肉体の形から性は規定されない

映画「殺しのドレス(原題:Dressed to Kill)」を観た。

この映画は1980年のアメリカ映画であり、映画の内容はエロティック・サスペンス・ホラーというようなところである。

この映画でメインに取り上げられてるテーマは性欲であるように思われる。

この映画の登場人物は精神科医のエリオット、エリオットに殺されたケイト・ミラー、ケイトの子供ピーター、エリオットがケイトを殺した証人となるエリザベス・H・ブレーク、ケイト殺人の担当となる刑事マリノである。

この中で悪役は、エリオットである。エリオットは性倒錯者であり、エリオットは肉体的には男性の形をしているが、精神的には男性側(エリオット)と女性側(ボビー)に分かれている。

エリオットの女性の面であるボビーは性転換手術を望んでいる。しかし男性側のエリオットはそうではない。男性面であるエリオットは女性に欲情するのである。

このエリオットという男性性を気に入らないのが、エリオットの女性側のボビーである。ボビーはエリオットが女性に欲情する度に、エリオットの男性側の人格に代わって女性面として現れる。

そしてボビーの持つ女性性(男が好きで、女には興味がない)は、自らの気に入らない女を許さない。ボビーにとってのエリオットは自分が存在するためには邪魔な存在なのである。よってボビーはエリオットの好む女性をこの世から消し去ろうとするのである。女が好きな自分をボビーは受け入れられないのである。

その人の性的趣向とうのはその人物の根本を決めてしまうような重要なものだとこの映画は訴えているようである。

もしエリオットの中のボビーが性的趣向に対して解放的だったらどうだろう。「エリオットの中のボビーは女性が嫌いだけど、エリオットが好きなら仕方ないか。どうせ性的趣向なんてどうなるかわからないんだから」。

こんなおおらかなボビーならば、エリオットが女性に欲情した時に、ボビーは殺人鬼として姿を現すことはなかっただろう。

ただ単にボビーが性的に厳格だったからこのような悲劇は起きてしまったのだろうか?そう、ボビーが性的に厳格なのは彼(彼女)一人に押し付けられる問題か?

それは違うだろう。人間は社会的な動物だと言われる。人間は他の人間なしには生きていけないものである。つまり一個人にとって他者とは無視できない存在なのである。

自分がYESと思っていても、複数の他者がNOというのならば、そのNOの意味に従ってしまうのが人間というものではないのだろうか?エリオットの中のボビーが極度な態度に出たのは社会に住む人々の責任であるのではないか?そう「エリオットの中のボビー」という表現自体が偏狭な見方であるように。