選択肢の広さ

映画「海を飛ぶ夢(原題:Mar Adentro,英題:The Sea Inside)」を観た。

この映画は2004年のスペイン映画で、映画のジャンルはドラマ映画だ。

この映画の舞台は、スペインだ。この映画の主人公は若いころに海岸の浅瀬に飛び込んで首の骨を折って、四肢麻痺患者になったラモン・サンペドロという男性だ。ラモンには兄のホセと、兄の妻マヌエラ、2人の子供のハビ、そしてラモンとホセの父親がいて、ラモンの介護をしている。

ラモンは四肢麻痺患者となっていて、自らの死を望む人間だ。ラモンには自分の体が不自由になる前の20代そこそこの自由な記憶が残っていて、その記憶の鮮烈さが今のラモンの不自由さを強調している。

ラモンは、だから過去を思い出すのが苦痛だ。スペインの社会では尊厳死は違法となり、社会的モラルに反発するものであるから、ラモンが尊厳死を宣言すると世の中の話題となり、キリスト教の偉い人もラモンを説得するという事態が起きる。しかしラモンにとって尊厳死こそ希望を見出す未来だし、過去は前述したように忘れていた喜びを思い出させる苦痛だ。

ラモンを巡る女性が存在する。一人はフリアという女性弁護士で、自らも脳血管性痴呆という病気を患っている。もう一人はロサという女性で、子供が2人いて離婚をしていてマイナーなラジオ局のDJをしている女性だ。

2人の見た目が対照的なのが印象的だ。フリアは、白人で髪が金髪だ。それに対してロサは、黒髪に黒い瞳で体に力強さを感じさせる女性だ。フリアが、病気でほっそりとした体格をしているのとは対照的だ。

フリアは、ラモンのことを愛する。愛しているがゆえにラモンが口でペンを持って書いた詩を本にして出版した際には、出版する本のサンプルと致死性のある毒薬を持ってくるとラモンに誓う。それに対してロサは、ラモンに生きて欲しいという。ロサはラモンにテレビを通じて生きる力をもらって以来、ラモンに会うたびに生きる力をもらうからというのがその理由だ。しかし愛するがゆえにロサは、最終的にラモンの死に手を貸すが。

ラモンは首を折ったことにより、性的に不能になっている。ラモンが浅瀬に飛び込むと、ラモンが浅い水面を通り抜けて地面にぶつかる映像が、時折映画の中でインサートされる。それは、まるで女性器にうまく侵入できないインポテンツの性器のようでもある。そのシーンは、ラモンの不具を現わしているかのようだ。

ラモンは性的な喜びを奪われているが、それと同時に想像力を手に入れている。邦題の「海を飛ぶ夢」というのはラモンの想像力のことを、現わしている。海がラモンの部屋の窓からは見えないが、ラモンは想像力で海まで山を越え野を越え飛んでいく。想像力が、いったんラモンをベットから切り離すように映像化される。しかし、ラモンはその想像力とは対照的にベットから離れることができない。

なぜラモンは、映画の最中、死を考えることをやめないのか? それはラモンの人生で、体が自由な時が強烈に幸福だったからだろう。映画中にラモンの不能を現わしている海の映像がインサートされることからも、ラモンが肉体的な喜びを強く知っていて、それを求めていたのが暗示される。

ラモンの家族はラモンに死んで欲しくはないと思いながら、ラモンの死への旅立ちを涙ながらに見送る。ラモンの介護が生活の中心にあった家族にとって、ラモンの不在は強烈な印象を残しただろう。

ラモンの死はラモン自身を開放して、ラモンの家族を介護から解放した。そしてスペイン人に、死への解放を示した。ラモンは、自らの死を選択するという自由を手に入れた。そしてそれには、ラモンを引き留める力も働いた。そのバランスがこの映画を観やすいものにしているのだろう。

現実に目覚める

映画「オープン・ユア・アイズ(原題・スペイン語:Abre los ojos)(英題:Open Your Eyes)」を観た。

この映画は1997年のスペイン映画で、映画のジャンルはスリラー・覚醒モノといったところだろうか。この映画は2001年にアメリカで「ヴァニラ・スカイ(原題:Vanilla Sky)」というタイトルでリメイクされている。このリメイク版では主人公をトム・クルーズが、ヒロインをスペイン版と同じペネロペ・クルズが演じている。

この映画の舞台はある都市で、その都市に住むセサールというハンサムで金持ちの25歳の青年がこの映画の主人公だ。セサールはいわゆるモテる男で、車を3台持っているようなお金持ちのプレイボーイだ。

セサールは、一人の女性では満足することのできない男性だ。ある日、一晩を共にした女性ヌリアをぞんざいに扱う。その女性の車に乗ったセサールは、ヌリアの無理心中のような車の事故に遭遇して、ヌリアは死亡して、セサールは顔に重度の怪我を負う。

セサールは事故で醜くなった顔で、ヌリアを捨てて、入れ替え不可能な捨てることのできない、ヌリアを捨てる原因となった女性ソフィアに会いに行く。顔が醜くなったことにより自信を喪失しているセサールは、ソフィアに素直に名乗ることができずソフィアに当たり散らす。

酒におぼれたセサールは、泥酔して路上で寝てしまう。その後、なぜか冷たくしたソフィアが自分を受け入れてくれ事態は一変して、今度はセサールはどうでもいい女であるヌリアと、真実の女ソフィアの幻覚に悩むことになる。

真実の女=自分が本当に愛することのできる女=ソフィアと、どうしても愛することのできない女=どうでもいい女=ヌリアの区別がつかなくなっていく。つまりそれは、女性という存在を心から愛することのできないセサール自信を現わしている。

顔の怪我が手術により回復した幻想をみているセサールは、自信満々に女性をソフィアとして愛することができる。しかし、自分の顔が事故後の醜い顔に戻ったとたん、女性をヌリアとしてみるようになる。自分を肯定できないセサールは、女性を真実の存在として愛することができない。

映画中、セサールの幻覚は進み、何が現実で何が夢かわからない状態にセサールは陥っていく。しかしそれは、実はセサールが冷凍保存中にみた夢だったのだ。セサールは、冷凍保存をしてくれるL.E.という会社と契約をしていた。

冷凍保存された人間は、未来の科学で再び生き返ることができる。その未来の科学技術では、傷ついたセサールの顔を直すこともできる。2145年の未来にセサールはL.E.のデュペルノワという男性に、今見ているのは夢だから起きるように促される。その生き返りは、夢の世界での死という形をとる。

セサールの生き返る未来には、当然ソフィアは生きていない。セサールは夢の中で現実に起こったことと、想像された夢をみている。現実は、セサールがソフィアに拒否されて泥酔して自殺した時点で終わっている。その後の続きは冷凍保存中のセサールの幻想で、2145年の未来にソフィアが生きているという保証はない。多分、ソフィアが生きているということはないだろう。なぜなら、冷凍保存は金持ちだけが受けられる処置だったのだから。

ソフィアのいない未来に、企業のイメージがセサールに現実を生きるように促す。最愛の人がいない未来でセサールは蘇るのか? その現実とは、企業に支配された現実なのだろう。それは、過去も未来も同じことだ。セサールは、現実となった未来を企業の支配下で生きるのだろうか? セサールは、セサールを夢から起こした企業の人物の支配下で生きることになるのか? その未来がもしあるのならば、それはこの映画の続編になるのだろう。

企業の作り出したイメージの中で生きているのは、セサールも私たちも同じことかもしれない。第3世界を搾取して、作り上げあられた現実を、安全なものに加工処理するのが、企業だ。

セサールは企業の作り出したイメージの中で、”夢の女”であるソフィアを愛した。真実の愛は、実は“夢”だった。企業が作り出したイメージの中で、それに沿ってセサールはソフィアを愛した。夢の女であるソフィアがいなくなり、セサールには、企業が作り出す虚構から抜け出す機会が与えられる。

それは、セサールが冷凍保存中に見た夢の苦悩の成果が、生かされるかどうかの分水嶺だ。夢の女がいなくなった世界で、セサールは企業の作り出すイメージ=夢から脱して、真に真実の生き方をするのか? それともまたソフィアを探すのか? それがこの映画の核心だ。

もちろん、セサールがソフィアを探すのならば、それはセサールの企業に対する敗北だろう。

底抜けの前向きさ

映画「ビルとテッドの地獄旅行(原題:Bill & Ted’s Bogus Journey)」を観た。

この映画は1991年のアメリカ映画で、映画のジャンルはSFコメディだ。

この映画は、1989年の「ビルとテッドの大冒険(原題:Bill & Ted’s Excellent Adventure)」の続編で、2020年の「ビルとテッドの時空旅行 音楽で世界を救え!(原題:Bill & Ted Face the Music)」の前に公開されている。

このビルとテッドシリーズでは、ビルとテッドが公衆電話の形をした電話ボックスでタイムトラベルをするというのが基本のベースになっている。「大冒険」でも「地獄旅行」でも「時空旅行」でも、公衆電話型のタイムマシーンが登場する。

そしてこれらの映画のすべてに共通するのは、ビルとテッドの馬鹿ぶりだ。「地獄に落ちたらメガデスのレコードやるよ」「ここ地獄だろ」「あそっか。じゃあやるよ」。何なのだろうか? いったいこれは?

ビルとテッドは底抜けに馬鹿なのだが、2人は底抜けに前向きだ。「地獄旅行」では、ビルとテッドは自分たちと同じ姿かたちの未来の反乱者でダーズベイダーの服みたいなのを着たデ・ノロモスに作られたロボットに殺されてしまう。

自分たちの体から幽体離脱したビルとテッドは、その状況に落ち込んでしまう時間というのが短い。未来からの使者という非現実的な者を受け入れるのも早かったが、自分たちの死という越えられないはずの現実を越えようとする。

「死んでしまったみたいだな」「よしじゃあ生き返らせてもらおう」。ビルとテッドは前向きにことに向き合う。ビルとテッドには深い思考というものがないから、物事を固定観念に縛られて思考することがない。それがビルとテッドの強みになっている。

ビルとテッドはラストシーンは、ステージの上で展開するというのがお決まりになっている。「大冒険」でも「地獄旅行」でも「時空旅行」でもそれは変わらない。ビルとテッドは、未来にロックで世界を救うというのがこの映画の前提だ。だからステージはこの映画では外せない。

ステージで演奏されるのは、ビルとテッドが好きなメタル音楽だ。ビルとテッドは、ギターを抱えて早引きのギタープレイを披露する。「大冒険」ではまだプレイは下手だが、「地獄旅行」ではトレーニングをしたということになっている。

しかしだ。痛快なギタープレイの音声とビルとテッドの手と指の動きは合っていない。しかしビルとテッドの体の動きは激しく、音声と体の動きの激しさ、そして合わない手と指の動きが観るものをなんだかわけのわからないが楽しい気分にさせる。

ビルとテッドは「エクソシスト」や「スター・ウォーズ」や「ターミネーター2」からの引用のセリフやシーンが観られる。お馬鹿なビルとテッドが、馬鹿なことを言いながら、非常にまじめな映画の引用をすると、その元ネタとなった映画の馬鹿さが浮き上がる。

ビルとテッドは観るものを笑いと脱力の世界に導く。そこには、底抜けの愉快さが実はある。“世界を救う”という大真面目さが、ビルとテッドにより骨抜きになりつつも、こんな人物なら世界を救えるかもしれないと思わせるアンビバレンツさがこの映画にはある。

Both Sides Now

ジョニ・ミッチェルのボース・サイズ・ナウを訳してみました。

映画「コーダ 愛の歌」でも、主人公のルビーが、バークリー音楽大学に受かるためのの実技の入学試験の時に、家族に向かって、手話を使って歌っていました。

 

 

 

今、両側を

 

 

天使の髪の氷原を漕いで

空気の中のアイスクリームの城

どこまでも、羽根の渓谷

私はそのように雲を見ていた

 

だけど、今、雲は太陽を拒むだけ

雲は、みんなに雨と雪を降らせる

私がしただろう多くのことに

でも、雲は自分の道を手に入れただけ

 

私は雲を見ていた、今は両面を見る

上から下から、そしてまだなんとかして

その雲は幻想、私は思い出す

私は実は雲のすべてを知ることができない

 

月と6月そして観覧車

あなたが感じるめまいがするダンスの方法

すべてのおとぎ話が現実になることとして

私は愛の道を見ていた

 

だけど今は、それはただ他の見せ物のよう

あなたは彼らに笑われて去る

そして、もしあなたが関係しなかったら、彼らは知ることができなかった

あなた自身をどこかに与えないで

 

私は愛を見ていた、今は両面を見る

与えて、与えられて、まだどうにかして

その愛は幻想、私は思い出す

私は実は愛のすべてを知らない

 

涙と恐怖、誇りを感じている

“あなたを愛している”と素直に叫んで言うこと

夢と図形とサーカスの群衆

私はそのように人生を見ていた

 

だけど今、古い友達は奇妙に演じる

彼らは彼らの頭を振る、彼らは私は変わったと言う

そう、何かを失うこと、だけど何かを得た

毎日生きている中で

 

私は人生を見ていた、今は両面を見る

勝つことや失うことから、そしてまだどうにかして

その人生の幻想、私は思い出す

私は人生のすべてを実は知らなかった

 

私は人生を見ていた、今は両面を見る

上から下から、そしてまだどうにかして

それは人生の幻想、私は思い出す

私は本当に人生のすべてを知らない

 

 

原詞です↓

jonimitchell.com

 

曲です↓

www.youtube.com

既成概念の逆転

映画「ビルとテッドの大冒険(原題:Bill & Ted’s Excellent Adventure)」を観た。

この映画は1989年のアメリカ映画で、映画のジャンルはSFコメディだ。

この映画はシリーズ作となっている。この映画「ビルとテッドの大冒険」が第一作目で、その次に「ビルとテッドの地獄旅行(原題:Bill & Ted’s Bogus Journey)」(1991)、そのまた後に「ビルとテッドの時空旅行(原題:Bill & Ted Face the Music)」(2020)が作られている。今回紹介するのは第一作目の「ビルとテッドの大冒険」だ。

この映画「ビルとテッドの大冒険は」簡単に言えば、歴史の試験に落第点のFが付きそうなので、公衆電話型のタイムマシーンに乗って歴史上の人物を現代に連れてきて、歴史の試験の発表をサポートしてもらうというものだ。

この歴史の試験の問題は「今現在のカリフォルニア州サンディマスを歴史上の人物がみたら何というか?」というもので、それを会場で参加者の前で発表するという形をとる。この試練を受けるのはビル・プレストンとテッド・ローガンという仲良しのバンド2人組で、もし試験が落第点ならテッドは警官である父親にアラスカの王立陸軍学校に送られてしまい、2人の中は切り裂かれる。

そこでその試験の手伝いをするのが未来からの使者だ。2688年のサンディマスからやってきたルーファスという使者は、2人が試験に合格するのを助けようとする。なぜなら未来は2人の作る音楽にかかっているからだ。

この映画はルーファスたち未来人の観点から観ると、とても分かりやすい。未来人がなぜ2人を助けるのかは映画の最後でわかるのだが、その理由を先に知っておくと映画が深く楽しめる。

この映画はおバカ映画というスタンスをとっている。ビルとテッドがとにかく馬鹿なことしか言わないのだ。中世のイギリスに行って鎧を着て、「俺たちメタリックだよね、メタルだ」と言うとメタルが流れる。

ソクラテス無知の知のことを「俺たちのことだよね」と言う。ソクラテスの無知の地は思考を重ねていくうちに発見された概念なのに、2人は何も知らないことを知っていることという単純な理屈でとらえる。ある意味あっているが。

セリフはビルが「お前馬鹿だなー」を連発するし、それに対して「あ、そっか」とテッドが返すもの間抜けな感じだ。2人はガレージでバンドにエディ・ヴァンヘイレンを入れよう、そしたら最高の音楽ができるんじゃねぇ、と言ってビデオを撮っているが、それはそれで他力本願だ。

しかし、そんな2人が世界を救うのだ。それは未来人ルーファスが、最後に教えてくれる事実だ。それはなんだか良いことのような気がしてくる。なぜなら2人は大成しようにも馬鹿だから角が立たないからだ。世界を救うのが天才だと、競争の勝者である彼らには同情が向きにくくなる。

馬鹿な2人なら、映画として愛することができる。なぜなら彼らは馬鹿だから、妙な劣等感を観る者が感じなくていいからだ。天才には敵ができるが、馬鹿には敵ができない。そしてある意味馬鹿は純粋に映る。彼らに嫉みはないように映るからだ。

そんな2人が未来を救う。なんだかいいような気がしてくる。なぜなら彼らは競争の敗者であり、敗者が世界を救うなんてそこには落差が感じられ、学歴重視の世界観からは何か痛快な解放がみられるからだ。

この映画は未来を救うのは、一体どんな人物? という観点から観るのがとてもいい。それは僕らの中の救世主観を変えるし、その観念の逆転のようなものがこの映画にはあり、それは学歴社会へのアンチテーゼにもなっているからだ。

音響は映画のかなめ

映画「ようこそ映画音響の世界へ(原題:Making Waves:The Art of Cinematic Sound)」を観た。

この映画は2019年のアメリカ映画で、映画のジャンルはドキュメンタリーだ。

この映画は、主に3人の音響デザイナーを中心として進んで行く。音響デザイナーと映画そして映画監督との関係、映画の音響の技術の移り変わりを94分という映画としては比較的短い時間に収めたのがこの映画だ。

3人の音響デザイナーとは時代順にウォルター・マーチベン・バート、ゲイリー・ライドストームだ。他にも女性の音響に関する仕事の人が出てくる。音響の世界では女性の活躍もみられる。映画監督は依然として男性が多いが、音響の世界は女性が活躍することができる場所であるかのようにこの映画では描かれている。

ここでは映画のメインとして大きく取り扱われる先に挙げた3人の音響デザイナーを通して、映画の音響の移り変わりを解説していきたい。

まずウォルター・マーチであるが、彼は映画「ゴットファザー」や「地獄の黙示録」の音響のデザインをしたことで有名だ。マーチは、1953年ごろのパリの具体音楽と同じことを子供時代にしていたと語っている。

そのマーチの子供時代に作った音楽とは、ラジオの音声を録音して、そのテープを切り離してつなげて、それを再生したり、逆回転で再生したりするものだった。それはいわゆるジョン・ケージのような実験音楽を思わせるものだ。

いつか具体音楽をやりたいと思っていたマーチは、映画会社に入社して具体音楽をする機会を得る。それは実験音楽の作曲者として表に出るというよりは、映画の裏方に回るといった感じだったが。

マーチはゴットファザーで主人公が人を殺す際に主人公の気持ちを表すために音響を用いた。それにより映画のそのシーンはより迫力があるものになっている。

マーチの次に映画で紹介されるのは、ベン・バードという人物だ。ベンは、映画スター・ウォーズの音響デザイナーをしたことで有名だ。スター・ウォーズはコンピューターで作られた音ではなくて、実際に街のあちこちで採集した音を使って映画音楽が作られている。

チューバッカの声は、熊の子供から採った音が使われている。その他にもバートはスター・ウォーズの音響デザインのために、1年をかけて効果音を集めている。どの音をどこで採ったかは、地図にしめされている。バードは、コンピューターの作った音を使わなかった。

その後に紹介されるゲイリー・ライドストームは、ピクサートイ・ストーリーの音響デザイナーをしたことで有名だ。トイ・ストーリーの音響ではコンピューターが全面的に使われた。またジュラシック・ワールドの音響もライドストームの音響デザインで、コンピューターが使われている。

映画音楽の世界は男性の世界かと、この映画の主要な流れを見ていくと思われるかもしれないが、実は音響の世界で活躍する女性は思ったよりは多い。パット・ジャクソンがメインとして女性代表といった感じで登場する。

例えば映画の撮影で野外で撮影した時に、映画に登場すると映画の意味合いが変わってしまうような音響は取り除かれなければならないが、その作業に長けていて音響のデザインを見事にこなし評価された女性もいる。親子で音響の世界で活躍する2人の女性といった人物もいる。

トーマス・エジソンが蓄音機を発明した1877年から始まり映像と音楽を一つに合わせる努力がなされた。声と効果音を映画に合わせるのだ。初期の映画では、声と効果音はスクリーンの裏で実際に出されていた。

その後映画と音響が統一された後は、例えば時代劇の撮影に現代の音が入り込んでしまわないように防音の施設が使われた。その後音響の世界は、ラジオで先に発達する。その音響の空間的使い方を先に行ったのがオーソン・ウェルズだ。

映画スタジオは音の量産を行った。先にあらかじめ効果音を作っておくのだ。それで映画は工業製品のようにあらかじめ作った音のストックが使いまわされた。そのような状況に不満を抱いている人たちもいた。その中の一人は先に紹介したベン・バードだ。

その他にもサウンドシステムが、マルチトラックになったことも映画にとっては画期的だった。役者一人一人にマイクをつけたのだ。また映画のスピーカーを部屋を囲むように置いて、音の配置をするようになったのも画期的なことだった。

映画音楽は映画の出来を左右する。この映画の中に登場する有名監督のスピルバーグジョージ・ルーカス、コッポラはそう伝えている。映画音楽は映画のかなめだ。音響のない映画はどこか物足りない映画ではない映画ということができるかもしれない。

 

愛の連鎖

映画「ビルとテッドの時空旅行 音楽で世界を救え!(原題:Bill & Ted Face the Music)」を観た。

この映画は2020年のアメリカで映画で、映画のジャンルはタイムスリップ・ミュージック・コメディだ。

この映画の主人公は、ビルとテッドという売れないバンドの2人組とその家族だ。ビルには、ジョアンナという妻とティアという娘がいる。一方テッドには、エリザベスという妻とビリーという娘がいる。

この2家族は、カリフォルニア州サン・ディマスに住んでいる。映画の舞台は、このサン・ディマスの土地だ。

映画では、映画の冒頭で女性が乗ったタイムマシーンが現れる。2720年の未来のサン・ディマスからやってきた未来人ケリーが、そのマシーンに乗っている。ちなみに、ケリーにも別れた夫がいる。その夫は、殺人マシーンにケリーの母親によって変えられている。

この映画では、偉大な音楽家たちが登場する。1967年のロンドンのジミ・ヘンドリックスに始まり、1922年のニューオリンズルイ・アームストロング1780年のウィーンのモーツァルト、紀元前2600年の中国のリン・ルン、1万1800年前の骨で打楽器のようなものを叩くダロム、そして現在(2020年)のキッド・カディだ。

この人物たちは、最高のバンドを作るために集められる。このバンドを集めるのは、ビルとテッドの娘であるティアとビリーだ。ディアとビリーは父親たちの音楽が好きで、父親たちの作った曲の断片をつないだりしている。つまり、父親たちの曲をミックスしているのだ。

さて映画のストーリーだが、ビルとテッドは1989年に1回時空旅行をしており、その時空旅行の際に現在の妻を1400年代の中世から探し出している。その時のビルとテッドに授けられた指令は「君たちの音楽で世界を一つにしろ」というものだった。

その指令が2020年の現在再び、未来からの使者ケリーによってもたらされる。前作で、ビルとテッドは世界を救ったはずだったが、実は世界を一つにする曲を2人は作ることができなかったのだ。

ビルとテッドは未来に呼ばれて、楽器と部屋を与えられて「ここで未来を救うために曲を作りなさい」と言われる。未来の予言では、ビルとテッドが未来を救うという予言がされているのだ。しかし予言には、もう一つある。ビルとテッドが死んだとき、世界は未来は救われるというものだ。

ビルとテッドは、自分たちで世界を救う曲を書く自信がない。よって2人は予言があるのだから、未来の自分たちが世界を救う曲を書いてるに違いないと言い、未来にタイムトラベルすることにする。この辺りがなんとも情けない父親といった感じがするが、2人は真剣だ。

ビルとテッドは、映画の冒頭で、結婚式で自分たちの曲を演奏する。新曲の発表だ。娘たちはその曲を絶賛するが、結婚式に集まった人の評価は芳しくない。なぜなら2人の音楽は、ロックのイメージと離れすぎているからだ。

ロックは、通俗的な音楽で大衆に親しまれる。金持ちの音楽ではなく、労働者階級の音楽だ。それらの大衆はピエール・ブルデューディスタンクシオンという本によると、感情に訴えてくるような音楽を好む。それに対してビルとテッドの音楽は高尚過ぎるのだ。ビルとテッドの音楽は、いわゆる音楽マニア向けの音楽だ。そしてマニア向けの音楽とは感情に訴えるというよりは、感情から遠ざかることを良しとする音楽だ。

この映画の最後では「世界を一つにする音楽」が提示される。それが、映画の答えになっている。世界を一つにする行為、それが音楽だったというのがこの映画のオチだ。

この映画のビルとテッドは音楽のことしか考えていない。一見ダメな中年だが、娘には尊敬されている。なぜならビルとテッドは自分たちの好きなことに一生懸命だからだ。そして家族を、彼らは愛しているから。この愛が、世界を救うヒントになる。