イメージの反転

映画「バース・オブ・ネイション(原題:The Birth of Nation)」を観た。

この映画は2016年のアメリカ映画で、黒人奴隷制度が常態化していた19世紀当時に、白人の作った奴隷制に反して戦いを起こしたナット・ターナーの伝記映画だ。

この映画のタイトルは「バース・オブ・ネイション」というが、これはD・W・グリフィスが1915年に撮った黒人差別を全面的に擁護する映画のタイトルと同じだ。その1915年の映画の邦題は「國民の創生」という。(邦題は2016年の方がバース・オブ・ネイションで、1915年の方が國民の創生)。

國民の創生という映画では、黒人は馬鹿で悪いから正義である白人が懲らしめてやらなければならないという白人至上主義的な態度で作られた映画だ。そして2016年のこのバース・オブ・ネイションという映画では、その関係性が逆になっている。

つまり白人は暴力的で愚劣で汚い人間だから、黒人が正さなければならないという見方で観ることができる。

白人を優位に扱うか。それとも黒人を優位に扱うか。それがこの2本の映画にある明白な違いだ。

この映画バース・オブ・ネイションは黒人の差別を描いている。國民の創生では黒人を差別することは肯定されて、バース・オブ・ネイションでは黒人を差別することに対しての否定が描かれる。

そしてこのバース・オブ・ネイションには女性への差別も描かれている。この映画に登場する女性は、白人であっても黒人であっても、男性にしいたげられている。レイプされ、暴力を振るわれ、半人前として扱われる。

白人の女性はハウス・キーパーとしての役割しか与えられない。白人の女性は家の中にいるべきものとしてこの映画バース・オブ・ネイションでは描かれる。黒人の女性も、白人の女性同様に白人男性の性的欲求のはけ口になる。

ナット・ターナーの奴隷主であるサミュエル・ターナーの元にやってきた客人はセックスの相手にと黒人の女性奴隷を指し出すように要求する。この黒人女性には夫がいるが、もしこれが白人の男性間ならば決して起こらないことが起こり、妻であるこの黒人女性は白人男性の性の奴隷となる。

白人の間では禁じられていることが、黒人と白人の間でならOKになる。つまり暴力は白人から黒人に対してならば承諾可能なのだ。白人と白人の間ではダメ。白人と黒人の間でならばOK。

白人は自らの社会がもたらす禁欲によって生じる抑圧された欲求のはけ口を黒人に対してむき出しにする。

ナットは白人の世界をがんじがらめにしているキリストの教えから、自らの陥った地獄のような世界を明確に自覚する。そしてナットはキリスト教とアフリカの神を持つ者として死の世界へ旅立つ。