政権が放送局を支配する

映画「共犯者たち(朝鮮語:공범자들・英題:Criminal Conspiracy)」を観た。

この映画は2017年の韓国映画で、映画のジャンルはドキュメンタリーだ。

この映画の主人公は、テレビ局の人たちだ。そしてこの映画の滑稽な悪役は、韓国の政府の命令でテレビ局を動かそうとするテレビ局の重役たち、特にテレビ局の社長と放送文化振興会の長だ。

韓国の歴代の大統領と、韓国のテレビ局は密接なつながりを持っている。韓国の大統領が変わると、テレビ局も大統領の意向通りの人事に再編成されて、テレビ局の報道が時の政権の意図のもとで動くようになる。

つまりテレビ局は大統領の意向、つまり時の政府の意向に沿った放送を流し、その意向に反抗するテレビ局の社員は、解雇されたり、番組を下ろされたり、番組が中止になったり、または正しい情報を流すのをシャットダウンする方法がとられたりする。

韓国政府は、テレビというメディアにより国をコントロールしようとする。この映画中で、メディアをコントロールすることで、国をコントロールしようとするのは、イ・ミョンバク政権とパク・クネ政権だ。

この映画で登場する韓国のメディアは、3つある。そのうち2つは公営メディアで、KBS(韓国放送社)とMBC(株式会社文化放送)だ。もう一つは民間の株主によって運営されるYTNだ。

この映画では主にKBSとMBCという2つのテレビ局が、政権の意向に沿わない報道番組やニュースのコメントを流したとして、テレビ局に規制をかける様子が描かれている。

KBSには警察が押し入り、その時のテレビ局の社長が解任される理事会をスムーズに行わせる。MBCには検察がやって来て、MBCの周りを取り囲み、政権に批判的な報道をした番組の社員を、社員がテレビ局を出てきた際に逮捕する。また、どのテレビ局でも番組の打ち切りや、社員の解雇もしくは移動が行われた。政権に反する報道をやめさせるためだ。

韓国では独裁政権や軍事政権が、あった過去がある。例えば、パク・チョンヒは独裁的な大統領だったし、チョン・ドゥファンは軍事政権で、独裁的な政権だった。

パク・チョンヒの独裁の様子は映画「KCIA 南山の部長たち」で描かれているし、チョン・ドゥファンの独裁の様子は映画「タクシー運転手 約束は海を越えて」で描かれている。特に「タクシー運転手」では、光州で学生・民衆のデモを起こし、そのデモを独裁政権が軍が弾圧して死者が出る様子が描かれている。

その独裁政権の名残りというのが、この映画「共犯者たち」で描かれている、政府によるメディアの統制だろう。時の政権の意向に沿わないテレビ局は中身を入れ替えてしまえ、というのが政府の方針だ。

日本でも政府の意見を忖度する、ダメなメディアの様子が第二次安倍政権の時に露呈した。これも、一種の政府によるメディアの統制だ。政府の気に入るような放送を流して、政府の問題をうやむやにしてしまう。

日本には日本記者クラブというものがあり、政府に気に入られた記者でなければ官邸で行われる記者会見に出ることができない。その問題性を指摘してきたのが、ビデオ・ニュースの神保哲生記者だ。

記者が政府にする質問はあらかじめ決められており、記者はその決められた質問通りの質問しかしない。質問の答えはあらかじめ政府の方で準備されている。つまり記者会見は出来レースで、報道の自由は見せかけだ。

日本でも、韓国と同じようなことが起こっていたことがわかる。時の政権はメディアを支配して、メディアも政府の意見を忖度する。何が報道の自由だと言いたくなるのは、当然のことだ。政府は民衆の意見を捏造しようとする。

これは政府による、民主へのプロパガンダだ。偏向報道を当然のこととして、民衆の間にある特定の意見を捏造する。民衆はあたかもそれが、自分たちの意見だというように思い込んでいる。合意の捏造。

映画「すべての政府は嘘をつく」でも、メディアによる合意の捏造について描かれている。この映画「すべての政府は嘘をつく」では、広告に縛られない寄付によって成り立っている放送局や雑誌などが登場する。

Democracy Now!(デモクラシー・ナウ!)、The Young Turks(ザ・ヤング・タークス)、Mother Jones(マザー・ジョーンズ)、The Intercept(ザ・インターセプト)、Tom Dispatch(トム・ディスパッチ)などが、独立したメディアとして取り上げられている。

日本にも、ビデオ・ニュースという独立したネット上の放送局が存在する。

政府に報道の自由が歪められて、偏向報道しかできなくなったメディア。または広告収入、スポンサーの意向を気にして、真実を報道することができない放送局。それは韓国にも、日本にも、アメリカにも存在する。

その事実にこの「共犯者」という映画はあらためて気づかせてくれるし、独立した放送局、雑誌、ネット上のメディア、収益に縛られないメディアの重要性を考えるきっかけもまたこの映画「共犯者」は、私たちに与えてくれる。  

壊れた地域社会で

映画「行き止まりの世界に生まれて(原題:Minding the Gap)」を観た。

この映画は2018年のアメリカ映画で、映画のジャンルはドキュメンタリーだ。

この映画の主人公は、アメリカのイリノイ州ロックフォードに住む、黒人のキアー、白人のザック、アジア系のビンという少年たちだ。この映画で3人の少年たちは、成長をして大人になる。そうこの映画は、成長についての物語だ。

イリノイ州のロックフォードは、ラストベルトと呼ばれる地域だ。ラストベルトとは、錆びついた工業地帯という意味だ。つまり、もともと工業地帯であったその地域は、海外の安い製品に仕事を奪われて、今(映画撮影当時)では産業のない、つまり仕事のない地域になっている。

イリノイ州の労働者の6万人の47%が、時給15ドルに満たない。また、ロックフォードは人口の比較的少ない地域の中では犯罪率が高く、その犯罪の4分の1が家庭内暴力だ。そして今では、人口が流出している。つまり3人の住むロックフォードは、街として最悪の状態にある。まさに「行き止まりの世界に生まれ」たのが3人の少年たちだ。

この映画を撮っているのは、3人の少年のうちのビンだ。ビンは、映画の勉強をしているようだ。ビンが映画を撮るきっかけとなったのは、10代の頃から、友達がスケートボードやバカ騒ぎをするのを撮っていたからだ。その映像の中には当然、キアーやザックが含まれている。

そしてビンが映画を撮る動機は、ロックフォードに住む人が直面していた暴力と関係ある。キアーとザックとビンの3人は、家庭内暴力を受けていた。そのことを知っていたビンが、キアーとザックのことに興味を持ち、家庭内暴力に立ち向かうために撮り始めたのがこの映画なのだ。

この映画は、12年間の、キアーとザックとビンとその他の友達たちの映像からなるドキュメンタリー映画だ。その中で特にザックは子供を持ち、自らも家庭内暴力の加害者になってしまう。ザックとその恋人ニナのケンカは、度を越している。

ザックは、ケンカの時にニナを殴る。ビンは、映画中にケガをしたニナの顔を映し出すこともある。ザックは子供のころ父親のロリーに暴力を振るわれていたが、その父親の姿を追うようにザックも恋人に手をあげるようになる。

暴力を振るわれた子供たちが、どのような状態になるのか? それを、この映画は描いている。子供たちはセルフコントロールができない状態になり、すぐにカッとなってスケートボードを壊したりしてしまう。

ただ、そんな少年たちの救いにもなっているのがスケートボードだ。なぜなら、スケートボードは少年たちが、自分の精神をフォーカスして、セルフコントロールを保つことができるようにしてくれる道具だからだ。

またスケートボードは、仲間からの承認のための道具でもある。だから技が決まると、仲間からの激励を受けて喜ぶが、技が決まらないと自分を責めて、その怒りで特にキアーはスケートボードを壊してしまう。スケートボードが、少年たちの怒りを受け止めているとも言える。

スケートボードの癒しは、完ぺきではない。だがスケートボードは少年たちの心を救っている。スケートボードが少年たちの救いであることはこの映画を観ていると、よく伝わって来る。

ザックの祖母は、ローラースケート場を屋内に作りそれを収入源にしていた。それを一時期ザックの父のロリーがスケートパークにして引き継いでいたが、その屋内施設は経営に行き詰まり、店は閉鎖されてしまう。

そのスケートボードの場をザックは再開しようとするが、その事業にも失敗してしまう。ザックの共同経営者が、利益をすべて懐に入れてある日逃げ出してしまったからだ。ザックは借金を負い、電気さえも止められてしまう。

その過程でも、ザックは大酒を飲む。そしてニナとの関係はボロボロになり、ニナとの間の子供エリオットと会えるのは週3回ということになってしまう。映画の終盤でザックは言う。「消えてしまいたい」と。

キアーは黒人であると書いたが、この映画の中でキアーが黒人差別に直面する場面がある。それは仲間内で集まって騒いでいる時で、ある女性が黒人を侮蔑する言葉であるニガーが使われる動画をザックと見ている時だ。

その時のキアーのいたたまれない表情は、映画を観ている人に突き刺さる。その他にも黒人がどのように車に乗ったままで、警察に止められ、銃を向けられているか。そのストップ・アンド・フリスクのようなものが原因で、黒人が実際に警察に射殺されているかも語られる。

また、ビンの家庭でも暴力はあった。ビンは、継父であるデニスに暴力を振るわれていた。それをビンの母親は知っていたが、その暴力を母親がビンのために止めようとすることはなかった。そのことを映画の中でビンは、直接母親に尋ねる。

困惑した表情の母親はビンに対して、「私にはデニスは優しかった。一回首を絞められたことはあったけど」と返す。ビンの母親は、継父からの暴力に怯えていたのだ。そして、自分の子供を守ることができなかった。力が強く経済力があるのは、男だからだ。

まだまだこの映画の中に描かれる酷いことは、たくさんある。弟のためた給料を盗むキアーの兄。ろくでもないキアーの母親の恋人…。

しかしこの映画の救いは、やはりスケートボードだ。映画の最初と最後で流れるスケートボードスケートボードに乗ったビンが多分撮っただろう映像は、歩行するスピードとは違う速さで風景が流れ、観ていて心地よい。これがスケートボードが少年たちに見せてくれる世界ならば、それに夢中になるのもわかる気が、映画を観るものにはしてくる。

ホモソーシャルな社会と、アメリカ

映画「KCIA 南山の部長たち(原題:The Man Standing Next)」を観た。

この映画は2019年の韓国映画で、映画のジャンルは実録サスペンスだ。

この映画のタイトルの、KCIA 南山(ナムサン)の部長たちというのは、韓国に実際に実在に存在した中央情報部のトップである、部長の職に就いた男たちだ。KCIAとは中央情報局のことで、中央情報局は、1961年の5月10日の軍によるクーデターの後に設立された。

朴正煕(パク・チョンヒ)大統領は、その軍のクーデターにより、韓国の大統領になった人物だ。中央情報局は、その大統領の支配下にある。中央情報局は、北朝鮮に対する諜報活動及び工作員の摘発を目的としていたが、反政府運動の取り締まりもしていた。

つまり韓国の中央情報局は、民主化運動の弾圧をしていた、軍事政権の機関だった。

中央情報局の部長は、中央情報局内でのナンバーワンなのだが、その歴代の部長たちはパク・チョンヒと親しい間柄になる。パク・チョンヒが、中央情報局の部長と親しくすることで、部長たちをコントロールする。

パク・チョンヒは、部長に対して「君と起こしたあの革命の日を覚えているか、あの日はいい日だったなぁ」などと言ったりして、部下である部長の忠誠心をくすぐる。いわゆる、ホモソーシャルな関係を築くのがうまいのが、この映画の中のパク・チョンヒだ。

この映画の冒頭に、KCIAの元部長だったパク・ヨンガクが登場する。パク・ヨンガクはアメリカに住んでいて、韓国の軍事政権のリーダーのパク・チョンヒをアメリカの会議で告発する。そして、パク・ヨンガクは、パク・チョンヒについての暴露をした原稿を書き終わっている。

それに当然、パク・チョンヒは激怒して、そのパク・チョンヒの暗部について暴露した原稿を奪えと、KCIAの現部長であるキム・ギュピョンに命令する。その原稿には、KCIA民主化運動の弾圧についても書かれている様子だ。

この映画の、背景に登場するのはアメリカだ。アメリカは、ソ連と対立して朝鮮戦争を引き起こした張本人だ。朝鮮戦争で韓国側についたアメリカは、朝鮮戦争が終わったパク・チョンヒの軍事政権の時にも、韓国の内政に遠巻きながら干渉している。

アメリカの議会への告発が韓国に影響力を持つのは、アメリカが民主主義の国であり、民主主義の国の国民に事実を伝えることが強力な世界的な影響力を持つからでもあるが、それは何より、アメリカの軍事力が韓国に未だに影響力を持っているからだ。

アメリカは世界の各地で、民主化運動が起こると軍事政権を樹立して、アメリカの意のままになる軍事政権を成立させてきた。例えば、チリの独裁者ピノチェトはそのうちの1人だ。フィリピンのフェルディナンド・マルコスもそうだ。グアデラマでは、民主的に選ばれたハコボ・アルベンス政権を、アメリカが倒している。

インドネシアでも、共産主義を支持し民主主義体制を率いていたスカルノは、軍人であるスハルトに主導権を奪われている。また、その時にスハルトは、インドネシア共産主義者の虐殺として多数の人たちを殺している。その事件は、9月30日事件と呼ばれ100万人以上が虐殺された。その虐殺の殺人当事者たちへ迫ったのが、「アクト・オブ・キリング」(2012)という映画だ。その続編として、「ルック・オブ・サイレンス」(2014)という映画もある。

民主主義国であるアメリカは、世界各地で軍事政権を樹立するのを支援しており、韓国の軍事政権もアメリカの意図のうちにあったと考えられる。民主主義の建前を持つ国が、軍事政権を利用して共産主義の拡大を防いでいたのが事実だ。

ちなみに共産主義をとった国は、主にソ連だ。アメリカにとっては市場主義をとらない共産主義が脅威だったから、共産主義に傾きそうな国は徹底的に転覆していった。しかし、アメリカは、市場主義の万能さを否定しているニューディール政策を1930年代にとっており、アメリカの中では市場主義が万能ではないという見識はあった。

アメリカで、市場主義を積極的に採用したいのは誰かと言えば、それはアメリカの多国籍企業だ。多国籍企業は、世界各地に多国籍企業のための原材料を確保したり、工場を作ったり、輸出先を確保するのを目的としている。自由市場は、多国籍企業にとって必要不可欠だ。

アメリカで市場万能主義をとる、多国籍企業やその取り巻きは、第三世界の民衆にとっては悪魔だ。そうつまり、アメリカの意図のもとで動く韓国の軍事政権は、民衆にとって悪魔だ。デモが、この映画で描かれる当時に起こっていたというのは、軍事政権がいかに民衆を愚弄するものだったかを物語っている。

また、多国籍企業は、会社のために、安い原料、安い人材を、必要とする。つまり、多国籍企業には、従業員のために高い給料を払うという動機が、ない。独裁政権下で、人権が蹂躙されている状態で、企業活動を行えば、非人間的な安い賃金で、労働者を雇うことが可能でもある。

この映画では、アメリカの多国籍企業と、韓国との関係は描かれていない。がしかし、韓国は、アジアでの共産主義に対する防波堤の役割をしていたのは、事実だろう。アメリカが、ワシントン・コンセンサスで市場経済主導の政策を推し進めるのは、1980年代半ばだ。アメリカの共産主義との闘いは、世界にアメリカの多国籍企業のための市場の基盤を作るための前哨戦だったのではないか? そんな気もする。

妊娠するということ

映画「Swallow スワロウ(原題:Swallow)」を観た。

この映画は2019年の映画で、映画のジャンルはスリラーだ。

この映画の主人公は、ハンターという女性だ。ハンターは、お金持ちのリッチーという男性と結婚して、ハンターのお腹の中にはリッチーの子供がいることが映画の序盤で明らかになる。ハンターとリッチーの住む家は、アメリカの郊外の豪邸だ。

ハンターは、リッチーの家族のもとに嫁いだかたちになっている。リッチーとハンターが住む家は、リッチーの父親が買い与えたもので、リッチーの父と母は、リッチーに対して影響力を持っている。

ハンターは、リッチーの家族から疎外されている。ハンターの存在は、リッチーやリッチーの父や母にとって、軽いのだ。ハンターは、リッチーやリッチーの父と母に、会話を最後まで聞いてもらえない。とにかく、家族の中でハンターの存在が軽いのだ。

先にハンターは妊娠していると書いたが、ハンターの妊娠がわかるシーンがある。その時は、ハンターはリッチーの家族にちやほやされて、自分の会話の相手を皆がしてくれる。その時はハンターは、皆に愛されている気持ちになることができる。

しかし、その時以外はリッチーの家族は、ハンターをまともに扱おうとしない。当然リッチーも、そうだ。そのせいでハンターは、精神的に追い詰められていく。そしてそのストレスが原因で、ハンターは異食症=パイカになる。

ハンターは飲み込むことが困難で、排泄することも困難なものを、飲み込むことに快感を覚えるようになる。そして特に金属が好きなのだと、精神カウンセラーに明かす。飲み込むのが困難で、排泄するのが困難なものを飲み込む。

それはまさに、リチャードの子供を産むという行為だ。リチャードは金持ちでインテリで、女性から人気がありそうな男性だ。つまりその競争の上では、ハンターはリチャードとの結婚を、つまりリチャードの子供を、困難の中で手に入れたということになる。

この場合、排泄は、出産とイコールだ。リチャードのような人間の子供を産むことは、困難なことだ。なぜなら、お金持ちで頭が良くてハンサムな子供を産むというのは、誰もができることではないからだ。つまりリチャードのような人の、産むのが難しい子供を産むのことの代用として、異物の排泄がある。

そしてリチャードは、金属のように冷たい男だ。

子供を身ごもって産むという行為が、リチャードやリチャードの両親の関心を引くことができて、そこに愛を感じることができる。だからハンターは異食を何回も繰り返し、家族から心配されて、それで異食の症状は和らいでいくのだ。

しかし愛が欠如すると、ハンターはまた、異食の快感を強く求めるようになる。異食が、自分の体を傷つけることになってもだ。そこでリチャードとその両親は、ハンターを施設に入れようとする。そしてそこからハンターは、逃げ出す。

ハンターは、子として愛情を受けたはずだった、父と母のもとへ帰ろうとする。愛情を、受けたはずだった。ハンターの母親は、宗教右派だ。つまり妊娠したら、中絶は許されない。望まない妊娠でもだ。

ハンターの母は、レイプされてハンターを身ごもり産んだ。ハンターの母は、ハンターよりハンターの妹を愛している。父親とは、連絡が取れない。そんな中ハンターは、父親に会いに行く決断をする。父は、自分を愛しているのだろうか? それが、ハンターの思いだ。

ハンターの父は、ハンターに打ち明ける。「自分は全能の神だと自分を思っていた。しかし違った。何をしても許されると思っていたんだ。レイプをしたことは悪いことだと思っている。しかしお前は悪くない」と。

ハンターは、父の思いを知る。ハンターの父は、レイプによって不幸になっていた。望まない妊娠で生まれたハンターは、父にとっての負担になり、母からもうまく愛してもらうことができない。そして何より、子供であるハンターが苦悩する。ハンターは、ある決断をする。

ハンターの父と、リチャードは重なる部分もある。それがわかるのは、自分を全能の神だと思っていたという、ハンターの父の言葉からだ。常務取締役であるリチャードも、自分のことをそう思っている可能性がある。それは、スマホで、ハンターを罵るシーンからも想像できる。

リチャードは、結婚をすましてしまった後、ハンターのことを軽くみるようになっている。そして今や関心は、自分の子供だ。ハンターは、跡継ぎを産む女という位置づけになっている。そこに、ハンターに対する愛情はあるのだろうか? 否、きっとない。

すべての人は、ハンターのような女性に向き合う必要があると思う。映画は、そう語っている。

2021年9月1日アメリカのテキサス州で、「性的暴行や近親相姦による妊娠も含め、妊娠6週目以降の人口中絶をほぼ全面的に禁ずる厳格な法律が発行した」(※1)。この事実は、この映画を観ると何か間違っている気になる。

十代の妊娠、レイプによる妊娠、近親相姦による妊娠。それらによって、ハンターのような苦悩をする人は必ず増える。そのような法律は、必ず人を苦しめるだろう。ただ、ハンターのような生い立ちの人も、容易に受け入れられる寛容な社会が必要なのは、言うまでもないが。

 

※1 2021/09/24「レイプされても堕胎できない」アメリカで奇怪な中絶禁止法が合法になってしまう”やるせない理由” プレジデントオンライン 2021.12.18閲覧https://president.jp/articles/-/50231?page=1

 

www.democracynow.org

生き方の選択

映画「フェアウェル(原題:The Farewell)」を観た。

この映画は2019年のアメリカ映画で、映画のジャンルはドラマ映画だ。

この映画の舞台は、アメリカのニュー・ヨークと、中国のある都市だ。

この映画の主人公は、ビリーというアメリカに住む中国系のアメリカ人の女性だ。

ビリーには、祖母がいる。ビリーは祖母のことを、ナイナイ(おばあちゃん)と呼んで慕っている。映画の冒頭は、ビリーがアメリカから中国にいるナイナイに電話をしている場面だ。ビリーは、ナイナイと仲が良いことがよくわかる。

そんなビリーとナイナイだったが、ある時ナイナイが末期の肺がんでステージ4であることが、中国に住むナイナイの妹から知らされてくる。その知らせを先に知っていたのは、ビリーの父ハイヤンとビリーの母ジアンだった。

ナイナイの余命は3カ月と診断されていて、もしかしたら3カ月より死期が早まるかもしれないとも言われていた。父ハイヤンと母ジアンは、ナイナイのために家族が中国外から集まるので、アメリカのニュー・ヨークから中国に帰ろうとしていた。

ビリーの父と母は、ビリーに中国の家族の集まりに来るなと言う。それはなぜか? ビリーは、感情がすぐ表に出るからだ。中国では癌の患者の死期がわかった時には、本人には死期が寸前に迫った時に伝えるという習わしがあるからだ。死の宣告は、ストレスで患者を殺す。中国ではそう言われていると、ナイナイの妹が言う。

ビリーの家族は、ビリーがナイナイの前で感情こらえきれなくなり泣き出してしまうことを心配して、ビリーの中国行きをやめるようにビリーに言ったのだ。

ビリーはその家族の対応について、疑問を持つ。なぜ患者に、死が迫っていることを伝えないのか? 人は死を知ることにより、本当の生を生きられるようになるのではないのか? みんなで病状を黙っているのは、許されないことではないのか? 中国のしきたりって、一体何なのか? しかも、ビリーだけ仲間外れだ。

ビリーは、30歳だが希望の職業に就くことができていないようだ。奨学金の申請が断れた通知が届くのが、映画の冒頭でわかる。夢を持っているが、その夢を果たすことができていないのがビリーだ。夢とはつまり仕事、定職のことだ。そうそれはアメリカン・ドリームだ。

家族にアメリカ行きを反対されていたが、ビリーは自分で金を工面して、中国の家族の集まりにアポなしで急にやってくる。家族は、ビリーのいとこの結婚式を中国で開くという口実で、家族の集まりが設けられたとナイナイには説明している。

大きな丸いテーブルを囲って家族の食事が行われている際に、家族の一人が言う。「ビリー、アメリカでは100万ドル稼ぐのに何日かかる」と。それに対して、ビリーは言う。「すごく時間がかかる」と。「中国に来れば、100万ドルはすぐに稼げるよ。中国に来なさい」そうビリーの中国の家族は、ビリーに告げる。

映画の終盤で、ビリーに対してナイナイが言う言葉がある。それはこうだ。「人は何を成し遂げたかで人の価値が決まるんじゃない。人はどう生きてきたかが大切なんだ」。ナイナイは、そう言う。ナイナイは、ビリーの抱えるプレッシャーを軽くしようとする。そしてその価値観は、ナイナイにとっての真実だ。

前述したように、中国式の死期の伝え方の背景には、死が人が与えるストレスが、人を死に追いやるという考え方がある。その考え方は、ここで聞き流していいようなものでは実はない。Rupa MaryaとRaj Patelが書いた本に、「Inflamed」(inflamed:炎症を起こして赤く腫れた・激怒した・興奮した)という本がある。そこでは大気の汚染などと同時にストレスが人の病気に影響があり、それらが原因で死に至るということもあるということが、実例をもとに書いてある。

例えば、現地民(Indigenous People)のひとたちが、大気の汚染やストレスで病気になり死に至るという指摘がこの本でされている。現地民の人たちは、多国籍企業に住む環境を汚染され、生活の糧を奪われて、ストレスを受けて死んでいく。

ビリーは、アメリカのニュー・ヨークに住む都会人だ。ナイナイも、中国の都市に住む都会人だ。しかし、ナイナイが子供の頃はナイナイの住んでいたのは、普通の一軒家だ。マンションではない。中国は、急速な経済発展で今の状態になった。

つまりナイナイは、現地民だったと言える。しかも都市化と工業化が原因で、今の中国では大気汚染がある。PM2.5だ。住んでいる家は開発のために取り壊され、住んでいる場所の大気は汚染されている。そしてナイナイは、肺がんだ。大気の汚染が、関係あるとは考えられないだろうか?

つまり、ナイナイは大気の汚染と、開発のために家が取り壊されるというストレスを味わった現地民ということができるのではないか? ナイナイは、中国の汚染とストレスで体を蝕まれてきた一人の人間なのだ。

ビリーは、ナイナイと家族との中国での暮らしを通じて、中国の文化の良いところも吸収していく。ビリーはアメリカ式の死の宣告を支持していた立場だが、その心情が変わっていく。

いとこの結婚式の時に、ビリーはナイナイの忠告を守る。「イヤイヤはだめ。すすめられたら歌を歌う」。ビリーは、このナイナイの忠告に従う。中国式の考えの良いところを、受け入れる。それは移民としてアメリカ化してきたビリーにとっての、もう一つの生き方の選択肢なのだろう。

真実を知っている人

映画「ドリームホーム 99%を操る男たち(原題:99 Homes)」を観た。

この映画は2014年のアメリカ映画で、映画のジャンルは社会派サスペンスだ。

この映画の主人公は、デニス・ナッシュという30代初頭ぐらいのシングル・ファーザーだ。デニスは、コナーという息子と、デニスの母親と共にアメリカで暮らしている。

映画の時代背景は、サブプライム・ローンが焦げ付いて、世界金融危機が発生した頃だ。サブプライム・ローンの、カラクリはこうだ。ローンの返済の信用度が劣る、いわゆる低所得者である一般の人たちに住宅ローンを組ませる。その住宅ローンは、通常の住宅ローンより金利が安く設定されていた。しかも審査基準が緩和されていたので、低所得者でもローンを組むことができた。

住宅ローンの金利は、当初は安く設定されている。そしてその後金利が上がる。住宅ローンの金利が上がった頃に、そのころ住宅バブルが起きていて、住宅の値段が次々に上がっていた背景も、銀行は利用した。値上がりした住宅を売却して借り入れを返済したり、住宅を買い替えたりするのを銀行は勧めたのだ。

金融業界の禿鷹たちは、その住宅ローンを金融商品として売り買いしていた。住宅ローンがなぜ金融商品になるのかはよくわからないが、そこは金融マンの作り出したトリックだ。住宅ローンを商品として、金融業界の禿鷹たちは利益を上げていた。

そんななか、住宅の価格が下落した。そうすると、住宅を売却しても返済の資金にはならずに、低所得者は借金を抱えることになった。そして金融マンの作り出した金融商品も、なんの価値もなくなった。

この住宅価格の値下がりにより、低所得者が借金を返せなくなった2007年ごろから始まったこの状態を、サブプライム・ローン問題と呼んだ。そしてその住宅ローンの下落は、金融商品の焦げ付きを起こし、2008年に世界金融危機が起こった。

この映画「ドリームホーム」は、アメリカの住人が、住宅価格の値下がりにより借金を抱えて、借金を返済できなくなり、自分の家を銀行に奪われ、住む家から退去させられるところから始まる。デニスは、住宅の値上がりによって、住宅を買えばいつかは高く売れるので、家のローンの支払いは必要ないと銀行にそそのかされたうちの一人だ。

デニスは、家を奪われてモーテルに暮らすことになる。モーテルは入るとベッドがあり、寝るだけを目的としている、暮らすには苦しい場所だ。そのモーテルで、住宅の立ち退きの時に仕事に使う工具を盗まれたとして、立ち退きの時にいたモーテルの他の客とトラブルになる。

住宅の立ち退きの手伝いをしているのは、デニスと同じように、住宅ローンの下落により家を取り上げられた人たちだ。そしてその人たちは、家を取り上げる実行行動を請け負っている不動産仲介業者に、雇われている。その業者のボスは、リチャード・カーバーという。

リチャードは、デニスを自分の仲間にして住宅立ち退きを手伝わせる。そのうちに、取り上げた住宅のエアコンなどをとって、そのとったエアコンなどを別の「売りに出す何も設備がない家」に設置して、その「売り出す家には」住宅の設備がないと言って、国にその設備代を払わせるという詐欺を教える。

つまり、立ち退いた人のいない家から設備をとって、別の売りに出す家にその設備を設置し、売りに出す家には設備がないと報告してあるので、売りに出す家に設備をつけるために国が出すお金を、横取りする。

また、設備をとった家には、泥棒が入ったことにして、「盗まれた」設備の費用を国に負担させる。設備を移し替えることで、2重にお金が入る。リチャードは、きれいな服を着た詐欺師だ。金融マンや銀行マンと、あまり変わりがない。

リチャードは、デニスに言う。「女には家を、次々買い与えろ。そうすれば女は、ついてくる」と。デニスは、リチャードの忠告に従う。息子と母親のために、誰か他の人の住宅ローンの下落によって借金が返せなくなって手放したプール付きの豪邸を、リチャードのもとで儲けた金で買ったのだ。

それですべては、ハッピーになるはずだった。しかし、現実は違った。デニスの母親は、デニスが買った物件の事情を知っていた。息子も、その事情を斟酌した。母と息子は、デニスのことを遠ざけるようになる。

家があれば、女は手に入る。そう思っている男たちがいる。確かに家のない男より、家持ちの男の方が魅力的に感じる女性もいる。家は生活するのには欠かせない。それが、広々とした家ならばなおよい。

しかし、すべての女性がそう思うわけではない。ローラ・ダーンの今まで演じてきた役柄に当たるような女性は、不当な手段で手に入れた住宅に喜んで住むようなことはしない。自分が、低所得者でもだ。

彼女は適正な取引について知っていて、そのうえで自分の幸福を、手に入れたいと思っている。彼女の目は、ごまかされはしない。

「家を買う時のローンの金利が安い」「値上がりした家を売ればいい」と言って、住宅ローンを勧めた信用できない銀行。そのローンを、金融商品にした下劣な金融界。政府をだまして、金を手に入れる不動産仲介者。そのすべては、彼女の目をごまかすことはできない。

軍隊が破壊した人格

映画「サム・ペキンパー 情熱と美学(原題:Passion & Poetry:The Ballad of Sam Pekinpah)」を観た。

この映画は2005年のドイツ映画で、映画のジャンルはドキュメンタリーだ。

この映画は、アメリカの有名な監督サム・ペキンパーの生涯を追った映画だ。ペキンパーの性格や人柄が、知人や友人、家族、本人へのインタビューを通して描かれ、ペキンパーが残した映画について軽く触れられ、撮影時の逸話が語られる。

まずこの映画の映像や音楽を通じて伝わってくるのは、メキシコの砂漠の残酷な環境だ。映画中にサソリが画面に登場する。サソリが登場するサム・ペキンパーの映画と言えば「ワイルドバンチ」(1969)だ。

ワイルドバンチでは映画の冒頭でいきなり、子供たちがサソリが蟻に食われて死んでいくのを面白がって見ている映像が映し出される。それが、映画のオープニングの音楽をバックとして流される。

このシーンは、子供の無邪気さの残酷性を描きだすシーンだ。サム・ペキンパーは、人が観たがらない現実をみせる監督だと言っていい。僕たちの生きている世界は、美談に満ちている。

子供は、両親や家族の愛情に包まれて成長する。その子供は、優しく従順で明るく屈託がない。両親は子供を愛し、食事やおもちゃや、教育を子供に施す。家族の闇の部分は、決して人は表立って語ろうとしない。

しかし、ペキンパーの描く映画の世界はそれとは違う。子供はサソリの生命の終わりを嬉々として観察し、保安官や兵士は子供を殺す。ペキンパーの映画の世界は世の中の汚い部分、表面上のきれいさを覆す効果を持っている。

ペキンパー自体が、そういう人だったということもできる。ペキンパーは、ミソジニー、いわゆる女性嫌悪を表立って持っていた人物だ。映画の制作の過程で女性のスタッフをけなし怒鳴りつけた逸話を友人の俳優が語るし、女優の髪を引っ張っている写真が残っている。

ペキンパーの逸話は、ミソジニーだけではない。ペキンパーは、映画「ワイルドバンチ」の撮影移行身を持ち崩していく。原因は酒とドラックだ。ペキンパーは、海兵隊に入っていたこともある。海兵隊では男らしさを求められ、当然のようにそこでは暴力が支配している。

ペキンパーへのプレッシャーが、そこでは感じ取ることができる。ペキンパーは、男らしさという暴力の世界に生きていたのだ。ミリタリー・スクールから卒業して、海兵隊から除隊した後も。

ペキンパーは海兵隊から除隊した後に、歴史専攻で学校に入っている。そこに入学して好きになった女性が演劇をとっていたことから、ペキンパーは演劇の選考に変更することになり、そこからペキンパーの映画監督への道が開かれることになる。

女性好きで、ミソジニーサム・ペキンパーは女性に対して暴力的で、しかし女性がいないとやっていけない。女性が好きなら優しくする、だけではペキンパーは過ごすことができなかった。ペキンパーは、自分の中にある不安を女性に対して暴力的にぶつけていたのだろう。

ペキンパーの映画は、暴力を描いたものが多い。そしてそのペキンパーが、暴力的だ。多分それは、女性や子供に対してだろう。ペキンパーは砂浜に酒を埋めて、それが見つけられなくなり、妻や子供に酒を探させたという逸話も出てくる。つまりペキンパーにとって家族は、支配の対象だ。

ミリタリー・スクールや海兵隊でペキンパーが身につけたのは、支配者としての生き方だ。それは暴力的で自分勝手で、酒やドラックに対するセルフコントロールができずに女性に当たり散らす。

ペキンパーが身につけた処世術は、自分を、そして愛する人たちを傷つけてしまうものだった。ペキンパーの妹はこう言っている。「(ミリタリー・スクールや海兵隊の)あのてのしごきが人間を成長させるというのは嘘よ」と。

厳格な家族のもとで育ち、軍関連の学校で過ごし、兵隊になり、そこで処世術を身につけたペキンパー。監督としては今もなお評価される人物だが、彼も同じコーホートの持つ問題に悩まされる一人の人間だったことは認めざる得ない事実だ。