ロボットと人間

映画「ウエストワールド(原題:Westworld)」を観た。

この映画は1973年のアメリカ映画で、SFスリラー映画である。この映画はとてもリアルな現実を模した、歴史を模したアミューズメントパークについての物語である。そのアミューズメントパークの名はデロスという。

デロスというのは3つのエリアから成り立っている。古代ローマのエリア、中世のエリアそして、西部のエリアである。

このそれぞれのエリアには歴史上に存在した世界が再現されている。建物だけでなく人間も再現されたものである。この場合の再現された人間というのはロボットのことである。

つまり3つのエリアには歴史上の時代が再現され、そこでは生身の人間に代わってロボットが動いている。

ではこれはどういうアミューズメントパークなのか?それはこのデロスという場所では、現実の世界で背徳と考えられていることがすべてOKなのである。特にこの映画の中で強調される背徳的行為とは、人殺しと、セックスである。また名誉欲についても人間はこのデロスを使って満たそうとする。

デロスには殺される専門のロボットや、セックスの相手をするロボットが存在する。人間の欲望を叶えるロボットたちが存在するのである。

映画の前半部ではロボットがデロスに遊びに来た客によってバンバン殺される。しかし映画の後半部では、今度は人間が殺される役のロボットに追われることになる。それは何故か?

それは人間の管理下に置かれたロボットたちが、人間に反逆するからである。

人間は人型ロボットを物としか思っていないという前提がこの映画では存在する。つまり創造主である人間は被造物であるロボットに何をしても罪にならないのである。姿形は人間でも、中身はただの回路でそこには尊い生命は存在しないというのである。

この映画の作り手は、ロボットにも生命のようなものが存在するのではないか?という立場に立っているように思われる。なぜならこの映画は、映画を観る者の前にロボットにも生命が宿るかもしれないという想定を提示するからである。

この映画を最期まで観た人には、ロボットの生命という未知のものが去来するのである。

スティーヴン・スピルバーグの映画にもこれと似たような作品がある。「A.I.」というのがその映画のタイトルである。人間が死んだ息子の代わりとして、子供型ロボットを買う。そして子供型ロボットには、母への愛情が育まれる。

人間は一体ロボットをどのように見ているのだろうか?取り替えの効く都合よい物か?それとも、人間の都合だけでは何ともしがたい生命というものを持った生命体としてだろうか?