個人の独創性と公共の利益

 映画「摩天楼(原題:The Fountainhead)」を観た。

 この映画は、アメリカのニューヨークに住む1人の建築家の男について描いた作品である。この映画の主人公である建築家のハワード・ロークは、過去になかったような独創的な建築を考える人物だった。

 しかしハワードの才能は周囲には馴染まないものだった。ハワードの建築に反対する人々はこう言う。「大衆に受け入れられるものを作れ。お前の建築は過去から逸脱してしまうような建築じゃないか。それじゃあ駄目だ。独創性など必要ない」と。

 ハワードの才能に反するような新聞社がこの映画には登場する。バナー新聞社という新聞社だ。バナー新聞社の総責任者ゲイル・ワイナンドはこう言う。「世論は私が作ってきた」と。そうなのだ、大衆をコントロールしているのは、新聞というメディアなのである。

 ゲイルのバナー新聞社は紙面にこう載せる。「ハワードの建築など必要ない」と。すると大衆はそれに反応して、ハワードの建築を不要なものとする。

 ハワードの大学の同級生であるピーター・キーティングは、建築を依頼されたが、自分の案というもの(オリジナリティ)がなくアイデアのあるハワードに助けを求める。そしてハワードの名を出さずにハワードの建築物が建つことになる。

 しかもハワードの建築が原案であることを知っている反ハワードの人々に、その建築物は、ハワードの独創性を台無しにしてしまうような装飾を与えられてしまう。それに反抗したハワードは自分の案とは違った建築物を爆破してしまう。

 ハワードの行為を、今度は擁護するようになった新聞社の総責任者ゲイルが、新聞で世論を操作しようとしたが、新聞社は反ハワードの勢力に乗っ取られてしまい、世論操作は成功しなかった。

 ハワードは建築物を爆破させたことにより訴えられる。そこでハワードは聴衆に対してこう訴える。「最初に火を発見した人がいる。火を発見した時のその気付きように、世の中はある人の独創性によって作り上げられてきた。人の持つ独創性は大切なものである。独創性とは人が生きていくために書欠かすことのできないものなのだ」。

 反ハワード派の言い分はこうである。「大切なのは自己犠牲の精神である。個人はなく、公共が大切である」。ハワードの意見ももっともだし、実は反ハワード派の言い分ももっともである。

 この映画ではハワードひいきに描かれているためかこういう反ハワード派の意見もある。「ハワードのような奴は刑務所に入れて精神自体を作り変えてしまえ!!」公共の利益のために個人の自由が犠牲になってもいいのだろうかと、この言い分は考えさせるのである。

 

※公共の利益と個人の自由との間の線引きは難しい。この線は絶えず更新されていくべきなのであろう。