より良心的な行動とは?

映画「甘い生活(原題:La dolce vita)」を観た。

この映画は1960年に制作されたイタリア映画で、監督はフェデリコ・フェリーニである。この映画は、映画の主人公であるマルチェロという30代~40代位の男の人生の一期間を、マルチェロに関わる様々な人物と共に描いた映画である。

映画を通してマルチェロという男は、どんな女性とも結婚せずに、出会う女性を次々に口説いていく。口説きは成功することもあれば、失敗することもある。マルチェロを一途に愛そうとするエンマという女性が映画の中に登場する。

エンマは俗に言う家庭的な女性である。子供好きでもある。つまりエンマはマルチェロが望まないこと思う女性である。マルチェロが望まないエンマが持つ望みとは、“結婚して子供が欲しい”“愛する女は私だけにして”という望みであり、これは現在でも一般的にもてはやされる、人々の考えである。

しかし、マルチェロはこの考えに猛反発する。“僕は強制的な母性が大嫌いなんだ!!”とマルチェロは言う。

この映画の中にはマルチェロ父親も登場する。マルチェロ父親も、マルチェロとは違い家庭を持つことはしたが、実は夜遊び好きな男である。マルチェロ父親と似ているのである。

マルチェロは言う。“僕は父と過ごした記憶があまりない”と。マルチェロの中には“父の不在”という父親像がある(?)のだろう。マルチェロにとって父親とは空虚な存在なのである。

この映画の中には、キリストの像が登場する。キリストも父なる神から生まれた子供である。しかしキリストとマルチェロでは人物像がまったく異なる。キリストは愛の人であるが、その愛は人を裏切ることはない。キリストは博愛の人物である。

キリストはすべてを愛するが誰も傷つけない。誰も傷つけず、しかもすべての人々を救う存在である。マルチェロといえば、すべての人を幸福にすることはできない。特に女性(エンマ)に対しては。

マルチェロは多くの女性を愛そうとする。多くの女性を愛そうとしてエンマという女性を深く傷つける。マルチェロがエンマ以外とセックスしなければ、エンマは傷つかないのだろう。

キリストの愛はセックスなしの愛であるが、マルチェロは肉体的なセックスを含む愛の人であり、多数の人とセックスをしてそれぞれの人を愛する行為は、誰かに憎まれるのである。

映画の中には、スタイナーという人々が思い描くような理想的な父親が登場する。俗に言う“優しい父親”だ。しかし物語の終盤で、理性的なスタイナーという父親も、非理性的な衝動に駆られる。

スタイナーは理性的であるがゆえに、人間という生身のものを愛し通すことができなかった。スタイナーは理想を時間外(=死)に求めた。だから、マルチェロは肉体から離れないのだろう。

 

※啓蒙は理想的な人間を作り上げるのではなく、スタイナーのような非理性的な衝動を生じさせてしまうのではないか?啓蒙により理性的な人間を作り上げることは困難が伴うのである。啓蒙されて理性的と思われている人物より、啓蒙に失敗し従来的見方では非理性的と思われている人物が人間としてまともなことをしていることもあるのである。