷凍睡眠カプセルに入っている所を、地球の近くを通りかかったために発見されている。リプリーは、57年間宇宙を彷徨っていた。それをウェイランド社が、回収した。そのウェイランド社の目的は、植民地を探すことだ。そして多分、資源を探している。

惑星LV426は、地球からの植民先だ。ここで、地球内でのヨーロッパ列国の植民地時代とその過程で、ヨーロッパの人たちがしてきたことを思い出すとよい。例えばスペイン・ポルトガルは南米を植民地として時に、現地の人を虐殺して、資源を横取りした。

現地の豊富な資源を横取りしたことで、ヨーロッパはそれまでヨーロッパになかったものを手に入れて、それはヨーロッパ人の生活の中に普及していった。ヨーロッパは、“資源の呪い”といわれる資源の搾取の元凶だ。

映画の中のセリフで、ウェイランド社の社員の女性の放つ印象的な言葉がある。「No indigenous life」という言葉だ。Indigenousとは“現地の”という意味。”惑星LV426には、現地の生命はいません”という意味だ。

ニュースなどで現地民を指す言葉で、Indigenous peopleという言葉がある。つまりこの表現からは、現地に住む人のような生命体はいませんと言っていることになる。果たしてそうか? 実は惑星LV426には、先に入植していた宇宙人エイリアンがいる。

ここで、アメリカについての神話を思い出して欲しい。アメリカに先住民が住んでいたことは、知られている。だがアメリカへの入植の際に、アメリカ先住民の人たちが虐殺されたことは歴史の表舞台にあまり出てこない。

つまり、アメリカにヨーロッパからの入植者に反抗したアメリカ先住民は、いなかったことになっている。つまり、アメリカにはヨーロッパ人が入植するまで、反抗的なアメリカ先住民は、アメリカ大陸には多くは、いなかったことになっていると言ってもおかしくはない。

アメリカは、惑星LV426と同じでいわば「No indigenous life」の土地ということにされている。惑星LV426は、植民地の代名詞であると同時に、具体的なヨーロッパの植民地であるアメリカを指しているように思われる。

つまり、エイリアン2アメリカに入植するヨーロッパ人の話で、入植先にいるのはエイリアンつまり先住民だったということになる。ちなみに英語のalienという言葉は、”地球外生命体の”、”異星の”、という意味の他に、”外国人の”、”異人種の”という意味もある。

ここで惑星LV426が、アメリカとイコールであると言ってしまうこともいいかもしれないが、それだとヨーロッパの植民地支配の全体を除外することになってしまいかねないので、惑星LV426に入植するというのは、すべての植民地支配の、宗主国としての日本などを含む植民地支配のメタファーとしてとらえることにしたい。

ではここで、エイリアンとは何者か? という話をしたい。もうすでにお分かりのようにエイリアンとは、植民地となる所に先に住んでいた現地民のことだと考えることができる。エイリアンは、アメリカ先住民や、南米の人たちや、韓国の人たちや、中国の人たちや、アフリカの人たちのことだと考えることができる。

こう考えると、エイリアンは植民地主義の被害者であるという視点が出来上がる。そして映画の中ではエイリアンの大群は、後からやってきた少数の植民者に虐殺される。それはまるで、南米の被植民地の歴史を示してるかのようでもある。

この映画を観る視点の一つがここで示されたわけだが、映画を観る人には、怖くて強いエイリアンを弱者である人間が、なんとか頑張って倒すという話に見えるかもしれない。しかし、虐殺されるのは人間だけでなく、エイリアンも同じことだ。

弱い人間? 強いエイリアン? その視点もある意味痛快だが、それでは事実を覆い隠すことになる。この大虐殺の勝者は、人間だ。つまり植民地支配が、完成したことになる。人間は、実は恐ろしい捕食者なのだ。

この映画には、もうひとつの別の物語がある。それは女の子供を失ったリプリーが、エイリアンに両親や兄弟を殺された女の子を、家族として受け入れる家族の再生の物語だ。ちなみに最後まで生き残る傭兵の男が、リプリーの夫ということになるんだろう。

この映画は植民地主義を描きつつ、そこで家族を喪失した者同士が家族として再生する物語を描いているということもできる。ただそこにある植民地支配の歴史を、忘れてはいけない。エイリアンは、虐殺されたのだ。

ちなみに植民地を探しているのは、多国籍企業ならぬ星間企業だ。