野生と文明

映画「出逢い(原題:The Electric Horseman)」を観た。

この映画は1979年のアメリカ映画で、映画のジャンルはロード・ムービーだ。

この映画の主人公は2人いる。1人はソニー・スチールというカウボーイだ。そしてもう1人はハリー・マーチンというテレビ局のキャスターだ。

ソニーはカウボーイだが、この映画の舞台はこの映画の製作年と同じ位の時代だろう。よってソニーが、テキサスからカンザスまで数百頭の牛を運ぶキャトル・ドライブするカウボーイのことではないのは明かだ。

キャトル・ドライブは、アメリカの南北戦争の終わった(南北戦争が終わったのは1865年)後のアメリカで起こった出来事だ。つまり現代のカウボーイとはロデオをする人々という位の意味だ。

しかし、ロデオといってもそう簡単なものではない。荒れ牛にまたがって、振り落とされないように牛に乗り続けるのが現代のカウボーイの在り方だ。そこには人間が忘れてしまった野生が生きているのかもしれない。

ソニーはロデオの世界大会を5回連続で優勝したスター・カウボーイ(?)だ。しかし、映画に登場するソニーは既に全盛期を終えており、今はただの企業の広告塔になっている。カウボーイの姿で大勢の前に出て、アムコ産業という巨大な会社の一部門が作っている食品の宣伝をするのが、ソニーの仕事だ。

ソニーは、もし現代に野生が残されていたのだったら、その残された野生がカウボーイなのだとしたら、ソニーは野生を失ってしまった企業に飼いならされたカウボーイだ。

ハリーはテレビキャスターというまるで野生とはかけ離れた存在だ。人は文明により文化人になるべきだというのが、メディアの仕事といってもいい。しかし、その文化人とは一体何なのかということが問題であるのだろう。

この物語は簡単にいってしまえば、人に飼いならされたサラブレットを野生に返すという行為によって、企業に飼いならされてしまったソニーが、文明との折り合いをどのようにつけていくかだ。

金持ちがばらまくお金によってコントロールされているヒエラルキーの中で生きるのか?それともすべてを捨てて野生に返るのか?

この映画で映画を観ている者、つまり文明人は映画が進むにつれて、野生の中に放り出されている気分になる。それはまるで1960年代の後半に出現したヒッピーたちが、反資本主義を目指したかのようにだ。

文明と野生との妥協。それがこの映画の中で描かれているカウボーイ、ソニーの人物像として映画のラストに定まる。