言葉と存在の断絶

映画「断絶(原題:Two-Lane Blacktop)」を観た。

この映画は1971年のアメリカ映画で、登場人物たちが車に乗って旅をする道中を描いた映画、すなわちロード・ムービーである。

この映画の主人公はシェビー・ブロックという車種の車に乗った運転手であり、その車の整備士、そしてその車に同乗する少女、シェビー・ブロックと張り合うGTOという車の運転手がこの映画に登場する副次的な人物たちである。

この映画の名前にはほとんど人の名前は登場しない。代わりに登場するのが、車の車種の名前である。

シェビー・ブロックにはじまり、70年型カマロ、68年型バラクーダ、へミ・ロードランナー、70年型クーガ、GTOと車の名前は様々出てくるが、人の名前はほとんど出てこない。

特に主要な登場人物に近づけば近づくほどその人物の名前は出てこない。出てくるのは車と車の部品の名前とアメリカの州の名前だけである。

この映画の原題のTwo-Lane Blacktopとは、各方向に車線があるアスファルトの道路というような意味であるだろう。目の前に道路が東西南北様々な方向に向かって伸びているのを想像すればいいのかもしれない。

この映画はロード・ムービーである。つまり旅の出来事を描いた映画である。この映画で旅する手段は車である。車の旅の映画といったところだろうか。

先ほど、この映画では人名が登場しないと書いたが、この映画の主要人物たちの生い立ちいった背景は描かれない。特にこの映画に主人公のドライバーの対立者として登場するGTOという車に乗るドライバーの話の出鱈目ぶりは甚だしい。

GTOの運転手は愛車に乗って旅をして、旅の途中様々なヒッチハイカーを車に乗せる。GTOの運転手は、その都度同乗者に対して話をするのだが、その話は毎回全く違う。GTOの運転手は何か事実について語るということはしていない。出てくるのはその都度調度良いような車に関する話であり、旅の目的もはっきりしない。毎回言っていることが違うのである。

GTOの運転手はまるで虚構のような存在である。彼が口を開けば開くほど彼の姿はどんどん嘘のように思われ、我々の視界からぼやけて消えてしまいそうになるのである。

GTOの運転手はそこに居るのだが言葉により、それを捕まえようとしてとしも無理なのである。

なぜなら、彼の語っていることの現実性はないに等しいのだから。GTOの運転手はそこに居るようでそこには居ない。

しかしだとしたら私たちの目の前の存在について、それがそこにあることを示すことができるのだろうか?いくら言葉を綴ってみても、そこにあるのはただの虚構なのだから。言葉により存在を示すのは困難である。そこに実在するものがあったとしても。