内と外

映画「サーミの血(原題:Sameblod)」を観た。

この映画は2016年のスウェーデンデンマークノルウェー合作映画で、映画のジャンルはドラマ映画だ。

この映画の主人公には2つの名前がある。1つ目の名前はエレ・マリャという名で、2つ目の名はクリスティーナ・ライレルという名前だ。

ざっくり言ってしまうならば、前者のエレ・マリャという名前はサーミ人としての名で、後者のクリスティーナ・ライレルという名はスウェーデン人としての名だ。サーミの名とスウェーデンの名という2つのIDを持つ人物は1人の少女であり、少女が年老いた姿が現在のエレ・マリャ=クリスティーナだ。

サーミ人はスカンディナヴィア半島の北部からコラ半島に至る地域に住むとされる人々だ。サーミ人のことを蔑称でラップランド人という。この映画の中でもサーミ人たちをラップランド人と呼ぶ、スウェーデン人たちの姿が映し出される。

スウェーデン政府はどのような扱いを、サーミの人たちに対してしていたのかがこの映画の中で見られる。

サーミの人たちをラップランド人と呼び、動物扱いをするスウェーデン人たち。サーミの子供たちにスウェーデン語を強制に近い形で教えて、サーミの生徒たちをラップランド人の記録用のサンプルとして扱うスウェーデン政府。

北欧と聞くと連想されるのが、洗練されておしゃれで福祉が充実しているというイメージだろう。しかし、現実ではスウェーデンでも差別が存在している。

主人公のエレ・マリャは、サーミ人として生まれて、スウェーデンの暮らしに憧れる少女だ。時代は1930年代。まだ第2次世界大戦がはじまる前、舞台はスウェーデン。“劣った人種”としてみられているサーミ人という立場から何とかして逃げ切り、“一人前の人”として認められることを夢見る。エレ・マリャ。

エレ・マリャはある時電車で寄宿学校から抜け出して、自分の担任の教師の名を名乗り、スウェーデンの一人前の人として振る舞い始める。そしてクリスティーナの名を得たエレ・マリャはサーミの文化をすててスウェーデンで暮らす。

この映画では、サーミからの別離とサーミへの帰還が描かれる。

この映画の原題はスウェーデン語のsameblodで直訳すると、サーミの血という意味だ。サーミの血はこの映画の日本語タイトルでもある。

この映画は社会的な差別によって自らの血を呪うしかなかった女性の、癒しの映画ともいえるかもしれない。ただ生まれただけの存在でありながら、社会的風潮によって自分の存在を否定する目にあってしまった女性の悲劇。

ここで立ち現れてくるのは、人はなぜ内と外に分けるのが好きなのかということだ。内でも外でもない立場に人々は存在することができるはずだ。

金と権力に支配された人物

映画「バイス(原題:Vice)」を観た。

この映画は2018年のアメリカ映画で、栄華のジャンルは伝記・コメディ・ドラマだ。

この映画の主人公は2001年の9月11日のテロにあった当時に、アメリカの副大統領だったディック・チェイニーという男だ。

このディック・チェイニーという男は、イラク戦争ブッシュ大統領を影で操ることにより行った人物だ。この映画はディック・チェイニーの若い時期から始まる。ディックは名門イェール大学を酒とケンカで退学処分にされて、肉体労働の仕事をしている。

妻のリンからはこれ以上お酒とケンカでライフプランが建てられないような状況になったら別れましょうと怒鳴られる。

映画のナレーションではディックはクズ同然だと言われる。実際にディックはイェール大学は卒業できなかったものの、ワイオミング大学は卒業して大学院まで進んでいる。

ピッカピカのエリートという道筋はたどっていないが、学問的に本当にクズだったかは疑問が残る。

この映画はブッシュ大統領の下に仕えたディック副大統領のことをクズ呼ばわりするのだが、内容的には一応ディックのことをただの馬鹿野郎ではなく、権力欲に憑りつかれた人間として描いているようだ。

ディック・チェイニー共和党の議員だ。となると保守的な価値観を持つ人たちに支持されなければならない。ディックの娘のメアリーは同性愛者だ。するとディックは立場的に微妙になる。

なぜなら共和党を支持する有権者は同性愛を支持しないし、場合によっては同性愛を嫌うからだ。ディックは同性愛に対してどういった態度をとるのか?政治をとるのか?家族をとるのか?

答えは、言ってしまえばディックは良い父親ではなかったということだ。

ディック・チェイニーは9.11テロの例外的状況とでも呼ぶ状況で、政府のコントロール権を握っていた。ディックは政治家になって大統領候補になった頃から、すでに大統領に権力が集中するような状況を望んでいた。

それはアメリカの法律から導くことが可能な考え方で、一元的執政府論というものだ。要するに大統領がすべてを決定できますよという考え方だ。主権者である国民をさしおいて。

チェイニーは、副大統領は行政部にも立法部にも当てはまらないという考え方をする。要は副大統領はフリーで何でもできる状態ということだ。国民のコントロールが届かないのが副大統領(Vice)だ。

ディックはCIAが拷問により聞き出した情報を使って、イラク戦争に突き進む。イラクにテロリストがいるという情報を無理やり引き出してだ。そしてイラクの復興支援にはディックのCEOとしての勤め先である会社ハリバートンが関わっている。

ディックは信念で動いたのか?ディックを動かしたものは金と権力ではないだろうか?

成長期にみられる善と悪の葛藤

映画「スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け(原題:Star Wars:The Rise Of Skywalker)」を劇場で観た。

この映画は2019年のアメリカ映画で、映画のジャンルはSF(サイエンス・フィクション)だ。

スター・ウォーズという映画はシリーズ物の映画だ。この映画「スカイウォーカーの夜明け」は、スター・ウォーズ・シリーズの第9作目になる。スター・ウォーズの9作からなる物語をスカイウォーカー・サーガという。

スカイウォーカー・サーガは3つの部分からなり、その3つがそれぞれ3つに分かれる。

1977年から1983年に制作されたエピソード4,5,6がオリジナル・トリロジー

1999年から2005年に制作されたエピソード1,2,3がプリクエル・トリロジー

そして、2015年から2019年に制作されたエピソード7,8,9がシークエル・トリロジーだ。

つまりこの映画「スカイウォーカーの夜明け」は、スカイウォーカー・サーガの最後の作品で、この映画でスカイウォーカー・サーガは一応完結することになる。

この映画の主人公はレイという女性だ。レイはフォースを扱うことができるライト・サイドの人物だ。フォースというのは人知を超えた超越的な力のことだ。

フォースには正義の面であるライト・サイドと、悪の面であるダーク・サイドがある。ライト・サイドの騎士たちのことをジュダイ・オーダーと言い、ダーク・サイドの騎士たちのことをシス・オーダーという。

ライト・サイドとダーク・サイドとは、騎士の内面の状態のことだ。正義の面を持つ騎士はジュダイの騎士となるし、悪の面に落ちてしまった騎士はシスの騎士となる。

この映画に登場するレイと、カイロ・レンという男性は、ともにライト・サイドとダーク・サイドの間を揺れ動くことになる。

人は誰でも内面に葛藤を抱えている。正義の面と悪の面の。レイは正義の側から、悪の側に引きずりこまれそうになるし、レンは悪の側から正義の側へ上昇しようとする。

この映画の主人公レイの内面の揺れ動きが、映画の中で描かれている。

スター・ウォーズは映画の中でもスペース・オペラというジャンルに入る。宇宙空間で騎士が戦い囚われの美女を救出するという物語が、スペース・オペラの典型だ。

この映画の中での囚われの美女とはレイ自身だ。ダーク・サイドに囚われたレイは、再びライト・サイドに戻ってくる。ダーク・サイドに落ちた囚われの自身を再びライト・サイドに戻すのがこの映画の主人公であるレイだ。

ダーク・サイドに囚われて、再びライト・サイドに戻るレイ。人は誰もが内面に善と悪の葛藤を抱えている。そして悪に染まりかけた自分を救うのは、仲間と自分自身だ。

肌の色が境界線?

映画「ブラック・クランズマン(原題:BlacKKKlansman)」を観た。

この映画は2018年のアメリカ映画で、映画のジャンルは伝記刑事犯罪映画だ。

この映画の主人公はロン・ストールワースという黒人初の警察官で、ロンの伝記を基にして作られたのがこの映画だ。

アメリカに住む黒人というイメージからすぐに浮かぶのは、例えばヒップ・ホップだったり、ソウルだったり、R&Bだったり、ブルースなどの音楽が連想されるかもしれない。アメリカは周知の通り、白人が先住民のインディオを殺し、インディオを隔離して作られた国だ。

そしてその国の農耕の労働をする者として連れて来られたのがアフリカ大陸からやって来た黒人奴隷だ。

ここでわかるのは、アメリカの白人たちは、インディオや黒人たちを搾取してきたという歴史だ。この場合の搾取とは、土地ののっとりや、強制労働、強制移住、そして虐殺だ。

この映画の背景には黒人差別がはっきりと見てとることができる。

この映画の舞台は1970年代のアメリカだ。当時は、アフリカ系アメリカ人公民権運動が行われていた。公民権運動のリーダーとして知られるマーティン・ルーサー・キング牧師が殺されたのは1968年の4月4日だ。

この頃から数年しか経っていない1970年代にも、黒人の権利は制限されたものだった。黒人というだけで白人は見下し、規律のための番人であるはずの警官も、職務質問して黒人女性の体を不用意に触りまくるというようなことを平気でやっていた様子がこの映画の中でも描かれている。

1950年代から1960年代にかけて黒人の公民権運動は高まっていったが、その後黒人の地位が差別のない状態に確立されたとは言えない。

この映画の最後には黒人への根拠なき憎悪が原因と思われる映像が流れる。現在は、インターネット上に動画という形で映像が溢れている。以前は瞬時でわかる説得力ある映像というのは写真だったが、現在ではスマホで動画を簡単に撮ることができる。

この映画のラストの黒人の権利を主張するデモに、車が猛スピードで突っ込んでいく映像は、我々の生きる時代のいわれない憎悪を浮かび上がらせる。白人至上主義という他人種からの白人の地位の優越性を主張する見方が現在には存在する。

アフリカ系アメリカ人公民権運動がブラック・パワーだとすると、こちらはホワイト・パワーと表現されているようだ。少なくともこの映画の中では。

この文章の中で白人対黒人や白人対インディオという図式を立てたが、白人にも北欧系、アイルランド系、イタリア系など様々あり、黒人と言っても様々な人がいるし、インディオは様々な部族からなるのは周知の事実だ。そうなると、一体全体境界などは、あてにはならないのではないかという気もするのだが。

コントロールで自立は生まれない

映画「ビューティフル・ボーイ(原題:Beautiful Boy)」を観た。

この映画は2018年のアメリカ映画で、アメリカ合衆国で出版された「Beautiful Boy:A Father’s Journey Though His Souls Addiction」という本が原作となる伝記映画だ。

この映画は薬物依存症であるニコラス・シェフとその家族を描いた映画だ。ニコラスの父はデヴィットで、母はヴィッキ、父の再婚相手はカレン、父と父の再婚相手の子供はキャスパーとディジーだ。ちなみに母のヴィッキの方もパートナーがいる。

この映画の内容は本のタイトルからわかる通りで、父デヴィットの息子の中毒を通しての物語(=旅)だ。

この映画の中で、薬やアルコールは問題ではない。問題は別の所にあり、薬やアルコールは問題からの逃避でしかないと言われる。そしてこの映画の中では、このような言葉も見られる。

「私が誘因ではない。私には管理できない。私には治癒できない」と。

まず、ニコラスの父と母は離婚している。その穴を埋めをするかのように、父のデヴィットは息子を愛情と言いながらコントロールしようとする。そのコントロールに耐えることができなくて、ニコラスは増々薬物依存になっていく。

つまり、問題は薬やアルコールではなく、父親の過剰なコントロールにある。父親のコントロールの元にあった子供は、何が良くて何が悪いのか自分で判断する力を欠いている。父はそれを知りより過剰に息子をコントロールするが、息子が依存症から脱するためには、息子自身の決断が必要だ。

父が決めても息子は決めることができない。息子に決定を委ねる時期がきて、息子に判断を委ねようとしたときには、息子は経験不足で自壊していく。よって親は知らねばならない。判断はその人個人でしかできないし、判断を与えることはできないと。判断を与えることは強制になり、非力な決定力を維持させるだけだと。

この映画の中に登場する薬物は最も危険な薬物と言われるクリスタル・メスだ。この薬物は脳にダメージを与える。脳のダメージが脳の感度を鈍らせ、より多くの量の薬物接取に向かわせる。こうなると、薬物の量は増えるばかりだ。

判断する父が息子のすべてを決めてしまうと、息子は何もできない青年へと成長する。コントロールは、人の自立を遮る。

薬物は人を早く死に向かわせるものだ。薬物依存の人たちは言う。「世の中なんてくだらない」と。確かにそうなのかもしれない。日々のニュースを観ていると、世界が嫌になりそうな時など誰にでもある。

しかし、人生には希望が見える時があるし、もしかしたら、その希望はまだ訪れていないだけかもしれない。生きることは虚無ではないとも言えるのだ。

魂は贈り物

映画「ベン・イズ・バック(原題:Ben Is Back)」を観た。

この映画は2018年のアメリカ映画で、薬物依存者とその家族や麻薬を供給するグループについての映画だ。この映画の主人公はホリーという女性だ。ホリーはニールと結婚しており、ホリーとニールの間には、それぞれ2人ずつの連れ子がいる。

ホリーの連れ子はベンとアイヴィーで、ニールの連れ子はリアームとレイシーだ。この映画のタイトルにあるベンとは、ホリーの連れ子の長兄だ。

映画はベンが薬物治療の施設から出て、実家に帰ってきたクリスマス・イヴから始まり、クリスマスの朝に終わる。クリスマスにはベンの命が贈られることになる。ベンの肉体に。それがこの映画のクライマックスだ。

この世界には人間が中毒になる物質があり、中毒が元で死に至る物質もある。ベンがはまっていったのは中毒になると死に至る薬物だ。アメリカでは大麻は合法である州もある。大麻マリファナとも呼ばれる。

マリファナに依存症はないのか?マリファナに依存性はある。あるデータによると、マリファナの依存症を示す値は10%だ。これと比較するために、いくつかの合法的なものの例を上げるならば、アルコールの依存率は15%、煙草の依存率は32%だ。これに比べて非合法的なコカインの依存率は17%だ。

マリファナは依存率が煙草やアルコールと比べて低いと言える。常用することによる肉体への影響だが、煙草は肺がんの原因となるし、アルコールは肝臓を壊す、マリファナは集中力の低下の原因になる。しかし、マリファナが原因で病気になるとは聞いたことがない。

マリファナは煙を吸い込むものなので、肺に悪影響を与えないのだろうか?

ところで、ベンの依存していたものは上の例で言うと、コカインのようなものなのだろう。コカインは即効性の致死へ至る物質だ。しかしなぜベンは薬物に依存するようになったのだろうか?

ホリーはこの映画の中で、ベンが薬物に走るようになったのは、ホリーとベンの父親との離婚が原因だと言っている。つまりベンは自分の環境の急激な変化に耐えることができなかったのだ。

社会学では、社会的地位や役割の移行に注視する見方もある。人は役割の請負が変わる時に、文字通り危機的移行を経験する。ベンも父親の喪失に等しいような現実に今までの子としての役割の変化を受け入れることができなかったのだろう。

それにベンのような10代後半や20代、30代といった年頃は、エネルギーが有り余る時期だ。日々変化していく肉体と精神に、大きな動揺と性的なエネルギーが行き場を見失うことになれば、誰もがベンのようになりうる可能性はあるのだろう。

イメージを保ちつつ、革新的であること

映画「魂のゆくえ(原題:First Reformed)」を観た。

この映画は2017年のアメリカ映画で、映画のジャンルはドラマ映画だ。この映画の背景には、プロテスタント系の教会とエネルギー事業会社との癒着があり、一方には牧師と信者との間の恋愛が描かれる。

まず第1のプロテスタント系の教会と企業との癒着は、教会の運営の財源として企業からの献金があると言うことだ。教会が支持を得るためには、美しい教会が必要で、美しく壮大な教会には、人件費等のお金がかかる。

一方企業の方は、自社のイメージアップのために教会に献金したがるし、教会の信者が自社製品の購入をしてくれればなおうれしい。企業と教会は持ちつ持たれつの関係で互いに離れることができない。

この映画に登場するような環境破壊を促進するような企業でも、財源となっている限り協会は友好関係を持ちたがる。つまり、教会は倫理を重んじているようなイメージを一般に持たれているのにも関わらず、その裏で地球環境を破壊する活動を支持しているとこの映画では描かれる。

教会の持つ聖のイメージがある。これは多くの人々の間に抱かれているイメージだ。しかし、このイメージに対する裏切りを行なっている教会を人々が教会は善だと信じいてるとするとどうだろう?

この時教会は自らに問い質しはしないのだろうか?「我々は正しいことをしているのか?」と。

教会の持つイメージには、性的に潔癖であるというものもある。教会に性欲は存在しないかのように世の中では振る舞われる。教会の牧師となれば、人と出会う機会も多い。その中で牧師は、自らの禁欲を保つことができるのか?

牧師となる人間は性的に穏やかであると生物学的に言えるのか?牧師となる人間は性的に禁欲することに目覚めている人たちなのだと。

教会は倫理的に間違っていてはいけない。この問題は映画中に常に問い続けられる。そして映画のクライマックスで、この問題にある答えが指し出される。それは教会の人間だって、ただの人間じゃないか!?というものだ。

教会から人々押し付けられるイメージには、例えばこの映画で描かれるように、環境に優しくなければならないとか、教会は禁欲しますというものもある。この教会の持つ、不整合な倫理は、どれもこれもが守らなければならないものではないし、また、破ってはならないものもある。

それを見定めるのは、一人一人の判断だ。そしてその判断の集結も必要になる。既存の枠組みにとらわれ過ぎないこと。常に革新的であること。それが必要なのだろう。