連載 アナーキー 第1回

 ①

アナーキーという言葉をご存じだろうか?

アナーキーという言葉は元々、左翼エリート内で使われていた用語である。これを一般に広めたのは、あるパンク・ロック・バンドである。

その名はセックス・ピストルズ

セックス・ピストルズがレコード会社大手であるEMIの元で出したシングル「アナーキー・イン・ザ・U.K.」は1976年にリリースされた。また、1977年10月ヴァージン・レコードの元で発表されたオリジナル・ファースト・アルバム「勝手にしやがれ(原題:Never Mind the Bllocks)」にこの曲は収録されている。

セックス・ピストルズには他にも「ゴット・セイヴ・ザ・クィーン」というシングル曲を持っている。この曲は全英シングル・チャートで2位を獲得した。この曲はBBCのラジオ・チャートで1位を獲得したがBBCの発表ではこの時の1位の座は空欄になった。

またアルバム「勝手にしやがれ」もチャートで1位を獲得している。

1977年当時セックス・ピストルズは少なくともイギリスでポピュラリティーをある程度持っていたバンドだったのである。

 

 

ゾンビ映画を通じた家族物語

映画「カメラを止めるな!」を観た。

この映画は2017年の日本映画で、映画の前半はゾンビ映画を撮影中に本当にゾンビが出現してしまったというゾンビ映画が描かれる。映画の後半では、そのゾンビ映画ができるまでとその映画の撮影の舞台裏が描かれている。

前半はホラータッチだが、映画の後半はコメディだ。

この映画のあらすじを大ざっぱに言うとこうだ。映画監督の日暮隆之はテレビ局から無茶な企画を依頼される。その依頼とは、生中継でワンカットのゾンビ物の映画をテレビ向けに撮れというものだった。

最初は乗り気ではなかった隆之だが、映像の分野に進むことを志している娘の真央が好きな男性俳優が出演するということを知った隆之は、映画の製作を決意する。

そのテレビ映画のタイトルは「ONE CUT OF THE DEAD」だ。映画の俳優には個性的なメンバーがそろっている。アルコール中毒の中年俳優や、子持ちで不倫をしている女優。自分のわがままを事務所が嫌がると言って通す主演女優。考えすぎで映画の製作をさまたげようとする主演の男性俳優。

彼らは様々なアクシデントを乗り越えて1本の映画を仕上げる。

映画では俳優陣が個性的で、悪く言うとわがままな設定になっているのに対して、映画の影の主人公のカメラマンやメイクの人たちは非常に映画に、台本に、番組に忠実な態度をとる。

この映画を観ている人には、この映画の影のスタッフたちは、非常に賢く、強く、信念に基づいて生きている人たちに見える。

この映画のスタッフたちを象徴するのが、映画監督の日暮隆之と、その娘真央と、妻晴美だ。彼ら彼女らの家族ドラマを描くことにより、影のスタッフたちの内面や日常を描き出すことにこの映画は成功している。

映画監督の隆之の家族に感情移入すればするほどこの映画が楽しくなるだけでなく、この映画の背景に隠されているものが明らかになる。つまりこの映画で隠し味になっているのは日暮一家の家族物語だ。

家族物語がその他のスタッフの家族物語があることを連想させる。メイクの家族、カメラマンの家族を連想するといったように。

映画で日暮監督は、映画というフィクションを使って、真実を告げる。「嘘をつくのはよくない」「作品を作り上げることが大切だ。作品の解釈は作品を観る側のものだ」と。

映画の前半で作品の完成したものを見せて、後半ではその完成に、より深みを持たせるドラマを描く。この映画は映画を観る者それぞれに、映画の観かたを教えてくれる。

無法者の住む世界

映画「ウインド・リバー(原題:Wind River)」を観た。

この映画は2017年のアメリカ映画で、スリラー・ドラマ・ガン映画だ。この映画の舞台はワイオミング州にあるウインド・リバーという名の先住民保留地だ。

この先住民保留地は、厳しい自然環境で、容易に人の居住を許すような土地ではなく、従ってこの地域には警察官の数も少ない。つまり広い土地に数人しか警官がいないということは、その地域にもし無法者が住んでいたらやりたい放題ということだ。

警官が応援を呼ぼうとしても呼ぶことが無理な土地だ。警官の力が届かない土地がウインド・リバー先住民居留地だということになる。

この映画の主な内容は、そのウインド・リバー先住民居留地に無法者がいて、レイプ事件と殺人事件が起こり、捜査しようにも警察も応援が呼べないし、不利な状況の中でどうするかというものだ。

表向きには一応公正なことをしてくれる警察が機能しない土地で、どう無法者やならず者たちと対決していくかというところにこの映画の焦点は絞られる。

要はこの映画の設定は西部劇と同じなのだ。この映画の中には「カウボーイを殺す奴が俺のヒーロー」という文字が映し出されるシーンがある。カウボーイとは何を指すか?アメリカ白人のことだ。そのアメリカ白人とはもちろんアメリカ先住民の人たちの土地を奪っていった白人たちのことだ。この言葉は、ただアメリカ白人たちがアメリカ大陸で行った残虐な殺戮の事件を示す言葉なのだ。

さてこの映画のクライマックスでは、レイプされ殺された娘を持つ父親の姿がみられる。子供には父と母がいる。子は生物学的な両性の配合でしか今のところ生まれない。人間を目の前にした時明らかなのは、その人には父と母がいる(いた)ということだ。その父母がどんな人物であるか子供には関係ないとしても。

この映画の主人公であるコリー・ランバートという野生生物局のハンターは、無法者の住む世界、そして厳しい自然の両方で生き抜くすべを知っている人物だ。コリーは自分の娘を失っている。

先住民の保留地であるウインド・リバーでは、寒さが非常に厳しい。寒さで呼吸すらできない。ウインド・リバーのマイナス30度の寒さの中で走った人間は、息は凍り付き、肺胞が割れ、その後いくらかの過程を経て血を吐き死ぬ。マイナス30度の世界に逃げ場所はない。

この映画を観た時、映画「アメリカン・スナイパー」の登場人物であるスナイパー、ムスタファを思い出した。無法者たちが住む世界とは一体どのような世界なのだろうか?

支配は無秩序を生む

映画「焼肉ドラゴン」を観た。

この映画は2018年の日本映画で、1969年から1971年までの大阪の朝鮮から渡って来た人たちが多く住んでいる貧しい地域を描いたドラマ映画だ。この映画の中心となるのは、大阪空港の傍にある地域の一家族だ。

この家族は夫婦と3人の娘と1人の息子とから成る家族で、2番目の娘には家族同然の後にその娘の夫となる男性もいる。

さて一体なぜ、朝鮮から日本へ人々は渡って来たのだろうか?新天地での成功を求めて?そういう人たちもいるだろう。もしくは住む場所が無くなってしまったため?そうこの映画で描かれる家族は朝鮮での居場所を失ってしまった人たちだ。

この映画の中で家族の父は語る。「私たちは済州島事件で住む場所が無くなり、日本へ来ました」と。済州島事件とは、朝鮮半島の南にある島である済州島で起こった、島民の虐殺事件だ。

一般にこの事件の期間は1948年4月3日から1954年9月21日とされている。この期間に3万人の島民が死んだとされている。他の説では1948年から1957年までに完全に事件が鎮圧されたとされている。ちなみにこの1948年から1957年までの間に殺された島民の数は8万人だ。

この済州島の事件の背後には、朝鮮半島の南北分断がある。1948年には韓国と北朝鮮ができた年だ。南はアメリカ、北はソ連がバックについている。この時期は占領が行われている最中で、治安も政局により不安定になっていた時期だと思われる。朝鮮半島の混乱の時期だったのだ。

この混乱の元となったのは、国と国との間の戦いであり、国による人々への抑圧だ。国を指向する権力者たちが、なわばりを争う。人々はただ平和を望んでいるだけなのに。

済州島事件での虐殺は、国が南北統一を望む人たちのことを左と決めつけて排除しようとしたことに原因がある。例えばアメリカで行われた共産党員狩り=赤狩りのように。人々は確かに南北統一という形で国という共同体を求めていたのだろう。

しかし、国は国でも支配者が民衆である国と、支配者が一部の選民による場合とでは話が違う。支配者は自ら望んで支配の座から降りようとはしない。

ならば平和を望む人たちが傲慢なのか?それとも支配を望む指導者層が傲慢なのか?無秩序は政府が作り出すものだとレベッカ・ソルニットは著書「災害ユートピア」で述べた。そして政府の生み出した無秩序のケースに、済州島事件も当てはまるのではないか?

権力がコントロールする

映画「1987、ある闘いの真実(原題:1987)」を観た。

この映画は2017年の韓国映画で、1987年に起こった韓国の民主化運動の特定の期間を描いた映画だ。

1987年当時の韓国にはチョン・ドゥファンという非民主的な大統領がいた。この大統領に対峙するのは中央権力に、共産党とか北側(北とは北朝鮮のこと)と呼ばれるような人たちだ。

当時の政権に立ち向かって行ったのは表立っては主に学生たちだ。韓国の各地にある大学の生徒たちが、より民主的な制度を求めて、あるいは自由を求めて、反政府の立場に立ってデモをした。

1987年はその反政府運動の1つの屈折点だった。国民の間に高まっていた民主化の機運は、韓国の大学生のパク・ジョンチョルの政府による拷問による死亡の発覚により高まり爆発した。

都市では学生や労働者たちが警備隊と衝突した。警備隊は催涙弾を直接デモ隊に向けて撃った。催涙弾とはいえど、局所に当たれば死に至る。映画の最期にはそのようにして死んだ学生の写真が映し出される。

この映画は前半部分は、検事と治安本部と大統領府の闘いが描かれるのかと思われるように進むが、後半部分に入るとガラリと雰囲気が変わって、恋愛映画のように見えるようになる。前半部分では国の機関内での闘いが描かれるが、後半部分は1つの家族、そして1組の恋人たちに焦点が当たるようになる。大局観である前半部分に対して、後半部分はミクロの世界を描いているかのようだ。

しかしこのミクロの世界の中は、その他の多くの人たちが共感できるような物語によって成り立っている。ミクロの世界、つまり恋人の間の愛。恋愛だけではない。家族の愛もこのミクロの世界のものだ。

政治という大きな視野からは小さくて見えなくなってしまうミクロの世界。そこには、少年や、少女や、夫を亡くした女性や、家族未満の在り方をする人たちが描かれている。そのような世界が描かれているからこそ、この映画を観る人はこの映画をより近しくこの映画を捉えるようになる。

この映画は1987年の民主化運動が描かれているが、この出来事の7年前には同じ韓国で民主化運動での悲劇として光州事件が起こっている。これは政府軍と学生との間の衝突で、市民に多数の死傷者が出る事態となった。

国があると必ず上層があり、上層の人たちはいつもコントロールが好きだ。上層はコントロールすることに捉われるあまりに、人々を抑圧する。そしてその反動で市民が立ち上がる。それにしても上層はなぜコントロールしたがるのだろうか?上層の人たちは孤独な実存の寂しさの埋め合わせにコントロールしたがるのかもしれない。

トランプ大統領とキリスト教福音派の関係についての、ボストン・グローブの記事の訳

キリスト教福音派の反トランプの論説を越えた論争はエスカレートする

 

エレナ・ショア― AP通信 2019年12月22日午後7時24分

 

(写真下)

トランプ大統領トニー・パーキンストニー・パーキンスは、ファミリー・リサーチ・カウンシルの会長である。クリスチャン・トゥデイ誌は、トランプの福音派の批判であるトランプの解任を求めた呼びかけをし、トランプの福音派の批判に声を与えた。しかし、福音派のリーダーたちは、大統領への彼らの抱擁をきつくした。

チェリス・メイ/ニューヨークタイムズ

 

クリスチャン・マガジン紙のトップがトランプの大統領職からの解任を呼びかけた。その呼びかけは鳴り響き続けている。そしてその呼びかけは政治的な騒ぎを引き起こしている。日曜日、100人以上の保守的なキリスト教福音派は、トランプの周囲でさらに結束を強めた。

 

クリスチャン・トゥデイ・マガジンの社長への手紙の中で、キリスト教福音派のグループは反トランプの論説を書いた編集長のマーク・ガリを叱った。その論説が載ったクリスチャン・トゥデイ・マガジンは木曜日に出版された。そのなかで、トランプ支持のキリスト教福音派の人たちは、トランプ大統領と同じように彼らのキャラクターを風刺され描かれた。

 

”市民としての、そして道徳的な義務を、誠実に行なう、トランプ支持のキリスト教福音派の人たち。彼ら、1000万の信者たちのクリスチャンの証明と精神の誠実さに貴方の社説は攻撃的に質問した。”と、トランプ支持のキリスト教福音派の人たちは、クリスチャン・トゥデイ・マガジンの会長ティモシー・ダリンプルに、手紙を書いた。

 

有名なトランプ支持のキリスト教福音派の人たちのグループからの新しい攻撃。その攻撃主の中には、トランプのキリスト教福音派のアドバイザリー会議の多様なメンバーも含んでいる。トランプの再選の希望のきわめて危険な証明ができる、クリスチャン・コミュニティーの区分からの、トランプの長い期間のサポート。そのサポートの中に、ひびを入れた、いくらかの意味あるトランプ大統領のバックの人たちによるなかなか消えない意識の信号。クリスチャン・トゥデイの社説の目覚めの中で、キリスト教福音派の人たちの間に現れた新しい反トランプの感情は、世論の高まりではない。トランプ大統領は、主流派のマガジンを非難する容赦ないツイートを金曜日に発射した。その主流派のマガジンは1956年に故ビリー・グラハム牧師によって創立された。そしてビリー・グラハムは左翼のとりこになっている。

 

日曜日マガジンの社長へ送られた手紙は、社説の結果として読者や広告の収益を失うことになるクリスチャン・トゥデイ誌への隠れた警告もまた含んでいる。その社説では、先週のトランプ大統領の弾劾からの引用がある。

 

あるキリスト教福音派のエリートとしての、ガリ自身のガリによる過去のキャラクター化を引用して、手紙の著者はダリンプルにこう言った。”下記の署名者により、これらに代表されたようなキリスト教福音派の声になる傾向のある、貴方のマガジンが出版されるかどうかかを決めるのは貴方の出版物だ。印刷やオンラインでの出版を読み、広告し、購読すべきかは私たちのようなキリスト教福音派が決める。歴史的に、私たちは貴方のマガジンの読者だった。”

 

手紙の署名者の中には、ワールド・アッセンブリ・オブ・ゴッド・フェロウシップの会長であるジョージ・ウッド、チャーチ・オブ・ゴッドのティム・ヒル牧師、元アーカンソー知事でグランド・オールド・パーティー会長候補のマイク・ハッカビー、そして元ミネソタ・グランド・オールド・パーティー代表のミシェル・バックマンがいる。その他の署名者サミュエル・ロドリゲス牧師は、クリスチャン・トゥデイ誌の会議の役員を務めていて、トランプ大統領キリスト教福音派のアドバイザーでもある。

 

ガリは日曜日のCBSの”国民の顔”で言った。ガリの見解ではトランプ大統領が、大統領職を去るチャンスはあると。再選に失敗するか、上院議員による次の弾劾で有罪になることのいずれかによって。”この点で多分公平さはスリムである”として。編集長は、保守的なポリシーを、トランプ大統領が容認することに酔った、キリスト教福音派の課題のために交換した、”トランプの道徳的なキャラクター”の、キリスト教福音派の寛容さを試す、キリスト教福音派の仲間ための呼びかけよりも、”政治的な判断”を少なくするとしてガリの社説を守った。(解説:トランプはキリスト教福音派の保守的な政治的思考を取り入れた。それにキリスト教福音派は満足だった。しかし、キリスト教福音派は、それにより道徳的に問題のある大統領の非道徳性に寛容さを示す結果となった。我々のポリシーを受け入れてくれるなら大統領の非道徳性に眼をつむろうと。キリスト教福音派の人たちは、この点に突っ込まれるくらいならとして、ガリの社説を許した。)

 

”私たちは聖者を探しているのではない。私たちは個人的な罪を背負っている。ふるまいの継続的なパターン。それを私たちのプライベートな生活で私たち自身に明らかにし、それに私たちすべては取り組んでいる。”ガリは日曜日に言った。”しかし、大統領は公的なキャラクターや公的な道徳性の信頼できるレベルを露呈する公的な人物として明らかな説明責任を負っている。”

 

ガリはダリンプルへの日曜日のキリスト教福音派の手紙へ言及した。

 

副大統領マイク・スペンスのチーフ・スタッフである、マーク・ショットは、”フォックス・ニュース・サンデー”によるトランプ大統領への社説の告発について尋ねた。マーク・ショット自身、有名なキリスト教福音派のクリスチャンだ。彼は、投票区の多くの人たちに大統領が好かれるようにするのを助ける、いくつかの政治的ポジションを引用した。

 

”私たちの多くのために、私たちの多くは今週、我らが救世主の誕生を祝っている。大統領は、千もの類似した非計画的な妊娠を救う助けをした。その方法を私たちは見た。マーク・ショットは日曜日にこう付け加えた。”この大統領よりイスラエルの素晴らしい味方はいない。”

 

およそ10人中8人の白人のキリスト教福音派プロテスタントは、トランプ大統領の彼の仕事をこなしている方法に彼らは賛同すると言う。AP-NORCセンターでの12月の意識調査によりそれは示されている。

 

トランプ陣営は1月3日にマイアミで”トランプのためのキリスト教福音派”と呼ばれるイベントを計画している。

 

 

ボストン・グローブ紙の記事原文

https://www.bostonglobe.com/news/nation/2019/12/22/evangelical-tussling-over-anti-trump-editorial-escalates/uFcGDt772zTAk9lDG7zqEM/story.html

お金はどこまで必要か

映画「クレイジー・リッチ!(原題:Crazy Rich Asians,中国語:摘金奇縁)」を観た。

この映画は2018年のアメリカ映画で、ロマンティック・コメディ映画だ。この映画の主人公はレイチェル・チュウという経済学の教授で、レイチェルはニコラス・ヤンという男性と付き合っている。

レイチェル・チュウは母子家庭で育った女性で、知的ではあるが金銭的にずば抜けてリッチというわけではない。教授なのである程度成功してると言えるが。中国からお腹の中にレイチェルを宿してアメリカに来た母は、裸一貫からアメリカで小さな成功を手にした女性だ。

これに対して彼氏のニコラス・ヤンの家はシンガポールに住む大富豪で、小さな成功者であるレイチェルの母とヤンの母とでは持っている額に大きな差がある。

シンガポールという国はお金持ちが住む街なのだが、その生活ぶりは桁外れだ。大きな家、何棟もマンションを持っていて、高級車を乗り回し、移動する飛行機はファースト・クラスでリクライニングのソファのようなものにベッドまで付いている。シンガポールはお金持ちが住む街だ。

この映画は知的だけどちょっとだけリッチなレイチェルが、超ド級の金持ちであるニコラス・ヤンという玉の輿を捕まえると言う内容だ。

当然のようにこの映画にも枷があって、その枷とはアメリカ的な個人の情熱を追うレイチェルを受け入れない、中国的な家族を重んじるヤンの母の存在のことだ。

それにしてもなぜ人はこのような映画を好むのだろう?なぜそこまでもお金を求めるのか?それは簡単である。労働していくら稼いでも貯金できないような実生活の存在があるからだ。

人は不労所得を得ることに憧れる。そしてその時その良し悪しは問われない。問われたとしても、「お金は生きることを保障してくれる」位で、お金の存在の良し悪しの問いは終わってしまうだろう。

なぜお金がないと生活できないような状態に陥っているのかを人は問おうとしない。それでは人はお金による階級にまつわる羨望や嫉妬、裏切りなどを認めていることになってしまう。

なぜ貧しい人に物が行かずに、金持ちの方へ者が集まる仕組みを受け入れてしまうのか?人はなぜ金持ちやスターのようなゴールを仕立て上げてそれに追随してくのか?このような疑問がふつふつと沸き起こってくる。

なぜ貧しい者までもが金持ちを夢見るのか?お金に執着する人などほっておいて、自分たちで自足的な生活を生み出そうとなぜ人はしないのか?それは、つまりお金は本当に必要なのか?