既成概念の逆転

映画「ビルとテッドの大冒険(原題:Bill & Ted’s Excellent Adventure)」を観た。

この映画は1989年のアメリカ映画で、映画のジャンルはSFコメディだ。

この映画はシリーズ作となっている。この映画「ビルとテッドの大冒険」が第一作目で、その次に「ビルとテッドの地獄旅行(原題:Bill & Ted’s Bogus Journey)」(1991)、そのまた後に「ビルとテッドの時空旅行(原題:Bill & Ted Face the Music)」(2020)が作られている。今回紹介するのは第一作目の「ビルとテッドの大冒険」だ。

この映画「ビルとテッドの大冒険は」簡単に言えば、歴史の試験に落第点のFが付きそうなので、公衆電話型のタイムマシーンに乗って歴史上の人物を現代に連れてきて、歴史の試験の発表をサポートしてもらうというものだ。

この歴史の試験の問題は「今現在のカリフォルニア州サンディマスを歴史上の人物がみたら何というか?」というもので、それを会場で参加者の前で発表するという形をとる。この試練を受けるのはビル・プレストンとテッド・ローガンという仲良しのバンド2人組で、もし試験が落第点ならテッドは警官である父親にアラスカの王立陸軍学校に送られてしまい、2人の中は切り裂かれる。

そこでその試験の手伝いをするのが未来からの使者だ。2688年のサンディマスからやってきたルーファスという使者は、2人が試験に合格するのを助けようとする。なぜなら未来は2人の作る音楽にかかっているからだ。

この映画はルーファスたち未来人の観点から観ると、とても分かりやすい。未来人がなぜ2人を助けるのかは映画の最後でわかるのだが、その理由を先に知っておくと映画が深く楽しめる。

この映画はおバカ映画というスタンスをとっている。ビルとテッドがとにかく馬鹿なことしか言わないのだ。中世のイギリスに行って鎧を着て、「俺たちメタリックだよね、メタルだ」と言うとメタルが流れる。

ソクラテス無知の知のことを「俺たちのことだよね」と言う。ソクラテスの無知の地は思考を重ねていくうちに発見された概念なのに、2人は何も知らないことを知っていることという単純な理屈でとらえる。ある意味あっているが。

セリフはビルが「お前馬鹿だなー」を連発するし、それに対して「あ、そっか」とテッドが返すもの間抜けな感じだ。2人はガレージでバンドにエディ・ヴァンヘイレンを入れよう、そしたら最高の音楽ができるんじゃねぇ、と言ってビデオを撮っているが、それはそれで他力本願だ。

しかし、そんな2人が世界を救うのだ。それは未来人ルーファスが、最後に教えてくれる事実だ。それはなんだか良いことのような気がしてくる。なぜなら2人は大成しようにも馬鹿だから角が立たないからだ。世界を救うのが天才だと、競争の勝者である彼らには同情が向きにくくなる。

馬鹿な2人なら、映画として愛することができる。なぜなら彼らは馬鹿だから、妙な劣等感を観る者が感じなくていいからだ。天才には敵ができるが、馬鹿には敵ができない。そしてある意味馬鹿は純粋に映る。彼らに嫉みはないように映るからだ。

そんな2人が未来を救う。なんだかいいような気がしてくる。なぜなら彼らは競争の敗者であり、敗者が世界を救うなんてそこには落差が感じられ、学歴重視の世界観からは何か痛快な解放がみられるからだ。

この映画は未来を救うのは、一体どんな人物? という観点から観るのがとてもいい。それは僕らの中の救世主観を変えるし、その観念の逆転のようなものがこの映画にはあり、それは学歴社会へのアンチテーゼにもなっているからだ。