崇高な尊厳との一体化は必要か?

 映画「死刑執行人もまた死す(原題:Hangmen Also Die!)」を観た。

映画の時代は、第二次世界大戦頃、場所はドイツに占領されたチェコスロバキアプラハである。映画はナチス・ドイツがチェコに置いた“死刑執行人”というあだ名を持つハイドリヒ総督が、チェコにある地下組織のメンバーである医師スヴァギダに暗殺される頃から始まる。

ハイドリヒ総督の暗殺の犯人を捜すために犯人の捜索をしているゲシュタポ(ドイツ占領軍)から偶然スヴァギダを守るのが、マーシャ・ノヴォトニーという女性である。

犯人が捕まらないことから、街には厳戒令がしかれて、夜7時以降に外出したものは射殺するという事態になる。そしてそのうちに、ゲシュタポチェコの市民の中から怪しいものを人質として捕えることになる。

それでも、スヴァギダは自分から出頭するようなことはしない。なぜなら、スヴァギダが所属する地下組織のリーダー格の男がそれを止めるからである。「君が出ていけば地下組織の存在がバレてしまう。君は地下組織の中で重要な人物だし、今回の暗殺の件で400人の死者が出ようとも、我々は何百万というチェコの市民を救うことができるのだ」と。

何百万人の命と400人の命を秤にかけるのである。

チェコ市民の人質の中にはスヴァギダを救ったマーシャ・ノヴォトニーの父、ノヴォトニー教授もいた。マーシャは父を助けるためにゲシュタポに向かおうとする。それを知ったチェコ市民たちは言う。「ゲシュタポチェコ人の行くところじゃない。お前はチェコ人を裏切るのか!!お前はチェコ人の恥だ!!」と、マーシャは暴力を振るわれる。

チェコナチスからの独立のための運動の手助けをしたマーシャを、独立を望む市民たちが責め立てるのである。なんて皮肉な事態であろう。

チェコの市民たちは厳戒令がしかれたために、独立のために闘っているスヴァギダがゲシュタポに出頭すればいいと言っている。地下組織の行為はチェコを救うはずが、チェコ市民たちのそして地下組織自らの首を締める結果となってしまっているのだ。

ゲシュタポに捕まったチェコ市民42人は次々に殺さていく。マーシャの父も最後に殺されることになる。

ゲシュタポによるハイドリヒ総督の暗殺者の追跡はどうなるか?ハイドリヒ総督暗殺の罪は、チェコ市民たちの協力により、チャカという地下組織に潜入しているゲシュタポへの密告者に着せられることになり、物語の最後にオチがつく。

当初は厳戒令の恐怖のために地下組織に対して冷たかった市民たちが、地下組織に協力をして嘘の供述をして、偽の犯人を仕立て上げて事件の終焉を迎える。

ところで、ナチスも、ナチスに抗う地下組織も、ナチスに媚びるチェコ人であるチャカも“愛国”のために自分たちの行動を行っている。チェコの市民もだろう。愛国のために多くの人びとが犠牲になるのが戦争であるなら、愛国とは一体何なのだろうか?国を愛する気持ちが殺人を行う。愛国とは乗り越えられるべきものではないのだろうか?