人間の生と破壊的な欲動

 映画「夢(英語タイトル:Akira Kurosawa’s Dreams)」を観た。

 この映画は8編の短い部分からなるオムニバス映画である。1話目から①「日照り雨」②「桃畑」③「雪あらし」④「トンネル」⑤「鴉」⑥「赤富士」⑦「鬼哭」⑧「水車のある村」までの計8作により構成されている。

 この8つの物語に共通することがある。それはどの物語にも日常とは異なる非日常的なものが登場することである。その非日常的なものとは1話目から①擬人化した狐②桃の木の精霊③雪女④戦死者の幽霊⑤ヴァン・ゴッホ原子力発電⑦鬼⑧水車村、という順である。

 6つ目の原子力発電所の事故は我々が遭遇した2011年3月11日の東日本大震災が引き起こした、福島第一原子力発電所事故により非日常よりも日常に沿った現実になっているといえる。

 その現実を予期するかのように、この映画の中には非日常が日常になってしまった話がある。それは④話目の戦死者が死んでも死にきれないと元隊長の前に現れる話や、⑥話目の原子力発電所の爆破事故、⑦話目の水爆とミサイル(核爆弾も?)による世界崩壊後の姿であろう。

 ④の話の中で元隊長は死にきれない元小隊員たちに向かって叫ぶ「私はお前たちが死んだのを戦争の不条理さや軍隊の非常さのせいには決してしない!!」

⑥話目の話の中で放射能の驚異の前に2人の子供の母親は叫ぶ「原子力が安全だと言った奴らを全員つるしてやりたい!!」

⑦話目の中で放射能の影響(?)で角が生えてきた元人間の鬼が叫ぶ「私は自然を大切にしていなかった。それを今は後悔している。この世にはもはや食べられるものは何もない!!」

この3つの叫びの中にはこの映画の監督である黒沢明の思いが込められている。黒澤は、戦争で人を殺したことを、人が死んだことをそれは非常時だったから仕方ないことだったと言って済ましてしまうことを許さない。個々の人々の死をそれは戦争だったから仕方ないと、普遍的なものにして解決しようとすることをひどく嫌う。

また、黒澤は原子力、核、水爆、終末戦争というものに非常に危機感を抱いていたに違いない。⑥、⑦話の世界の描き方には、人を心の底からえぐり出すような強い、強いそして暗い、暗い描写といったものがある。

黒澤は人がしていることに対して徹底的に悲観的な視線を向けるのである。人の技術は人を幸せにするのか?私(黒澤)の目にはそれは否であるようにしか見えないと。

最終話で、水車村の老人は言う「人は学者たちの発明を便利だと言って有り難がっているが、そんなものは人が求めているものとは違うのではないのか?」便利と思われている発明という合理性は、人間の生存に対して、合理的ではありはしないのではないのか?と。

 

※黒澤は全ての技術が人間を不幸にすると言っているのではない。水車村の水車を黒澤は好ましいものとして描いているようである。